りんごをひとかけ

その日は定期検診で病院にいた。

採血のために処置室に呼ばれ、腕をまくったところで看護師さんに

「朝、何も食べてないですよね」と確認される。

私は あっ、と朝の所行を思い出して、

「そういえば朝6時頃にりんごをひとかけ食べちゃいました」と告げた。

看護師さんは滑舌の悪い私の言葉を2.3度聞き返し、私がりんごをひとかけ食べたことを申告していることが確認できるや否や、部屋中に響き渡るような声で高らかに笑い出した。

「あっはは、何それ!おもしろすぎる!りんごなのね!」

私があっけにとられている横で、看護師さんはお腹をかかえている。

私は朝、確かにりんごをひとかけ食べた。

娘の朝食用のりんごを切りながら、いつもの手癖でつい、まな板の上からその皮を拾って食べたのだ。

それを知らない看護師さんのなかで、「空腹に耐えかねた人間がりんごをひとかけ食べる図」は、いったいどんな想像力でもってしてどうユーモアを得たんだろう。

または私の贖罪の内容が「りんごひとかけ」であったことが彼女の琴線に触れたのだろうか。

看護師さんはしばらく笑ったあとで威をただし、「あーおもしろい、ごめんなさいね。書いとかないとね」と言ってwebカルテに「りんご…を…ひとかけ…」と丁寧な手付きで入力していった。

不整脈の頻度やらポリープの数やら、脂質の異常値やらがならぶカルテのなかで、その「りんごをひとかけ」の文字列はひときわ異質な光を放っていた。

わあ梶井基次郎の檸檬みたいだ、と私が見とれていると、当の看護師さんは今度は「あらっ!ひとかけが変換できないわ」と賑やかだ。

たしかに変換候補のプルダウンリストには膨大な数の「かけ」の同訓異字が並んでいるものの、ひとかけの「かけ」とは一文字なら何だろうと私も考え始めた。

看護師さんはしばらくチャレンジしたあとで、「あ~、まあ別にこれ自体書かなくていっか。りんごだしね。」と言って威勢よくDeleteキーを押し始め、「りんごをひとかけ」のワードは見る間にカーソルに吸収されていった。

私は「ああっ!!消さないで!」と頭のなかで叫んでしまったけれど、その悲痛な声も、笑い続ける看護師さんの朗らかな声にすぐにかき消されてしまった。

その日は朝から、負の感情や思考が暴走して増殖して止まらなかった。暮らしのこと、仕事のこと。病院につくころには、私は私の思考にやられて疲弊しきっていた。

でも帰り道、私は別の人間になったように体が軽かった。行きで降りた駅は、帰りで乗るときは違う駅のように見えた。

心が不調のとき、とにかく人に会って会って会いまくる、という対処法をとる人は少なくない。私はそうはなれないだろうと思ってきた。

でもその病院の帰り、雨で水嵩をました川の細い人道橋を渡りながら、こういうことなのかなとも思った。

人に会う。会って、元気な人から元気をもらうわけでも、優しい人から優しみをもらうわけでもない。共感し合うわけでも、議論を交わすわけでもない。

とにかくそこに人がいる。そのことで、「りんごをひとかけ」が思わぬ情景を呼び起こしたり、輝きを放つ場所に置かれたりする。そういうことが暮らしということなのかもしれない。

電車に乗ると11時半だった。午前休をとっていた。

妙に早く同僚たちの顔がみたくなって会社へと気持ちが急いたが、人ごみでも久しぶりにめまいを起こさなかったこの状況をもっと楽しみたいとも思って、駅構内の会社員で混雑した定食屋に入った。

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