5歳児の、しずかちゃんとの戦い

私は会話における情報の送受信がひどく不得手だ。

「口下手」といってしまえば早いのだけれど、この言葉がもつ「真摯」「誠実」のイメージが自分にはそぐわないので、先のように回りくどい表現になってしまう。


20歳のあるとき、友人のひとりがこんなことを言ってくれた。

「あるタレントの言葉で、『あなたにやさしくできたから わたしはやさしくなれました あなたがわたしをつくります』というのがある。私はその言葉が好きだ。この言葉を聞くと、あなたを思い出す。」


私はこのうれしい言葉に感極まって、何を返事したかというと、

「へえ、そのタレント私きらい」と言ってしまった。


わたしはうれしい、ありがとうが言いたかっただけなのだ。

もはや「素直でない」というレベルではない特大変化球である。

「ありがたいな、そういえばそのタレントって、こんな言葉も言っていたな。その言葉をわたしは15歳のとき、素直に受け止められなかったな。なんでだっけ。単にきらいなだけだったんだっけ。わかんないや」という1秒間の思考の流れのなかで、たまたま抽出されたのは最も招かれざる言葉たちだった。


他者を引き合いにすべきではないが、父にもこんな一面があった。

小学校5年生のとき、父が母と私を「回らない寿司屋」に連れていってくれた。


カウンター席に3人並んで座った途端、父がお向かいの大将にこういった。

「いやあ、空いてますねえ!こんなに空いているものなんですねえ」

いたって朗らかな父をよそに、大将と母の顔は引きつっていた。


帰宅してから、母の愚痴はとまらなかった。「なんでああいう場面でああいう言葉が出るかね」

でも11歳の私は思っていた。私にはわかる。父は、「居心地のいいお店ですね」と言おうとしたのだ。

でも、脳内で発生したその言葉が口や舌の筋肉を媒介しようとしたとたん、

あらぬ方へ分岐し、暴走し、思わぬかたちでアウトプットされる。もはや、同類であるわたしのような身にしか、その言葉の発生時の原初系はうかがいしることはできない。

父だって書き言葉ならこういうことは起こらない。私もそうだ。これはスピードの問題ではない。とにかく、脳と口をつなぐ神経を走る信号が暴れ馬になってしまいがちなのだ。


だからといってここで母に「いや私たちのタイプの脳ではね…」と説明して父をフォローしても、母からこんな言葉が返ってくるのはたやすく想像できる。


「気持ちがうまく言葉にできないのなんて、誰もがそうでしょ。でもみんな理性で制御したり、慎重に言葉選びをしたりして努力してる。それを生まれついた脳の性質のせいにするなんて卑怯だよ」


私は勝手に想定した回答に勝手に反論をする。

いや、誰もがではない。そこはレべチなのだ。もちろんみんな努力しているのは知っている。でも、脳からこぼれおちたある感情が、口先にたどりつくまでの道程。これがスムーズな一直線をたどる人、多少の蛇行でもほぼ原型を保って行きつく人、膨大な分岐路によって上も下もわからなくなってしまう人…このタイプは、どうしても生まれ付いたものが大きいとしか思えないのだ。そこから、経験や努力によって微修正がなされていくにしても。

けれど自分の努力不足を自分自身で否定することは決してできないし、何よりも人を不快にさせることが圧倒的に多いという弱みがあるので、私たち(と勝手に父を引き入れる)は口をつぐむ。


娘も多分に、私や父の性質をついでいるかと思う。まだ五才だけれど、幼児ならではの言葉足らずとはやはり違う。

娘は哀しかったりあせったりするときに、他責的な言葉に結びつきやすい。けれどこの子は私よりもずっと自己分析が上手で、「泣きたいとか、悲しいとかいう気持ちが、怒るような言葉出てきちゃうの。勝手にそうなるの」という。これを聞いた私の母は、「5歳からこんな言い訳が身についていて大丈夫なのか」と心配し、あきれる。心配もわかるが、これは「言い訳」ではない。事実を至極適切に言語化しているのだ。


だけど自他を傷つけるイバラの道を歩むのは娘自身なので、何らかの方法でトレーニングをし、「勝手にそうなる」を最小限にしないといけない。それは私も同じだ。


…と思っていたら娘が自主練方法を提案してくれた。娘は夕食時に餃子をほおばりながら、「しずかちゃんが出ている番組、めっちゃ見る。それで、強い言葉言わないで済むように練習する」という。

しずかちゃんとはあの「ドラえもん」の主要キャラクター、源静ちゃんである。娘のなかではあの5人のキャラクター類型のなかで、もっとも「いじめっこ」に位置付けられているのは「しずかちゃん」である。これは、原作を読んだことがある人の一定数はうなずく感覚だろう。ジャイアンやスネ夫よりも、よほどのび太の尊厳を傷つける発言が多い(と、私も思っている)。

だから娘はしずかちゃんの発言に逐一モヤモヤし、あるときはのび太の立場で悲しみ、テレビに向かって穏やかでないやじを飛ばすことが多い。

だが娘はあえてその状況に身をおき、どうすれば言葉の暴走をおさえることができるかを実験し、制御のトレーニングをするというのだ。


私たちは録画したドラえもんのなかからしずかちゃんの登場シーンが多い回を抽出して見ることにした。


相変わらず語気が強いしずかちゃんに表情が強張り、ジャイアンやスネ夫のいじりにはほっとする娘。娘の自主トレは出だしから順調で、しずかちゃんが何をいおうと、私の方がひやっとするかたわらでいやに静寂である。

ふと娘を見ると、しずかちゃんの発言中娘の顔はこわばり、おもいきりこぶしを握っている。目は赤くなっている。あの小さな掌は、開くと真っ赤になって、小さな三日月形の爪のあとが軟らかい肌に食い込んでいることだろう。きゅっと結んだ口もとのなかの歯は、娘の体重を優に越える咬合力で全身に負荷をかけているんだろう。

ああそうだ。私はこんな風にぶつかることをずっと忘れていた。


私は、自分の言葉の暴走が自他を傷つけることに疲れて、会社では給湯室に一歩も足を踏み入れず、トイレは遠方まで足を運んで空いているフロアを使い、駅から会社までの道は、同僚と会わないように遠回りの裏道を歩いている

 

人と関わる、何かと関わるということに、こんなにも身を切るように全力で向き合っている子がいる。でもしずかちゃんのなかに自然に優しさを見いだし、穏やかな気もちでドラえもんをみることができる子も多い。その違いは何だろう。

生きるということはなんて難しいんだろう。私は本当は、テレビの前で小さな肩を怒らせている娘の背を撫でながら、このままでもいいんだよと言ってあげたいのに。



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