通学路を変えた日

通っていた高校は小高い丘の上にあった。駅から高校までをつなぐ一キロほどの急な坂道は、通称「けんこうざか」といい、朝はいつも同じ高校の生徒たちでひしめいていた。

「けんこうざか」を一つ脇に入ったところに、民家の間を縫うように走る小径があった。
高い垣根で挟まれ、道幅は高校生二人がやっと並べるくらいだったろうか。長さは20メートル弱だったと記憶している。
私はこの小径の風情がとても好きだった。特に真夏のそれは格別だった。垣根の一方からは、目の覚めるような緋色のノウセンカズラが顔をのぞかせる。他方からは何かの照葉樹がこんもりとあふれていて、細い道に真っ黒な影を落としていた。
私は情緒あふれるこの小径を、京都のそれになぞらえて「哲学の小径」と呼んでいた。

夏休みのある日、行事か何かの用事で個人的に登校する機会があった。早朝のホーム、蝉しぐれなかで電車を待ちながら、今日はきっと登校途中で誰にも会えないだろうから一人で哲学の小径を通ろうと思い立った。私にとって、これほど幸福な“予定”はなかった。

電車が到着して乗り込もうとしたとき、ホームまでの階段をけたたましくかけ降りてくる人がいた。みれば父である。私があぜんとするなか、発車ベルがなった。父はまだ階段の半ばだったが、そこから私に向かって「哲学の小径は通らんようにね」と叫んだ。
私は状況がつかめずうんともすんとも答えぬまま、電車に乗り込んだ。
動き出した車窓からみえた父は、何事もなかったかのような穏やかな表情で引き返していた。

そうだ、私はこの前日、母に「哲学の小径」の話をしていた。この頃、学校でのことを親に話すことはめっきり減っていたが、この道のことはどうしても伝えたくなったのだ。母は静かに「へえ」と聞いていた。でもその後、母のなかでは「人気のない暗い道」であるということがクローズアップされていったのだろう。心配でその後父に話し、父が駅まで制止しにきたといういきさつだろうか。

なぜ高校生になってまで、親に行動を制限されないといけないのか。単線の鈍行列車にゆられ、市境の川を超えながら、私のもやもやは大きくなるばかりだった。そこで気分を紛らわせることはあきらめ、父と母のやり取りを想像してみた。

母は私を止めるかどうかを今朝の今朝までずっと迷っていたのだろう。私を見送ってから心配が頂点に達し、伝えるなら今しかないと思った。父はよく分からないままに、母がただならぬ様子だったので、それならばと車を走らせ私を追ったのだろう。
30年来車通勤の父の姿は、駅の光景にはこのうえなくそぐわなかった。それを思い出すと、覚えず顔がほころんでしまった。そういえば父が「哲学の小径」と言ったのも、思い返すとくすぐったかった。私があてがったに過ぎない呼称を、当然のように使った父。これは母が父に対して、あたかも正式な固有名詞のようにこの言葉を使ったのを受けてのことだろう。
高校の最寄り駅について、2番出口を出た。丘の麓の予備校群のうえには紺碧の空が広がり、重量感のある雲が高みへと伸びている。よい夏の日だった。
こんな日の「哲学の小径」はまた格別だろうな。
そう思いながら、私はまっすぐに「けんこうざか」を登って学校を目指した。


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