(Linp&Ruru)本当の自分を知り、本当の自分として生きる

私たち夫婦(Linp&Ruru)は「真の自己を知ることの大切さ、そして真の自己…

(Linp&Ruru)本当の自分を知り、本当の自分として生きる

私たち夫婦(Linp&Ruru)は「真の自己を知ることの大切さ、そして真の自己として生きることが最大の喜びである」ということを様々な学びと経験から得た気付きをここ青森県八戸の地で日々シェアしています。またこのnoteを通しても同じようにお伝えしていければと思っております。

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愛に基づいた真の行動とは、生きた真実を証しすることであり、私たちが一なる自己である主権的統合体に仕えることを意味します。この意志を行うことで、私たちは喜びを放射し、分離していると信じている私たちのすべての断片に喜びを放ち、それによって私たちのすべてが真実を思い出すのを助けます。

    • 肉体を傷つけるのは分離の思考だけです。私たちは一つの本質であり、その本質は幸福であることを知っています。したがって、幸福を感じないとき、私たちのセルフは行動するように呼びかける声が強まります。その呼びかけに従わないことだけが、痛み、苦しみ、病気、そして死を存在させ続けるのです。

      • 私たちの心がどんな考えや思考にも執着しないようにし、ただすべてのものの中に同じ完璧さを観ようとする意思を持つなら、真の現実は顕れます。私たちが自身の主権性と完璧さを認識することで、私たちのハートは真の愛に開かれます。それは、特定の条件や制限のない無条件で無制限の愛です。

        • エゴの心から主権的統合体を理解することはできません。すべての理解に達するためには、まず存在することが必要です。信念はエゴの心が私たちを欺くための武器です。私たちはすべての信念を、例外なく、静めることが必要です。その偽りの信念を手放すことが私たちにとっての第一の目標なのです。

        愛に基づいた真の行動とは、生きた真実を証しすることであり、私たちが一なる自己である主権的統合体に仕えることを意味します。この意志を行うことで、私たちは喜びを放射し、分離していると信じている私たちのすべての断片に喜びを放ち、それによって私たちのすべてが真実を思い出すのを助けます。

        • 肉体を傷つけるのは分離の思考だけです。私たちは一つの本質であり、その本質は幸福であることを知っています。したがって、幸福を感じないとき、私たちのセルフは行動するように呼びかける声が強まります。その呼びかけに従わないことだけが、痛み、苦しみ、病気、そして死を存在させ続けるのです。

        • 私たちの心がどんな考えや思考にも執着しないようにし、ただすべてのものの中に同じ完璧さを観ようとする意思を持つなら、真の現実は顕れます。私たちが自身の主権性と完璧さを認識することで、私たちのハートは真の愛に開かれます。それは、特定の条件や制限のない無条件で無制限の愛です。

        • エゴの心から主権的統合体を理解することはできません。すべての理解に達するためには、まず存在することが必要です。信念はエゴの心が私たちを欺くための武器です。私たちはすべての信念を、例外なく、静めることが必要です。その偽りの信念を手放すことが私たちにとっての第一の目標なのです。

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        • [Linp] インスピレーション free
          66本
        • [Linp] インスピレーション集 Vol-2
          100本
          ¥500
        • [Linp] インスピレーション集 Vol-1
          100本
          ¥500
        • [Linp] 最奥の自己から愛を込めて
          33本
        • [Ruru]いつでも赦し
          23本
        • [Ruru]奇跡講座 ワークブック実践記録(2)
          356本

        記事

          3歳の子供たちの笑顔、無邪気な眼差し、喜び、自発性を観察してください。彼らは他人を喜ばせようとせず、判断せず、意見を持たず、計画を立てず、ただ生き、愛し、信頼し、すべてが自分に与えられることをただ信じています。彼らは私たちが自分自身でもできることを示す役割を果たしています。

          3歳の子供たちの笑顔、無邪気な眼差し、喜び、自発性を観察してください。彼らは他人を喜ばせようとせず、判断せず、意見を持たず、計画を立てず、ただ生き、愛し、信頼し、すべてが自分に与えられることをただ信じています。彼らは私たちが自分自身でもできることを示す役割を果たしています。

          現実とは不変であり永遠です。私たちが生きていることを否定することではなく、ただこれを認識することです。もし、生きているものが永続しないなら、それは現実ではありません。私たちは不変です。真の愛は、何であるかを止めることも変わりこともありません。この事実をただ観察してみて下さい。

          現実とは不変であり永遠です。私たちが生きていることを否定することではなく、ただこれを認識することです。もし、生きているものが永続しないなら、それは現実ではありません。私たちは不変です。真の愛は、何であるかを止めることも変わりこともありません。この事実をただ観察してみて下さい。

          等価性を観ることを唯一の目的として形作られた新たな現実には幻想が入り込むことはできません。その中には痛みや恐怖はなく、純粋な喜び、純粋な愛だけが存在します。私たちが、毎瞬ハートの知性を表現するなら欺瞞に陥ることはなく、そのとき、私たちは分離を信じている状態から抜け出しています。

          等価性を観ることを唯一の目的として形作られた新たな現実には幻想が入り込むことはできません。その中には痛みや恐怖はなく、純粋な喜び、純粋な愛だけが存在します。私たちが、毎瞬ハートの知性を表現するなら欺瞞に陥ることはなく、そのとき、私たちは分離を信じている状態から抜け出しています。

