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奇跡講座WB実践 エピローグ
会ったとたん愚痴を話してきたあなた。
うんうんと聞きながら、あなたの罪悪感の大きさに気づいた。
あなたの話に出てきたその人の罪悪感の大きさにも気づいた。
そして私の罪悪感も見た。
私と彼女とその人との罪悪感を取り去ってください。
そう聖霊に祈りながら話を聞いていた。
昨日イライラした人の話をしたいという思いが湧いた。
でもそれって分離で見ているってこと。
そう思ったから、私の罪悪感を取り去って
奇跡講座WB実践 最終課題
最終課題は5日間。
初日から、今までとは180°意識が変った気がした。
聖霊に導いてもらうというのはどういうことなのか。
頭でこんな感じかなと思っていたものとは違う。
うまく言えないけど、360のレッスンとこの最終課題ではガラッと意識が変わるのを感じた。
一日目
聖霊に主導してもらう。
本当に主導してもらいたいと思うには、
本当に自分にはなにもわからないんだって知る必要があるんだと思った。
奇跡講座WB実践360 神聖な神の子である私に、平安がありますように。私とひとつである兄弟に、平安がありますように。私たちの平安を通して、全世界が祝福されますように
今日で一連のワークが終わる。
明日からは最後のワークに入る。
今の時点で、私は兄弟を私とひとつであるように見れていない。
私は赦しをしていくんだと思っている。
私の目に映るものはすべてが私の心の投影だから、
私が経験する動揺だけじゃなく、私が目にする出来事についても
たくさんたくさん
赦しをしていく。
それによって聖霊に
この世界に留まりたいと思っている心を取り去ってもらう。
分離した特別な
奇跡講座WB実践359 神からの答えは何らかの形をした平安である。苦痛はすべて癒され、不幸は喜びに入れ替わる。すべての牢獄の扉は開かれ、あらゆる罪が、一つの間違いにすぎなかったと理解される
なぜあの人はああいう考え方しかできないんだろう。
なぜあの人はあんな言い方をするんだろう。
あの人の言動は理解できない。
普通親しい人にそういう態度取らないんじゃないかな。
なぜこの人は、あの人をそばに置くのだろう。
ふとそんなことを考えている自分に気づく。
違う違う。
あの人、この人のことじゃない。
私だ。
私の罪悪感の投影だ。私が私を罰しているから、私の目に不足の状態が投影されて見えているん
奇跡講座WB実践358 神への呼びかけは聞かれないことも、応えられないままにされることもない。そして私は確信している。神の答えこそ、私が真に望む答えであることを
”みこころのままに”
神が与えてくれるものが私にとって最善最良のものである。
”神のなさることはすべて、時に叶って美しい”
今、この瞬間瞬間に与えられるものを受けとりたい。
それが一番いいのだと頭で考え、そのように思うけれど、
この肉体の私が私であると信じている心は、
神の時を待てず、神の差し出すものには気づかず、
幻想世界にしか存在しない幻想を求めている。
この環境は不十分だ。
私が神から与
奇跡講座WB実践357 真理は、神に対する私たちの呼びかけの一つひとつに応える。はじめは奇跡によって応え、その後、真理そのものとして私たちに戻ってくる
357日。
奇跡講座のワークを一日にひとつずつ取り組み、357日目。
その前に数ヵ月でワークをざーっとやった日も入れると、440日ほどかもしれない。
私はない。実在していない。人もいない。
それがどういうことか、ワークをざーっと流した数ヵ月ではまったくわからなかった。
一日にひとつずつ取り組み始めた頃もよくわからないままに、
赦しの意味や目的、そのやり方すらよくわからないままに、
赤ちゃんが言葉
奇跡講座WB実践356 病気とは罪の別名である。癒しとは神の別名である。だから、奇跡は神への呼びかけである
ここ数日体が楽になっていることに気づいく。
指も手首も腕も脚も痛みが緩んでいる。
ちょっとだけ楽。
さらには今だかつてないほど腸が元気。
こう思いがちだった今まで。
キリストと一体となる。
真の私になる。
神とひとつであることを受け入れる。
そうするときっと体の苦しみから脱することができるんだ、
恐れることもなくなるんだ、
体の不調はなくなっていくんだ。
などと、自分で勝手にゴールを決めてい
奇跡講座WB実践354 キリストと私はともに立ち、平安のうちに、目的を確信している。キリストが私の中にいるのと同じように、キリストの中には彼の創造主がいる
今日も安定の自我の見方ばかり。
人にイラッとする。つい口調がきつくなる。
私の本質は冷たい人間だ・・・と、自分を責める。
人の愚痴に同調したことを口にする。
止まらない愚痴に飽きてきて、生返事をする。
あの人が来る・・・嫌だなと思ってしまう。
五月蝿い、邪魔だ、と思ってしまう。
ああもう!
