入園式と入学と

5年前の入園式の日、1歳だった娘ははじめて私を「かあか」と呼んだ。

その日までは、娘は動物や食べ物の名前をカタログ式に覚えていっていた。母を呼んだり「まんま」「ねんね」と要求を言ったり…のように他者に対して語りかけ訴えかけるような語を発することはなかった。この子にとっては、庇護者に生存欲求を伝えることよりも、世の中のさまざまな事象が音の集まりと結びついていくことの神秘の方が優先されているんだな、と興味深く思っていた。
 でも入園式の帰り道、くたびれた抱っこ紐のなかで、娘は私の顔を指さして「かあか、かあか」と繰り返した。何かとてつもない真理を発見したような、長年の疑問が解けたような晴れ晴れと上気した顔をしている。「そういうことだったのね!」と言わんばかりの娘の顔を見て私は、瞳とは本当に輝くものなのだと知った。
 0歳児のあいだの母子二人の生活。そのなかで娘は、私が自身を「母ちゃん」と呼ぶのを耳にしてきた。その意味は娘にはわからなかったろう。たとえばこの人物の一人称なのだろうかと思ってきたのかもしれない。この、たまたまいつも自分と一緒にいる大きめな他個体が本人を指していう言葉だと。
それが保育園の入園式で、多くの別の親子組を目の当たりにするなかで、私の存在と人称についてなんらかの革命的な相対化が起こったのかもしれない。この人は「たまたまいつも自分と一緒にいる」のではなく自分にとっての何かであり、その何かを言い表すのが「かあちゃん」であり、それは固有名詞でも一人称でもないということが、娘のなかで全て一つの結論として結びついたのかもしれない。
 集団に入ることってすごい。

 あれから5年。
 卒園式でも泣かなかった私だけど、4月1日、はじめての学童へ向かって歩道橋を渡る娘のうなじあたりを後ろから眺めていたら、ふいに鼻の奥がツンとした。
娘は、―彼女が通園路のほとんどでそうしていたように―、私の腕のなかで鮮魚のようにあばれているわけでもなく、私の5メートルうしろでじっと地面を見つめているのでもない。
私に背を向けて走っていた。

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