【歴史小説】流れぬ彗星(2)「愛洲鯨」
この小説について
この小説は、畠山次郎、という一人の若者の運命を描いています。
彼は時の最高権力者、武家管領の嫡男です。
しかし、目の前でその父親が割腹自殺する、という場面から、この小説は始まっています。
彼はその後、師匠の剣豪や、愛する女性、そして終生の宿敵である怪僧・赤沢宗益と巡り合い、絶望的な戦いを続けてゆきます。
敗れても、何度敗れても立ち上がり続けます。
全ては、野心家の魔人・細川政元により不当に貶められた主君・足利義材を救うため。
そして自分自身を含め、あるべきものをあるべき場所へ戻すためです。
次郎とともに、室町から戦国へと向かう、混迷の時代を駆け抜けていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
世に不撓不屈の将は数あれど
足利義尹、畠山尚慶の主従に勝る者はなし
~『紀和志』林堂山樹
本編(2)
どのくらい逃げてきただろうか。
炎上する正覚寺城をあとにして、数騎の武者に前後を守られた、女ばかりの一団に紛れ込んでいた。
そうして二刻ほども歩き続けている。
しずしずとした女の足ゆえ、追手がかかる危険も充分にあった。だが今のところ、そのようなことはどうにか免れている。
やがて海が見えてきた。初夏の穏やかな陽射しを、何も知らぬげに照り返す住之江である。
沖合の方から、三艘の船がまっすぐに岸へ近づいてくるのが望まれた。艫の幟には、四つ割菱の紋が赤く染め抜かれている。
(武田の者どもか)
次郎は心中で独りごちた。若狭守護の武田氏であれば、細川京兆家の忠実な藩屏と言ってよい。
文字通り渡りに船、とまではいかないが、ひとまずはこの場から遠く離れ、虎口を脱することが先決であろう。
しかし、船が近づいてくるにつれ、帆の色褪せやほつれ、垣立のひび割れが目につき、どうにも妙な感じがした。
「これに乗って逃げるのだ」
騎馬武者に促され、女たちは接岸した船縁へ走り寄っていった。水手が手を貸し、一人ひとり除棚をまたがせていく。
先導の者らに見送られつつ、船は岸を離れていった。ところが沖へ出てしまうと、とたんに水手たちの態度は豹変した。
「さっさと降りやがれ」
板子を外し、驚き叫ぶ女たちを、暗い船底へ次から次へと投げ込んでいった。
次郎もまた、背後から尻を蹴り飛ばされた。
転がり落ちた先には、既に多くの女たちが横たわり、折り重なっていた。小袖を着崩し、おくれ毛が頬に貼りついている。しくしくと咽び泣く新たな犠牲者たちを、猫のように光る目で静かにねめ回していた。
周囲が真っ暗になると、次郎は被いていた打掛を脱ぎ捨て、すぐさま頭上の踏立に手をかけた。
女しかいないと多寡をくくっているせいか、心棒は強く張られていない。満身の力を込めて跳ね上げると、船板に肘を乗せて日の下へ体を持ち上げた。
水手たちは檣の前で車座になり、瓶子とかわらけで濁酒を酌み交わしていた。すっくと立ち上がった次郎の姿を見ると、あっけに取られて口を開いていた。
「貴様らは、一体何をしている」
「男が交じっておったか」
「大方、女に化けて逃げてきた玉無しじゃろう」
特段慌てる様子もなく、陽気なくらいの笑い声を揃えた。
「控えい、凡下ども! 畠山尾張守尚順である」
男たちは黙り込み、垢染みた日焼け顔を見合わせた。
「今なんつった」
「ハタケヤマとか、オワリノカミとか何とか」
「ひとまず、姐さんを呼んでこい」
一人の若い水手がうなずき、船尾の方まで駆けていった。
艫屋形から、身の丈六尺もありそうな大女が出てきた。
腰まで伸ばしたざんばら髪で、漆黒の小袖に手甲をつけている。切れ長の吊り上がった目で、薄い唇に値踏みするような笑みを浮かべていた。
