お弁当を隠して食べるわけ

このごろの休日はよく、5歳の娘と『プリキュアになりきってドラッグストアに行く』という遊びをする。

「川底ってよく見るとCDだらけだね」とか、「どんぐりってなんだかんだ一年中あるよね」といったとりとめもない会話を、それぞれのキャラクターの声色や口調を真似て交わすだけの遊び。いつも互いにかなり熱が入り、最近の買い物はおおむねこの遊びを兼ねて行っている。


先週日曜日、いつものように私たち母子が興に乗って演技に没頭し始めたころ、行く道の少し先に娘の保育園の友達親子が見えた。

娘に「あれって、しーちゃんじゃない?」と声をかけたところで、娘の反応におどろいた。

先にしーちゃんに気付いていたらしい娘はうずくまって硬直し、目に涙をためているのだ。

あれっ?どうして。仲良しのしーちゃんなのに。

しーちゃん親子が近づいてくる。私たちに気づき、お母さんもしーちゃんも笑顔でかけよってくれた。娘は変わらずうずくまって身じろぎもしない。
私はあせってその場をとりつくろい、今から向かうドラッグストアで「ねるねるねるね」を買うだの、まくしたてるように話して強引に「じゃあ明日保育園でね」に持ち込んでしまった。


しーちゃん母子とお別れをしたあと、娘に理由を聞いた。娘は下を向いたままで、たくさん考えながら、ゆっくりいろんな言葉を並べた。


「今は、母ちゃんとプリキュアでおさんぽしてるとこだったから。保育園のお友達と会うのはむずかしいの。頭がぐちゃぐちゃになっちゃうの。」乾いたアスファルトに涙が落ちる。しーちゃん母子の影はぐんと小さくなって、人気のない昼下がりの川原の遊歩道に、わたしたち2人だけがいた。


私はこのとき、うなだれる娘のうなじあたりを見つめながら、ある漫画の1ページが鮮明に思い出されていた。さくらももこさんのエッセイ漫画シリーズ、「ほのぼの劇場」の1場面だ。

いつもお弁当を隠しながら食べる、「ももこ」の幼稚園のクラスメイトの男の子。周囲の子はそんな彼を怪訝な目でみたり、からかったりする。でも「ももこ」が注ぐ目線はそれとは違った。
「ああ、あいつはあいつで苦労してるんだ」。いつもガサツに見える彼の人しれぬ葛藤を思い、幼心にとても切なくなるのである。




私も、お弁当を隠しながら食べていた。小学校中学年から中学まで。

お弁当を隠して食べる人は、いつもクラスに一定数いる。そんな同士の間でも、その理由は互いに知らない。お互いに理由を打ち明け合う機会なんてない。自分が踏み込まれたくない領域だから、相手に対して意識をするのも無礼にあたるような気がするから。

けれど大人になってから偶然、「子供のころお弁当を隠して食べていた」人たちがその理由を語り合うサイトを目にした。隠す理由はそれぞれで、多岐にわたっていて興味深かった。ただそんななかでも比較的多数を占めていたのは、「お弁当の内容が恥ずかしかったから」というものだった。

私の理由はそれとは少し違った。そうではなくて私は、家の情報を学校でさらすことに、おそらく過度な恐怖心を抱いていたのだ。お弁当を隠す行為もその一環だったと、自分では思っている。



私は子どものころーものごころ着いたころから、相手に応じて見せる自分を著しく変える性質があった。親疎も年齢の上下も関係なく、とにかく相手が変われば自分も変わるのだ。
もちろん、程度の差はあれだれもがそういうものなのだろう。ただ私は相対的に、その程度がかなり強い方だったと思う。学校での私と家での私は、ほぼ別人だった。


どちらかは無理をしていた、演じていたというわけではない。どちらも、それ(対象)向きに設定した自分であるということにすぎない。


けれど、そんな風に「変わってしまう」こと自体を人に知られることは極度に恐れていた。学校の自分が家で知られることも、家の自分が学校で知られることも。お弁当の中身を人に見られるということは私にとって、家の情報をすべて学校でさらしているようなものに感じられていた。裸で外を歩くぐらいに、さらけ出してはいけないものを露わにしている感覚があった。
だから隠したのだ。


今こんなことを言うと即座にトラウマ論と結びついて、自己肯定感だの愛情不足だの、ものものしくにぎやかなワードを一気に吸い寄せてしまいそうだけど、当事者の実感からすればこれはもう生まれついた思考の癖としかいいようがない。利き手のような。



そんな私が、お弁当を隠さなくなった。
高校1年のある日以来。その革命的な出来事は、何気ない日常のなかにごく自然にたたずんでいた。


高1のときに、友だちとの4人グループで昼にお弁当を食べていた。もちろん隠しながら。
あるとき、友だちの一人がふとこう言った。

「ちいさんぽちゃんてさ、家と学校では別人そうだよね。」


私はギクッとして、ドギマギした。この2つの擬態語をこんなにも実感を伴って体感したのは、あとにも先にもこれきりである。


するとそれを聞いたもう一人の子が、「そうそう!家ではあばれてんのかなー?」とカラカラ笑いながら言った。

お弁当を隠しているという私の行為についてはひと言も触れず、2人はただ軽やかにそんな会話を交わした。私は、きっともう縁を切られるのだろうという軽い絶望から、絞り出すようにこれだけを伝えた。「あ…そうかも。べつに、どちらかが嘘とか、演じてるってわけじゃないんだけど…」

私がそれを言い終わらないうちに友人は、「そうそう!もちろんそれも分かるよー!おもしろいよねえ」といった。それで次の話題に移った。

この会話はこの日の昼食時の話題の20分の1にも満たない質量のものだった。でもこれを機に、私の家と学校での人格の差は急激になだらかなものになった。お弁当も隠さなくなったのだ。




目の前に、その段差にいままさに涙している5歳の子がいる。私ではこれを救うことはできない。

でも私は、自分が15歳の夏に1年8組の教室であったような邂逅がーそれは私が体験したものとは意味合いも形も全く異なるかもしれないけれど、ともかく邂逅がーこの子に訪れることをずっと願いながら、これからも全力でプリキュアごっこをするし、外の世界(保育園)での遊びも全力で応援するのだと思う。全力で応援するという言葉はやすやすと使うものでもないけれど、ここは全力で応援するのだと思う。



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