          私たちが別の現実を観る決断をする瞬間、それを観るのは自分一人ではなく、私たちの世界のすべての人々が同時にそれを観ます。私たちは、自分の存在のすべての断片が、エゴの声ではなく、聖霊の声をより多く聞くようになり、彼が真に何であるかを思い出すサポートの手を取ることが可能になります。

          私たちが別の現実を観る決断をする瞬間、それを観るのは自分一人ではなく、私たちの世界のすべての人々が同時にそれを観ます。私たちは、自分の存在のすべての断片が、エゴの声ではなく、聖霊の声をより多く聞くようになり、彼が真に何であるかを思い出すサポートの手を取ることが可能になります。

          私たちには、あらゆる物体の中に、そしてあらゆる生き物の中に、風に、木々にといった、どこを見廻しても「一なる自己のわたし」の存在をハートを通して想像する力が与えられています。私たちが、この想像力を使ってそれを選択すれば、この至高の存在との統合のプロセスはさらに容易になっていきます。

          私たちには、あらゆる物体の中に、そしてあらゆる生き物の中に、風に、木々にといった、どこを見廻しても「一なる自己のわたし」の存在をハートを通して想像する力が与えられています。私たちが、この想像力を使ってそれを選択すれば、この至高の存在との統合のプロセスはさらに容易になっていきます。

          ハートで世界を観ると決断するき、そこには至高の存在である「一なる自己のわたし」が見え始めます。その「わたし」とはソースの知性であり、私たちの道のすべての瞬間を照らし続ける存在です。私たちはその存在によって、自分が真に何であるかを人生の中で証しながら生き始めることが可能になります。

          ハートで世界を観ると決断するき、そこには至高の存在である「一なる自己のわたし」が見え始めます。その「わたし」とはソースの知性であり、私たちの道のすべての瞬間を照らし続ける存在です。私たちはその存在によって、自分が真に何であるかを人生の中で証しながら生き始めることが可能になります。

          私たちは全体性であるために、分離の信念からくる自分の卑小さではなく、自身の偉大さを観察すれば、その偉大な光をすべてのものの中に感じることが可能になります。結果として、私たちは周囲のすべてである、人々、動物、植物、物体に観るものの中に、私たち自身の真実が示されていることを知ります。

          私たちは全体性であるために、分離の信念からくる自分の卑小さではなく、自身の偉大さを観察すれば、その偉大な光をすべてのものの中に感じることが可能になります。結果として、私たちは周囲のすべてである、人々、動物、植物、物体に観るものの中に、私たち自身の真実が示されていることを知ります。

          たとえ私たちが肉体の目で、その内なる神聖な光を観ることができなくても、それを感じることはできます。なぜなら、光は喜びであり、喜びは無条件の愛だからです。それには想像力が鍵となり、それに対する信頼が増すにつれて、この赦しによる非判断の眼差しは、自身を通して世界へと広がっていきます。

          たとえ私たちが肉体の目で、その内なる神聖な光を観ることができなくても、それを感じることはできます。なぜなら、光は喜びであり、喜びは無条件の愛だからです。それには想像力が鍵となり、それに対する信頼が増すにつれて、この赦しによる非判断の眼差しは、自身を通して世界へと広がっていきます。

          判断しない眼差しは、無邪気で、優しく、そして幸せな眼差しです。何も怖がらず、恥じることもなく、不信感を抱くこともありません。それは、存在を見つめ、ただ無限の感謝の気持ちを抱いている眼差しです。この眼差しは、私たちのハートの知性が統一されたものであり、それが私たちにささやく声です。

          判断しない眼差しは、無邪気で、優しく、そして幸せな眼差しです。何も怖がらず、恥じることもなく、不信感を抱くこともありません。それは、存在を見つめ、ただ無限の感謝の気持ちを抱いている眼差しです。この眼差しは、私たちのハートの知性が統一されたものであり、それが私たちにささやく声です。

          判断しない眼差しは静かであり、やってくるすべてのものを受け入れ、何にも反応しません。それは幻想を超えて観るため、投影はもはや障害になりません。非判断の眼差しは内的なものであり、私たちがこの想像力という神聖なる眼を選択するなら、全ての人の中に等価性の光を観ることが可能となります。

          判断しない眼差しは静かであり、やってくるすべてのものを受け入れ、何にも反応しません。それは幻想を超えて観るため、投影はもはや障害になりません。非判断の眼差しは内的なものであり、私たちがこの想像力という神聖なる眼を選択するなら、全ての人の中に等価性の光を観ることが可能となります。

          分離の信念が私たちが何であるかを無効にしないように、すべての瞬間にハートの知性を表現してください。すべてが私たちの光の反映である場所では、分離は不可能です。判断は執着を生み出し、一つの執着は、すべての執着へと繋がります。無関心の状態から観察し、判断しない眼差しを深めてください。

          分離の信念が私たちが何であるかを無効にしないように、すべての瞬間にハートの知性を表現してください。すべてが私たちの光の反映である場所では、分離は不可能です。判断は執着を生み出し、一つの執着は、すべての執着へと繋がります。無関心の状態から観察し、判断しない眼差しを深めてください。

          分離のプログラムを離れるには一瞬で十分であることを理解してください。過去や未来を探る思考や感情が私たちを支配することを許さず、それらを赦しによって手放してください。それらは私たちに属していません。私たちのセルフである主権的統合体はここにあり、今でも変わらず私たちを包含しています。

          分離のプログラムを離れるには一瞬で十分であることを理解してください。過去や未来を探る思考や感情が私たちを支配することを許さず、それらを赦しによって手放してください。それらは私たちに属していません。私たちのセルフである主権的統合体はここにあり、今でも変わらず私たちを包含しています。