雑感記録(300)
【続続・文学への熱情】
明日、健康診断がある。
だから今日はお酒を飲めないんだな…と悲嘆に暮れる訳だが、心のどこかで「別に前日だからって関係ないだろ」と思う自分もいる。僕等の日常の延長線上での検査の方が余程厳密な気がしている。いつも通りに過ごしてこその健康診断である。わざわざ健康診断が近いから身体を整え、その場限りで「良い数値」を出そうと躍起になる。「良い数値」って何だよと思いつつも、その一瞬の爆発力にエネルギーを僕は割けない。ゆるゆるっとダラダラっと生活したいものである。
人間、いきなり「走れ!」と言われて簡単に走れるものでは無い。
僕の知り合いは友人たちとふざけて急に走ったらアキレス腱が切れてしまったという話を聞いた。あとよく聞くのは肉離れだよね。一瞬の爆発力を発揮する為には「さあ、今すぐ」とか小手先の技術でどうにかなるようなものでは無い。アスリートなんか見てみろ。彼らは一瞬の爆発力の為に毎日毎日トレーニングをしているんだ。時間的には「一瞬」だから行為として出来るけれども、その一瞬は後支えのない空虚な一瞬である。
何か昔かさ、『一瞬の風になれ』っていう小説なかったっけ?
僕は全く以て興味が無かったから読んでないのだけど、こうして考えてみると中々凄いタイトルだよね。嫌らしいことをのべつ幕無しに語るとすれば、「風って一瞬なのか?」「一瞬ってどこまでを一瞬って表現するの?」とか。そういうことばかりが頭に浮かぶ。そう考えると本のタイトルって意外と重要なんだな…と思わされる。勿論、タイトルが「む?」みたいなものでも読めば面白い本は世の中に数多く存在する…んじゃないかぁ…。
過去の記録でも書いているけど、僕は小説を断ったし、あまり積極的に最近では読んでいない。最近読んだ本、読んでいる本を列挙するならば、武田砂鉄『わかりやすさの罪』、東浩紀『動物化するポストモダン』、谷川俊太郎『真っ白でいるよりも』、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、竹田青嗣『現代思想の冒険』、大澤真幸『近代日本思想の肖像』、廣松渉『マルクス主義の地平』などこの辺りだろう。今こう書いて、本当に小説が無いことに自分でも驚きだ。
僕が意図して「小説は読まないようにしよう…グヘヘヘ」みたいなことをしている訳では決してない。興味が決して無くなった訳でもないし、古本屋行って「おお、久々に名前見たな」とかは感じる。だけれども、手がそこに伸びない。自分でも不思議な感覚だ。こう今何とかして文章に落し込もうとしているのだけれども、上手い具合に言葉が出てこない。そんな感じである。
何か今まで熱中していたことに対して興味関心が無くなるのは鬱病の初期症状の1つらしい。
僕はいつも感じているのだけれども、今の世の中というか、昔からきっとそうなんじゃないかって。みーんな心を病んでいる存在だと。その濃淡が人によって様々に異なるだけの話であって、みーんな鬱病だと僕は思っている。その中でもとりわけ重い症状になって初めて「鬱病」と診断される。やっぱり顕在化しなければそれは病として認定されないのかと思うと、生きづらいなと感じる。
人間て本当に不思議な生き物でね。
名前を与えられると、それに追随しちゃうんだよ。「名は体を表す」って言うじゃない。それってどちらが先なんだろうね。名前が与えられているから、その名前によって自分自身がそう振舞うようになるのか。あるいは、自分自身という存在が成長するにつれて名前が見合ってくるのか。どちらか分からない。キラキラネームってどうなんだろう。例えば「紅葉」。この子の場合どうなるだろう。ちなみに読み方は「紅葉」と書いて「もみじ」ではなく「めいぷる」と読ませるそうだ。世も末である。
特に病気なんていうのは医者がそれを措定する訳だ。つまりは、僕らの命を握る権力的な立場に存在する人間として存在するからである。病院とはある意味で近代的な日本構造をしているような気がしてならない。僕は卒論で『春さきの風』から天皇制を病院に無理矢理こじつけるというパワープレイをしでかした。権力構造自体は天皇制の物と類似してそれが物語に強度を増すということを指摘した。
フーコーは「眼に見えない権力の方が怖い」というようなことを言う。
