子育て失敗と母に言われて

私が高校生になった頃、母から頻繁にこんなことを言われるようになった。「私は子育て失敗した。ごめんなさい。」お皿を拭きながら。テレビを観ながら。なんの文脈もなく、ふとしたときに母はつぶやくのだ。
社会人になってから、職場のランチのときに何気なく母のこの発言について触れてしまった。「お母さんの不思議発言」のような話題のときに。
同年代の女性4人が集まる場だったが、みな一様に引いていた。「お母さんエグすぎない?」「あなたが失敗作だって言ってるようなもんじゃん。よく耐えられたね」



これは実のところ、私には全く思いもよらない反応だった。思いがけず場がしめっぽくなったため、慌てて話題を変えた記憶がある。

母の言葉はたしかに、近年の自己肯定感を育む育児(←よく分かっていない)の観点からすれば、NGワードの筆頭に来るものなのかもしれない。
でも、言われた当人が、10代の私がどう感じたか。私は実のところ、怒りや失望は微塵もわかず、新鮮な驚きをもって母の言葉を受け止めていた。
まず、母が「子育て」という言葉を使ったのが意外だった。「子育て」とは10代の私にとっては、生命維持よりも社会的な倫理性の育成を意味するものだった。
ところが私は母から、いっさいそういうことを指導されたことがなかった。友達との関わり方も、マナーも。だから私は母に「育て」られたという認識はなかった。自分よりも年長で自分よりも物知りで、よく人を見ていて、私が逆らうことはできない同居人。ときどき難しくなる人。大好きな人。母はそういう存在だった。
私たちの子供の頃はまだ、小学校では母の日などに「お母さんに感謝の手紙を書く」という催しがいかにも健全なことのように遂行されていた。私は周囲の子が「育ててくれてありがとう」と書くのを見て、果たしてみんなはどういうときに「育てられている」と感じるのか、不思議で興味深かった。
自分が母という立場になってからもそれは同じで、私は娘を「育てている」という認識はほとんどもてていない。だから一昔前の漫画やドラマで「誰が育ててやったと思ってるんだ」という言葉を目にすると心底違和感があり、こういう言葉を生み出した社会背景が興味深くもあった。

話が脱線したけれど、だから「子育て」という言葉を聞いたとき、ああ、母は私を育てようとしていたのだ、あるコンセプトを持って育児に臨もうとしていたのだということに初めて思いが至り、母のまだ見ぬ一面を伺いしったような気持ちで新鮮だったのだ。


ランチのときに同僚たちが心配してくれたように、自分を否定されたなんて意味には一切とらえなかった。
そう思えば、私が母から一切「教育」「しつけ」めいたことを受けなかったのも、母の信念があってのことだったのかと思えた。




我が家の場合は、単に母も子(私)も一風変わっていたのだといってしまえばそれまでかもしれない。

ただただ言えるのは、子の心、人の心は本当に分からないということ。第三者が意味づけできるようなところにはないのだということ。

そして、育児で否定されがちなこれらの声かけー
「あなたは何をやってもできない」「私は子育て失敗した」
…こうした言葉よりも、「子供の尊重」を謳う立場からの「あなたの今の性格は、親との〜という関わり方のトラウマからできている」という意味づけ・紐づけのほうが、むしろはるかに人の尊厳を傷つけ得る場合があるのではないかということを、私はどうしても感じてしまうのだ。






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