私はキリストと一体であることを思っていたいのに。
まったく思えない。
思い出すことすらない。
だめだーー
奇跡講座WB実践353 今日は、私の目にも、口にも、手にも、足にも、目的は一つしかない。キリストに与えられて、世界を奇跡で祝福するために用いられることである
私のすることは赦し。
私は赦しをする。
心は決まった。
決まったはずだけど、
今日の自分を振り返ると、
相変わらず人は人、私とは別の存在としか見ていないし、
自分の中で決めたゴールを握りしめているし、
イラッともするし恐れもしている。
”今”にいるということも、
どういうことかが以前よりはっきりした。
”今”目にしている映像以外は何もないこと。
目にしている映像すら映像にすぎず実在していない
奇跡講座WB実践352 裁きと愛は正反対のものである。一方からは世界の悲しみのすべてが生じる。もう一方からは、神ご自身の平安が訪れる
私は今、自分で気づく前に裁いている。
自分で生み出した幻想の中で、
投影した人や現象を裁くことで、自分を裁いている。
私が強く信じている罪悪感が、自分を裁くことを選ばせる。
だから裁いている自分に気づいたら、その裁く心に赦しをする。
裁く心を取り去ってもらう。
罪悪感を取り去ってもらう。
私は実在するもののことを何も知らないのに、
自分で生み出した幻想を見て、判断している。
判断して勝手に恐
奇跡講座WB実践351 罪のない兄弟は平安への導き手である。罪深い兄弟は苦痛への導き手である。私は自分がみたいと選んだほうを見ることになる
職場でイライラするという友人と話していた。
彼女はこう言った。
「Ruruのように穏やかにいたいと思うんだけどね。」
私は言った。
「腹んなかは真っ黒いものが渦巻いてたりするんだよ。そういうときは黙ってるの。だから穏やかそうに見えるのかもしれないけど。」
すると彼女は頷きながら言った。
「黒いものをどこで吐き出せばいいんだって思うんだ」
それを聞いて、あっと思った。
ここまで普通に話していて
奇跡講座WB実践350 奇跡は、神の永遠の愛を鏡のように映し出す。奇跡を差し出すことは、神を思い出すことであり、神についての記憶を通して、世界を救うことである
私は本当に赦しをするだけ。
本当の私が見るのは実相だけ。
本当の私は目の前で見ている出来事が幻想であると知っている。
本当の私はイエスと同じ、聖霊と同じであることを知っている。
本当の自分を思い出す方法は赦しだけ。
私の目に映っている今だけがある。
私の目に映っていないことは今はない。
私の記憶が投影される。
道も人も私の記憶。
記憶は考え。信念。
私の考えや信念が変われば目に映る出来事も
奇跡講座WB実践349 今日、私は自分にかわってキリストの心眼に、すべてのものごとを見てもらう。そしてそれらを裁くことなく、その一つひとつに愛という奇跡を与える
歩きたくない。
私は疲れてるんだよ。
靴が濡れちゃうから。
これは私の心の投影だよ。
私の心は、私は尊重されないと信じている。
私は犠牲を払う必要があると信じている。
私は疲れなければならないと信じている。
それが投影されてるだけだよ。
私が見ている世界には私しかいない。
向こうにいったらあの人がいると経験で知っている。
でも今は、この瞬間だけ。
今あるのは、見えているものだけだ。
向こうに