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初日の出を見るために朝4時から登山をしたら、2023年の目標が決まった

12月31日はテレビで紅白を流し、
何となくSNSを眺める。
1月1日00時00分。
年が明けて、家族とお祝い。
そして、寝る。

私の年越しの瞬間は、いつもこんな感じでした。

元旦は家族で近くの神社に行って初詣。それも悪くないし、のんびりとしたお正月の過ごし方に満足していました。

でも今年、今まで続けてきた年越しとは全く違う過ごし方をしました。

「山頂で初日の出を見よう!」

と、年末に夫が言い出したのです。

正直、私は乗り気ではありませんでした。新年早々早起きをして、暗くて寒い中を息切れしながら歩き、初日の出を見る。そこまでして初日の出を見たいとは思わないし、そんな過酷な状況に身を置く意味もわからない。

でも、ふと思いました。

初日の出を見に行ける環境は整っている。体は自由に動くし、家にいないといけない理由もない。だとしたら、行けるタイミングである今、人生で一度くらいは過酷な環境で初日の出を見てみてもいいんじゃないかと思いました。

大晦日にモンベルに行き、アイゼンという靴底につける滑り止めの金具を購入。何年も衣装ケースの中に眠っていたスノボのウェアを取り出して準備を進めました。

テレビで紅白が始まった頃にお風呂に入り、そのまま就寝。年明けの瞬間、私は寝ていました。深夜2時半起床。準備を整えて3時過ぎに家を出発。道は真っ暗で、車は1台も走っていませんでした。

向かったのは大阪で一番高い山、金剛山。

標高1,125m。整備された緩やかな道が続いていて、初心者でも登りやすい山だと言われています。とは言え、真冬の夜明け前に登るわけなので、油断は禁物。防寒対策をして食料や飲み物も持ち、ヘッドライトを付けて登りました。

初日の出を見るための早朝登山を終えた今、想像もしていなかった体験をすることがきたので、記事として残しておこうと思います。

何か特別な出来事があったわけではありませんが、自分の内面が大きく変わったのを感じました。

目の前を見て、次の一歩のことだけを考える

早朝の登山は、暗闇の中で自分のヘッドライトだけを頼りに進んでいきます。周りの景色はほとんど見えません。ただひたすら、自分の足元を見て、一歩一歩前に進んでいく。

前を見ると、ライトに照らされて上へと続く道が見えます。段々と足に疲れを感じてきた頃にその道を見ると、足取りはさらに重くなるような気がしました。

でも、一歩先だけ見て足を踏み出すと、五合目、六合目と確実に山頂に近づいていく。そんな風に進んでいるとき、ある本の言葉を思い出しました。

「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」

「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、楽しければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息も切れてない。」

ミヒャエル・エンデ作 『モモ』p.52,53

私が大好きな本『モモ』に出てくる掃除夫ベッポの言葉です。

ベッポおじさんの掃き掃除の仕事のように、登山も一歩一歩進んでいけば必ず山頂にたどり着く。ほんの少し登山をしただけの初心者が言うにはおこがましいけれど、登山も仕事も、そして人生も、同じなのだと感じました。

遠くや周りを見すぎると、途方もない距離に足がすくんで動けなくなってしまう。だから、一歩だけ進む。そしてまた、一歩進む。

それを繰り返していけば、自分では想像もできなかったところにたどり着ける。そしてそこから見る景色は、それまでの疲れや苦労をも吹き飛ばしてくれる。

今回の登山でも、休憩を挟みながら一歩ずつゆっくり進んでいくと、不思議とつらさは感じませんでした。

登山をしながら決めた今年の目標

夜明け前の山道でヘッドライトを消し、上を見上げると無数の星と高くそびえ立った木が見えます。

宇宙に浮んだ地球の中にいる自分。

「私は、この自然の中の一部なんだ」

ふとそんなことを感じました。

凸凹でもいい。むしろ、それがいい。
それぞれが凸凹だから、この自然はすべてが完璧にできている。

去年の私は、自分の“欠けている部分”がどうしても気になってしまって「なんとか改善しないと」「もっとできるようにならないと」と、見えない何かに急かされるように反省を繰り返し、改善しようと試みていました。

一方で、埋めようとしている“欠けている部分”は、どんなに埋めようと頑張っても一生埋まらないことも同時にわかっていました。“欠けている部分”は、私の主観がつくり出したものだからです。

この世界に存在するすべてのものは、欠けている何かがある。それがあるから完璧であり、地球という生命体が生きるのです。

私たちは、凸凹のままで完璧なんだ。

2023年は、それを体感する年にしたいと、真っ暗な山の中で思いました。

初日の出の朝も、“自然”はただそこに存在していた

初日の出を見るための早朝登山は、想像していたものとは全く違っていました。寒さや疲労感よりも、心地よさや爽やかさが優っていました。

もしかしたら人間は、自然に近づくことを本能的に望んでいるのかもしれません。


そして、「“年越し”とはなんだろう?」と考えました。

登山は始めたのは1月1日の早朝4時。年はすでに明けていたけれど、年越しの瞬間は寝ていたので、新しい年を迎えた実感はありませんでした。

登山をする中で徐々に夜明けが近づき、辺りが明るくなっていきます。日の出の時間が過ぎたら、今度は下山。そこですれ違う人とは、今年初めて「明けましておめでとうございます」と言葉を交わしました。夜が明けて、初めて新しい年を迎えたような気がします。

それと同時に、これまでは人が決めた時間によって年越しをさせられていたような感覚を覚えました。時計を見て、カウントダウンをして、「1月1日0時0分」という数字を見て、年が明けたことを確認していました。

山道を歩きながら内省し、山頂で新しい年の朝を迎える。この過程によって、他者から「年が明けましたよ」と示されるのではなく、自分の体で新しい年を迎えたのだと感じることが出来ました。

そして、私たち人間にとって特別な日である初日の出を迎える朝も、“自然”はただそこに存在し続けるだけでした。そう思うと、人間が決めた“年越し”とは、一体なんなのだろうとも思うのでした。


私自身、去年は都会から田舎に移住して、季節によって変化する生き物の表情に触れる日々を過ごしました。天気予報より、空を見上げることが増えました。春を過ぎた頃には夜の散歩中にホタルに出会いました。

2023年は、きっともっと自然を感じる1年になるだろうと思います。

ちなみに、山頂付近は曇っていて、初日の出を見ることはできませんでした。でも、早朝から山に登り、山の空気を感じ、山で出会った人と言葉を交わした、この体験だけで満足しています。山に登って降りてきただけで、いろんなことを感じ、考えました。

もしあなたがいつもの私のようにテレビやSNSを見て年越しをしているのなら、「山頂で初日の出を見る」というちょっと変わった新年の迎え方をしてみるのもいいかもしれません。


初詣は金剛山葛木神社で
日の出から2時間後
下山中に見えた景色




最後までお読みいただきありがとうございます(*´-`) また覗きに来てください。