悲しみの在りか

 毎晩寝る前に、5歳の娘とするからだあそびがある。「みぎあしさんげんきかな」という、娘が考案し名付けた遊びだ。

 私が娘の体を右足から順になでていき、それに合わせて娘が「右足さん、今日はかいだんいっぱいのぼってがんばったね」「右手さん、たくさんお絵描きしたね」と、体のパーツごとに1日の労をねぎらっていくもの。私が最後に娘の頭を撫でると、彼女は「頭さん、今日もよく考えたね」と言い、その後ほどなく夢への橋を渡っていく。

 娘自身が3歳のときに考案した遊びで、なかなか寝付けないときに、横になって目を閉じながらでもできる遊びとして編み出されたものだ。

 この遊びが日課になりはじめたある日、当時4歳だった娘は「右目さん」の立場でこんなことを言った。

「左目さん今日は3回もお水遊びしたね、(声色を変えて)いやいや右目さんもじゃないか」

 私はおや、と思い、思わず娘の「あたまさん」に尋ねた。

「あたまさん、ちいちゃんは保育園で2回泣いたんですか?どうしてか知っていますか?」

すると、娘による「あたまさん」は、

「知らないよ。わたしはおめめさんに、水を出しなさいと言っただけなんだから」とのこと。

 なるほど。脳はあくまでも各器官に機械的に司令を出すだけだと。

 それではと、私は次は「お胸さん」に尋ねる。

「お胸さん。ちいちゃんは悲しいことがあったんですか?なにか知っていますか」

 それに対して娘による「お胸さん」の回答は、こう。

「知らないよ。わたしは、悲しいと感じるように頭さんに教えただけだから」

 ふむふむ‥‥じゃあ娘の、人間の悲しみを直接感知しているのはどの器官なのか?感情はどこに宿るのか。頭でも、心でもないと。

 私はこれを突き詰めてみたい衝動に駆られてしまったけれど、娘はもう触れられたくないようだった。

 このやり取りの数日後。私が娘の左腕をさすりながら、「ひだりてさんげんきかな」と聞いたとき、娘はこういった。

「きょうは、おこる気持ちが、わたしの肘のしわにたまっちゃったんです。ゆびでカリカリして取ってください」

 わたしは指でカリカリして、「すっかり取れたよ」と言った。娘は、「良かった、おこる気持ちは、取れやすいからね」と言った。

 私は娘に尋ねてみた。「母ちゃんの痛みは、どこにいるんだろう?」ここのところ毎日どこかが痛む母である。痛みを感知している主体を知りたいところだ。

 すると娘は、「ああ、お耳のベランダと、お鼻の横にたまってますね〜」と言って、その小さな手の小指でカリカリし始めた。お耳のベランダとは、耳のひだの部分。

 くすぐったくて、しばらく痛みを忘れた。

 娘が考えたこの遊びは、1日数分だけど、娘との時空のひだを密にしてくれて、たいせつなひとときを生み出してくれる。そして言葉には尽くせない、たくさんの情報交換の場になっている。

 平日の夜はいつも疲労困憊で、少しも娘の遊びに付き合えないこともある。ほとんどの日がそうだ。でもただ1つこの遊びだけは、どんなに疲れていてもケンカした夜でも、必ずすることにしている。

 それが、わたしと娘の約束であり、娘との生活における私自身とのただ一つの約束である。

 

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