全くその通りである。これは僕等が当たり前だと思わされていることのその殆どは背後に何かしらの権力が働いている。それを「当たり前だ」と思おうとしている自分は何に突き動かされて「当たり前だ」と考えるのかを今1度考えてみることも良いだろう。民意か?一般意志か?一般という病理か?自分が所属していた社会か?そこかしこに考えるヒントは転がっている。
『考えるヒント』は小林秀雄の著作である。
小林秀雄というとやはり日本批評界の重鎮みたいなところがある。というか事実そうだ。批評の1つの中心にいた小林秀雄を引きずり降ろそうと躍起になる。蓮實重彦然り、柄谷行人然り、中上健次然り…そこら周辺の批評家(いや、中上健次は小説家だよな…まあ、いいや)たちがこぞって挑戦する。それでも小林秀雄の亡霊みたいなものが随所随所に現れてしまう。ということを柄谷行人と中上健次の対談集であるところの『小林秀雄をこえて』というものがある訳だ。
そして今度は、柄谷行人を超えようと東浩紀が登場し、『現代日本の批評』でそれをやってのける。思想の世界に於いては過去の思想をアップデートしようとする働きが存在しており、実際にそれが行なわれている。正しくその状況こそが僕が言うところの「後ろに進みながら前に進んでいる」状況そのものである訳だ。やはりこういう部分で僕は思想とか哲学にシンパシーを身勝手に感じている。……随分と大仰な書き方だが。
では、文学の世界ではどうか。
僕はここ最近、小説から距離を取ったことで何となくだけれども文学との距離感みたいなものが徐々に掴めているような気がする。ハッキリ言えば、やはりもうこの世界そのものが文学を必要としていないということが良く分かる。それが正しく、僕が本屋に行っても手が伸びない大きな原因のような気がしてならない。どれだけ僕がこの世界で文学というものを読み続けてもそれは趣味の領域にしかならない。本気で小説や文学に向き合っても、それが「趣味」というように評定されるという時点で、もはや文学は力を失効している。
「趣味でもいいじゃねえか」
「趣味」っていう言葉は僕はどうも苦手である。自分自身が本気で考えても「その程度のものだ」というように受け取られてしまうからである。その片手間感が腹立たしい。本人は本気で取り組んでいるのに「趣味」というたった2文字で片付けられて、嘲笑されるのには憤りを感じ得ない。だが、これが現実である。1人で愉しく黙々と本気で取り組んでいても、本気でそのことについて考えていても、社会が必要としなければ「趣味」である。
そんな馬鹿な話があってたまるか。
何度読み返しても腹立たしい。
面白いという言葉も曖昧である。
人によって面白さを感じるポイントは違う。例えばAという作品があったとして、僕はその中のaに面白さを感じたけれども、他の人はbに面白さを感じるだろうし、あるいはc、dに面白さを感じる人だって存在する。画一的な面白さなど果たして本当に面白いのか。「みんなが分かるような面白さ」が果たして本当に面白いものなのか。僕はこの面白さという言葉に安易に迎合したくない。必死に抵抗したい。
ここで朝井リョウは「おもしろい小説が書きたい」と発言している。その面白さって一体何なのと僕は言いたい。この面白さというのは数多くの読み手が自分で探る物なのではないのか。見つけ出すものではないのか。安易に「おもしろい小説が書きたい」と言っている訳だが、「ぼくは」という主語に在る通り、朝井リョウが面白いと思う小説が書ければそれでいいという身勝手な面白さを押し付けられているに過ぎない。
めっちゃ酷い言い方するね。
こんなこと堂々と言っている作家の小説を読んで「私、文学やってますから」と気取られると殴ってやりたくなる。別に朝井リョウの小説を読みたきゃ読めばいいと思うし、僕も彼の小説を読んだことはあるが否定はしない。「そうかこういう詰まらん小説もあるんだな」と思って読んだが。(『何者』ってやつ。)だけれども、これを文学と方々で評されるのはやはり解せない。まあ、この手については過去の記録でも書いているから、リンクを貼っておく。
僕もそんなに文学を語れる人間ではない訳だが、しかし文句は言いたい。恐らくだが、この手の小説を文学だと思っている人たちよりはある程度の素養はあると思う。とこういう書き方をすると「てめえ、上から目線で何を言ってやがる」と方々から叩かれそうだが、いいじゃねえか。上から目線、バンザイ。自分を都合よく仕立てる訳ではないが、こういう第3者という立場からやいのやいの言う奴が居たっていいじゃねえか。うざいなら無視しておけばいい。
「上から目線」についてみんなどう思う?