「何だい、あんた、守護家様を名乗ってるんだってねえ」
鼻にかかった酒焼け声だった。
「本物かい? 女に化けても無理のない顔立ちだけどさ」
「お前がこの船の主か」
「そうさ。愛洲鯨ってのが、あたしの名さ」
「戦のどさくさに紛れて、女たちを狩り集め、どこへやるつもりだ」
「そうさねえ、京下りの女を欲しがる田舎大名か、買い手がつかなきゃ高麗、明国までも行くかねえ。上臈が交じってりゃ、身代金をたんまりいただくがねえ」
「外道どもが」
次郎が吐き捨てると、相手はふいに眦を決して怒りを露わにした。
「どちら様が引き起こした戦で、こんな女たちが生まれたと思ってるんだい。道端で狩られて奴婢に落とされたり、そのまま殺されちまう女たちに、まだ生きる場所を与えてやってるんじゃないか」
「そのように生き続けるのならば、死んだ方がまだましであろう」
「軽々しく、死んだ方がましなんて言うなってんだ! 所詮はぬくぬくと育ってきた御曹司様だろう。あんたみたいなもんに、甲乙人の一生がわかるってのかい」
次郎は、口の端を結んだまま立ち尽くしていた。
「姐さん、こいつがほんとに畠山の跡継ぎなら、身代金を取らなきゃ損ですぜ。なんたって三ヶ国の守護、次の管領様だ」
水手の一人が、指を差しながら訴えかけた。
「もう私に金を払う相手などおらぬぞ。父はつい先ほど、目の前で腹をかっさばいたのだ。黒く汚れた腸が、どろりとこぼれ落ちてきたぞ」
淡々と描き出してみせると、周囲が息を呑む音さえ聞こえてきた。
「それは嘘だな。お前の行方を知れば、能登守護家の者が黙っちゃいないだろう」
次郎は思わず眉を上げた。
能登守護職を相伝する畠山匠作家は、曽祖父の代に宗家の家督を返上した弟が立てた流れである。
当時は『天下の美挙』と賞賛されたといい、父と義就の血みどろの争いとは、文字通り隔世の感がある。
「鯨と言ったか、ずいぶんと詳しいな」
次郎が微笑すると、相手は据わった目つきで睨み返してきた。
「一体どういうつもりなんだ、あんたは。そのご大層な命が、今はあたしらの手のひらの中なんだよ。生かすも殺すもあたしの号令一つなんだ。泣いて命乞いでもしたらどうなんだい」
「貴様らこそ、武士というものをまるで知らん。どれだけ高位に昇ろうとも、生まれた時から風に吹かれる骨の如き思いでいるのが武士だ。死ぬも生きるも、一水の上に等しくあるのが武士だ」
大女が脇へ手を差し出すと、はるかに小柄な水手が、朱塗りの鮫鞘太刀を手渡した。
「手足の腱を切られ、目玉をえぐり出されても、そんな風に格好をつけてられるのか見物だね」
次郎も懐に忍ばせていた短刀を取り出した。父が最期に握っていた藤四郎吉光である。
しばらくの沈黙と睨み合いのあと、ふいに相手は青空を仰いで高笑いした。
「何がおかしい」
「いい度胸をしてるね。あんたが本物の守護家様なら、取引をしようじゃないか。あたしらは、熊野から赤間関までを股にかける海賊さ。命を助けてやった見返りに、あんたが紀伊と河内の守護に返り咲いた日にゃ、あたしらに警固衆のお墨付きをよこすかい」
「人狩りなんぞに、そのような沙汰は下せぬ」
「けっ、空手形が偉そうに。まともな口にさえありつけりゃ、こんな手間のかかる商売を続けやしないよ。警固衆として海関を立てて、たんまり儲けさせてもらうのさ」
次郎は何とも答えず、短刀の構えを崩さなかった。
「それともう一つ、条件がある」
「今度は何を言い出す」
大女は樽の上に足をかけ、着流しの裾をわざとくつろげてみせた。意外に白い腿の内側が露わになり、濃い毛に覆われた火陰が覗いた。
「あんたがあたしの男になることさ」
~(3)へ続く
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