心配くらい勝手にしたい

高校のころ、英語の授業で扱われた英文にこんな内容のものがあった。

海外のどこかの公園における、子供の遊具事故を減らす取り組みを紹介した文章だったと思う。たしかその公園では保護者用の待機小屋のようなものを作って、親はそこから子どもを見守るように義務付け、遊具で遊ぶ子どもたちのそばに近寄れないようにした。親の心配する目や声かけこそが子どもの事故を誘引しているという考えに基づいて。この取り組みは功を奏し、その公園での事故は劇的に減ったとあった。
なるほどなあ、親が心配するほど子供はケガをしやすくなるのか。高校生の私は、この内容にひどく感銘を受けた。


娘が4歳のときに、彼女にこの話をした。なかなか寝付けない娘から、「眠くなるように、むずかしくて退屈な話をして」というリクエストを受けて8番目くらいにした話だ。どうだ難しいだろう退屈だろう、眠いだろうと言わんばかりに。
ところが私がその公園のことを話し終えるやいなや、まどろみかけていたはずの娘は威勢よくガバリと起き上がった。そして、「ちがう!」と、すっかり覚醒した口調で言った。「ちいちゃんは、母ちゃんが近くで心配していた方がケガしない!母ちゃん、近くで心配してね」と語気を強める。

寝かしつけは完全に振り出しだ。

こうして、おそらく教育のプロたちが知恵を総動員したであろう当該公園の取り組みは、4歳児の実感によって全否定された。


でも、娘の反応をみて思い出したことがあった。この英文を学習したころに級友が言った言葉。高校生である彼女は、まだ見ぬ娘が一人で登下校する姿を想像すると今から心配でならないと言うのだ。そうだった、当時の私はその言葉に、あの英文の内容よりも深い感銘を受けたんだ。



何が子どもにとって一番よいのかは分からない。でも限りある対策をした以上、もう心配するくらいしかできないし、心配くらいは勝手にしたい。

あの公園の隔離小屋の目的はきっと、子どもを守るためだけではなくて、「親が思う存分、子どもにバレないように心配するための部屋」なんだと、今では思う。

そして娘が「母ちゃんが近くで心配する方がけがしない」というのは、私への信頼不足もあってだろう。娘は、私が心配するような状況には絶対にしないという気概をもって暮らしている。母の仮説以外の結果を何とかして自分で証明したいという気概だ。私はその不信感をとても頼もしく感じる。親に心配されると、半ばあてつけのように〝心配された通り″になってみせていた自分とは、反発心の気質が違うのだ。

だからあなたの言う通り、できるときは近くで心配する。勝手に心配するかたわらで、あなたも勝手に気づいて抗ったり、勝手に放っておいたりしながら、勝手に大きくなるんだろう。


※ちなみに当該公園に関しては、今調べようとしても情報が全く出てきません。かなりうろ覚えなこともあり、私の記憶違いかもしれません…。


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