僕は最近この手の「上から目線」に対しては抵抗が出来た。一瞬イラっとするけれども、よくよく考えてみると意外と気づきを与えてくれる。腹立たしくなるってことはそれだけ自分がそのものに対して熱を以て取り組んでいるってことな訳でしょう。「お前、何もしていない癖に」ってなるかもしれないけれども、そもそもその時点で自分自身はそいつよりもやってるのだからそれで良いじゃない。って都合よすぎな解釈かな?
でも、こういう第3者的な立場で言うからこそ説得力を持つことだって当然ある訳だよね。それが肥大化してはいけないという所に注意しておけば。というのも、それが肥大化すれば「お客さま」というモンスターが誕生してしまうからだ。こういう時にやはり「/」は大切だ。この立場からやいのやいの言うこと、「あそび」からやいのやいの言うことこそがある意味で批評的なのではないかと考えている。
どちらかに偏った第3者的立場は良くない。その中間にある「あそび」から語ること。それこそが必要なのだ。と書いておいて、果たして今のこの僕がそれを出来ているかは些か不安な所がある訳だが…。精進したいものである。
今、読むに耐えうる作家というのはやはり「あそび」から誕生した作家なのではないかと思われて仕方がない。それがこの記録でも書いてある通り、阿部和重を始めとした文学の門外漢たちなのだろう。実際、阿部和重の小説は面白い。個人的には『インディビジュアル・プロジェクション』はお気に入りの1冊である。
とはいえ、彼らも書いていると文学的な問題、社会的な問題、政治的な問題にぶち当たる訳だ。きっとね。そりゃそうだよ。だって言葉で書いているんだもの。言葉自体がそういうものを孕んでしまっているのだから。そこに対して真摯に向き合っている感じが何か好感持てるよなと『阿部和重対談集』を久々に読み返して思う。
言葉から社会を考える。
僕はここの所それを「あそび」という谷川俊太郎の『ことばあそびをめぐって』という作品から敷衍させて種々雑多に書いている。
どこからどう読んでもクソみたいなことしか書いていない訳だが、しかし言葉や作品に触発されてここまで書ける。小説家でなくとも。これは単純に考えているか、考えていないかの差である。でも、こうやって考える癖が何でついたのかっていうことを考えてみると、やはり僕の根底には文学っていう存在があったのだと思う。
ここから少し真面目な話をするとね。
文学から社会を考えるっていうことが出来たのだと思うのね。明治期あたりから外国の文化、哲学や文学そういったものが入って来る訳だよね。それを反映させるような形で文学というものがあったはずなんだ。しかも、それが言葉の上でも作品の内容でも。これは過去に大澤真幸を引用したのだけれども、もう1度引用してみるね。
つまり、言葉の上でも配慮をしなければならなかったろうし、作品の内容そのものからも考慮しなければならない訳で。そういう前提があったからこそ文学は発展してきたのだろうし、文学が社会に大きな影響を与えるということはあった。例えばだけれども『風流夢譚』事件などというものは正しくそれの最たるものなのではないか。「文学が人を殺す」というものをまざまざと見せつけられた訳だ。非常に短絡的な考えだけれども、それでも文学が社会に与えた影響は凄まじいものであった。
文学が社会を巻き込むということ。文学から社会や政治、そして世界を考えるのであれば相互的に関係する。文学が社会に影響を与え、そして社会や政治が文学に影響を与える。この相互連関的な動きが活発にそして流動的に行なわれていた……はずだ。だって、三島由紀夫が東大全共斗と全面対決する訳でしょう。今、そんなことが出来るか?いや、そもそもそれに耐えうる程の文学なるものが今この世に存在しうるか?
