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雑感記録(318)

【文学的生を求めて】


ものたちと

 いつだってひとは ものたちといる
 あたりまえのかおで

 おなじあたりまえのかおで ものたちも
 そうしているのだと しんじて

 はだかでひとり ふろにいるときでさえ
 タオル クシ カガミ セッケンといる

 どころか そのふろばそのものが もので
 そのふろばをもつ すまいもむろん もの

 ものたちから みはなされることだけは
 ありえないのだ このよでひとは

 たとえすべてのひとから みはなされた
 ひとがいても そのひとに

 こころやさしい ぬのきれが一まい
 よりそっていないとは しんじにくい

まど・みちお「ものたちと」『まど・みちお詩集』
(岩波文庫 2017年)P.192,193

今日も朝早く目が覚めてしまった。起きた瞬間、何故かふとまど・みちおの『ものたちと』という詩が頭の中に断片的に思い浮かぶ。これは作為的に思われるかもしれないだろうが、ふとした瞬間に言葉が思い出されることがある。これまで自分が触れてきた小説の一節であったり、詩の一節であったり、あるいは歌詞の一節であったり。そういったものが何の前触れもなしに現れることがある。

人の記憶というのは中々不思議なもので、何かに触発されて思い出されることが多い。例えば、日常のある光景を目にした時ふと思い出されること。それが自身のことに急に身に寄せられて、それが自分へ憑依してさも自分自身の出来事であるかのように現れる。その時に思い出されるのは映像であることが殆どである訳だが、こうして時たま言葉だけが頭に浮かぶこともある。とかく僕の場合はそういうことが多いように思う。

ベルグソンは『物質と記憶』という著書を残している。生憎僕はそれを未だに読んでいない。それに今の所はまだ読む予定はない。本の出会いというのはタイミングなどもある訳で、その時機が訪れた時に読もうと思う。『物質と記憶』というタイトル。想像するに物と記憶に関する何かである筈だ。タイトルとそこに書かれる内容はある程度の相関関係がある訳で、勿論筆者ごとによって異なるのは重々承知ではあるが、内容に若干寄せてタイトルが冠されることはあるだろう。

物と記憶。日本人には「八百万の神」というような概念が存在している。僕は無宗教であるので実際どの宗派がとか宗教的なことは殆ど知らない。だが、そういう無宗教の人であっても「何か物には魂が宿っている」あるいは「物には神様が居る」という考えが潜在的な部分で刷り込まれているのだと思う。この考え方は神道系なのかもすら分かっていない。そう言えば、『トイレの神様』という曲があったことが思い出される。彼女は今、何をしているのだろうか。僕には知る由もなければ、さして興味も無い。


 捨てられはしたけれど破壊はまぬかれた、近い過去の生活用品には、独特の表情がある。元の所有者たちの生活の匂いが、設計者や製造者の顔が透けて見える。それらが引きずっている人々の過去に、感情に、もっと言うなら、「もの」じたいが持っている心、すなわち「物心」に私は想いをはせる。実際に実用し、目に見える場所に置いてやることで、生きられた時間をよみがえらせてやるのだ。「物心」は国を越える。

堀江敏幸「多情「物」心」『もののはずみ』
(角川書店 2005年)P.10,11

堀江敏幸の『もののはずみ』というエッセー集が僕には思い出される。僕はこれを「八百万の神」と表現することはしない。だが、このエッセー集には学ぶべきことが沢山あるように思われて仕方がない。僕の結論から言えば、何かを語ること、つまりは「物語る」ということは前提としてそこに「物」が存在する。そしてその「物」には自分自身とそしてそれを作った側、あるいはそれを過去に利用していた人の感情、その「物」が生まれた時代的要請など様々な「物語」が存在している。僕等はそれらをしかと見つめる必要がある。

とはいえ、このエッセー集のように眼に付いたものを沢山買ってしまうというのは堀江敏幸の個人的経験であって僕等の経験ではない。彼の「物語」であって少なくとも僕等の「物語」ではない。だから僕等は僕等のやり方で「物語る」ことをしなければならない。そんなことを考えてしまう。偶然性の繋がり。僕はここまで書いていてその言葉がはたと頭の中に思い浮かばれる。これは記憶ではなく、言葉による触発である。

記憶の発露は僕等の五感を通してやって来る。何かの言葉を見、そして聞く。あるいは何か物を見て、触り、肌触りから思い出される何か。そういったことにより心の奥底からジワリジワリと湧いて出てくる。そういうものだと僕は思っている。と大仰に書いても当たり前のこと過ぎて恥ずかしいったらありゃしない訳だが。

僕の場合は「物」という具体的な形状を持っていない訳だが、その生活で起きた出来事や言葉に触発されて語ることが多いかもしれない。だが、それは余りにも閉じられた空間であると『もののはずみ』を読んで思わされる。この引用にもある通り、「「物心」は国を越える」のである。しばしば、人間関係は人の網目状になっているというような比喩が利用されることが多い。ちなみにこの比喩は直近で話題になった『君たちはどう生きるか』でも語られていることである。最初の方で。