やはり、文学は死滅した。
だからと言って、僕はもう今更「文学の復権を!」とは声を大にして言わない。言ったところで、そして書いたところでそれが受け入れられる土壌が既に死んでいる。もう社会のせいにしても今更遅い。だって、「おもしろい小説が書」ければそれでいいということが許容され、そしてそれを文学だと思う人が大多数であるのならば、僕がこうしてやいのやいの書いても世間一般というおぞましい世界の中では「趣味」の領域を出ることは無いのだから。
だが、ここで腐っては意味がない。
文学部卒の意地とプライドがだな…。逆にこういうご時世だからこそ、こういう感覚は持っていたいと思うんだな。それが例え独りよがりでも何でも。僕はこれからも文学について考え続けることは間違いが無いだろう。例え、小説を断ったとはいえ、文学の領域は広い。
そして小説から離れたからこそ見える小説があるはずだ。だから僕はそれを信じてこのnoteでやいのやいの言い続けるだろう。一人で寒々しい空の下の踊り場で僕は踊り続けるだろう。馬鹿にされ、コケにされ、貶されようが。踊り続けること。ある意味で僕は幸運な人間なのである。
今、もう既に死滅した文学という感覚を持ちながらもその葛藤と悔しさと怒りと喜びと、様々な感情を抱えることが出来るのは幸運なのかもしれない。通り一辺倒に与えられる「面白さ」だけで満足できない人間で居られて良かったなと思う。文学について様々な方面から考え続けることが出来たからこそ、僕は今物凄く愉しい。
そうか、そういう意味ではまだ文学は死滅していない。
僕の中には文学がまだある。果たしてその文学が正しいのか正しくないのか、そんなことは毛程もどうでもいい。最終的にこれを書くのは卑怯だが、誰がどの作品と向き合って「文学」と評定しようがどうだっていい。ただ、少なくとも「おもしろい小説が書きたいだけです」と言っている小説家たちの小説を文学だと言っているうちは、僕自身は!僕自身はそれで「文学」とは決して言えないと考えている。
「じゃあ、お前の考える文学ってなんだよ」
これは僕の人生を通した課題である。そしてその過程を僕が日々感じた様々なものと接続して作り上げていきたい。僕もわりと意固地なところがあるので、昨今「文学」と呼ばれる作品について読んでみたいとは思う。だが、それに凝り固まるのもよろしくない。適度な距離感を保ちつつ考えていきたいものである。
これで締めくくりとしよう。
そう言えば、この記録は300本目である。
僕がnoteを始めたのは2022年3月28日である。今日は2024年6月20日である。大体2年ぐらいか。そう考えるとあまりnoteを書いていないんだなと思い知らされる。冷静に考えて1年は365日で毎日書いていれば365本の記録になる訳だ。だけれども僕は2年で300本である。何だか微妙な感じだなとも思う。
僕の友人は去年1年間ブログに毎日日記を付けていた。僕はそれを読むのが本当に楽しみだった。今では大分間隔が空いての投稿である。その真意を友人に聞いたら「1年間毎日はしんどい」というシンプルな回答だった。それでも1年毎日続けるのは凄い。「この日は飯食って寝た」のような1文であってもそれを残せるのは凄い。尊敬できる部分だ。
だが、毎回毎回読んで思ったのだが、あれだけのハイクオリティの文章を毎日毎日続けると考えれば少し怖くなる。だからそういう人間味あるブログで好きである。それは今も変わらずである。というよりもだ。彼のブログのお陰で僕も実はこのnoteを始めたということは秘密である。
そんな300本目の記録である。
これからも日々のことから文学や映画などの芸術に接続し、自分なりの文学感とでも言おうか。そう言ったものを人生を通して考え続けたい。
よしなに。
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