あらゆる物には見えない糸みたいなものが張り巡らされ、それらが互いに結び合っている。僕は最近凄くそれを感じる。何だろう、細く透明な糸で繋がっている場合もあれば綱のように強力な糸で繋がっている場合もある。一見何も関係ないような物事でも、実はか細い糸で繋がっている。それを強くするか、あるいは断ち切るかは「物語る」僕等に委ねられることになる訳である。僕等がどう向き合うかである。

というよりも、僕等は既に繋がっているのである。宗教的なそして大規模的な話にはなる訳だが、僕等は地球という同じ物理的空間に身を投じている。そこの環境が違っても、生き方が違っても、異なる時間を生きていようとも、偶然にも同じ地平に存在しているのである。僕はこれを「必然的」という表現はしたくない。僕はやはり「偶然性」を愛したい。それを「物語る」ことも人生の醍醐味でもある。


僕は常々、「文学的に生きたい」ということを考えている。

この「文学」というのは何かということをここで定義したりするつもりは微塵もない。それは各種様々な小説家によってあるいは文芸批評家、哲学者によって書かれている本を読めばいい。それにここで「僕が考える文学はこうだ」と書いたところで、それを必要にしていない人にとってはゴミクズも同然である。そして何より、このnoteの節目節目で書いている記録にもある通り、何年経っても文学というものについて「これだ!」というものが掴めていない。掴む必要も無いのだろうけれども。

しかし、確実に言えることは、僕が想定している文学は近代文学のそれである。言ってしまえば自然主義文学的なリアリズムが存在している。それは明治期から連綿と受け継がれてきた物であり、僕が実際に研究してきたプロレタリア文学であったり、それ以後の小説であったり。そこが僕の根底にはあるような気がする。だが、それが「文学的に生きたい」ということに繋がるという訳ではない。

全く関係ない話だが、これを書きながら古井由吉のエッセーの一部が僕の頭の中にフワフワと浮かび上がってくる。

 私自身は、表現というものはどんなに陰湿な屈折を経るにせよ、どんなに卑しい下心をもつにせよ、根がお人好しでなければ始まらない、本来そういうものだと考える者なので、一身上の利害からのみ出た文章のくふうを表現のくふうとは呼びたくない。それはいかに柔軟な思慮にもとづくものであっても、利害という一面では平板であり、硬直しており、繊細さを欠いている。一身上の利害に、他者への配慮が加わる時、はじめて表現のくふうは生じ、配慮が深くなるほど、表現の繊細さはまさる、と私は考える。
 しかしまた逆の方向から考えると、表現のくふうということをもっぱら無私の行為と考えるのは、あまりにも無邪気すぎる。表現のくふうはあくまでも自己と他者との関係の中で行われるものであって、思いやりということと同様に、まず本人のエゴイズムがはたらいているところでなくては成り立ち得ない。自分を正当化したい、自分を正しく賢く、ときには美しく見せたいという下心は、どんなにすぐれた文章にもはたらいている。ただ、良い文章は上手下手にかかわらず、他者への洞察によって自分を相対化しようと努め、しかも相対化しきれない自分を表すものだ。自分が結局は自分でしかあり得ないことに、許しを求めているような表情が、良い文章にはどこかしらうかがわれる。

古井由吉「表現のくふう」『言葉の呪術』
(作品社 1980年)P.87,88

僕はこれまで、「寛容になりたい」ということをnoteで散々に書いている。そして直近の記録でも「優しさ」を巡ってとるに足りないことを延々と書いている訳である。そして文学というものは畢竟するにその伝家の宝刀であるところの「優しさ」を磨く為に文学や哲学、芸術に触れ続け考え続けたいということをのべつ幕なしに語ってきた訳である。

この古井由吉の引用にある「表現」というものを「生き方」と置き換えてみても良いのかもしれない。そもそも文章というのは伝達ということが主眼に置かれがちだが、僕は芸術的な文章に触れ続けているので、同時に自己表現するものであると考えている。文章に「表現のくふう」があるのであれば「生き方のくふう」と全く以て同じということは決してないが、同じように考えてみても良いのではないだろうか。

僕等が誰かと接することは、それは言葉を解した自己表現である。

「命がけの飛躍」をお互いに重ねて作り上げるものこそ「物語」である。自分自身の存在や相手のことを「物」と表現するのは些か抵抗がある訳だが、1つの存在として考えれば、あるいはベルグソンの『物質と記憶』というタイトルの通り、僕等の身体を物質と捉えれば「物」としても良いだろう。僕等が僕ら自身のことを物語るのはお互いの物語を接続して、目に見えない糸を顕在化し強固にしていくことなのではないか。そして新たな物語を創出することではないだろうか。


僕はこの記録の最初の方に、記憶が触発される装置には言葉があると書いた。それは、僕等は他人とコミュニケーションを取る時にはやはり言葉が中心になる。そして、そこでお互いの自己表現を通してお互いがお互いを知る。そうして新たな「物語」が誕生する。そうして様々な「物語」が複雑に絡み合い、大きな「物語」が現前に現れてくる。

これらの「大きな物語」「大きな非物語」等の所謂「データベース・モデル」を元に考えると猶の事面白いのだろうが、生憎まだ一読しかしていないので、もう少し考えてから書きたい。ただここに1つ自分自身に置いて行く課題として書き記す程度に留めておくことにしよう。ある種のメモランダムとしてここに書く。

僕等は語りたい。あらゆる物事について語りたい。自分の事であったり自分の周辺に転がっている事物について語りたい。しかし、その場が今では解体されてしまっているような気がしてならない。つまり、「自分語りがサムい」と思われる時代になっている。

しばしば、会社や学校でも何でもいい訳だが、自分の過去の出来事を武勇伝のように語る人間が居る。「いやね、昔はワルをよくやったもんだが、今はね…」と語る人が居る。その語りの定型として「昔はよく……もんだよ」というような口調である。ある意味で「昔は良かったよな」というニュアンスを少なからず孕み、今を否定しようとする心持が直接的に表現しなくても語る人の心象には現れているような気がしてならない。

僕はその現状に対して少し疑念を抱く。

正直に言えば、別に昔の武勇伝を語ったりしても良いじゃないかとは思う。それは自分が実際に経験したことであるのだから。それがその人を構成する「小さな物語」の1つであることは言うまでもない。僕の肌感だから信用しないで欲しいのだが、要は「何を語るか」ということよりも、それを「どう語るか」ということに意識が向いていないと思う。正しく、先に引用した古井由吉の提示する「表現のくふう」が必要であると思われて仕方がない。

武勇伝を説教臭く、そして誇らしげに語ってしまうことに僕は問題があると思うのだ。そこで語られる内容などにはさして意味は殆どない。それは自分の中で勝手に妄想して想像することが可能だからである。虚言癖とでも言ってしまおうか。要はその語り方にこそ着目せねばならないのではないだろうか。最近の僕は、ここ数日の記録を見て貰えれば分かるかもしれないが、ずっと「語り」の問題について悩まされている。


僕は以前の記録で「ユーモアを以て語るべきである」と書いた。

それは今でも変わらない。大切な事であると僕は感じている。僕はやはり「あそび」を作っていきたい。それは人間と人間の心の空間でもあり、言葉と言葉の空間でもある。単純に自分自身がユーモアを以て語る方が面白いじゃない。そのユーモアの程度にもよるだろうが。一応、谷川俊太郎の「ことばあそびをめぐって」というエッセーを再再度引用しておきたい。

 *言語は大変複雑な構造をもっていて、簡単にわりきることはできないんですが、かりにそれを実用的なことばと非実用的なことばという軸で分けてみたとすると、たとえば法律の条文、商売のほうの契約書、自然科学の論文、新聞記事、器具の説明書など、ふだんの生活の中で耳にしたり目にふれたりすることばの多くは、いわば実用的なことばですね、私たちの日常会話の大部分も、そうだといえる。だけどたとえば、そういう日常会話の中でも、ちょっとした冗談を言って人を笑わせたり、その場の雰囲気をやわらげたりということもあるでしょ。
 そういう冗談はべつに実のあることを伝えているわけじゃないんだけど、建具屋さんがふすまと敷居の間に適当な〈あそび〉をつくるように、人間の心と心の間にゆとりをつくる働きをするんだと思います。これはすでに広い意味での〈ことばあそび〉と言ってもいいんじゃないでしょうか。

谷川俊太郎「ことばあそびをめぐって」
『ことばを中心に』(1985年 草思社)
P.238

言葉は僕等を呪縛する。それこそ先に引用した古井由吉のエッセー集も『言葉の呪術』というものである。言葉は僕等を縛る。誰かに言われた些細な一言で傷ついたり、苦しめられたり、あるいは救われることだってある。勿論、その経験は重要である。過去の記録でも何度も書いているが、コミュニケーションは言葉の「命がけの飛躍」である。あらゆる誤解が生じることを受け入れ言葉を発し、お互いがお互いに誤解を重ねる中で上手い具合に関係性を築いていくのである。

だが、単純にそればかりを考えていてはコミュニケーションも立ち行かなくなる。全てが全て「命がけの飛躍」であるならば、いくら命があっても足りない。だからこそ、「あそび」としての冗談やユーモアが必要なのである。それをあまりにも今の時代は自覚していなさ過ぎなような気がしてならない。伝えることだけが全てではない。そこに「あそび」を見い出すことこそが肝心である。

言いかえれば、この谷川俊太郎の引用にもある通りに、「人間の心と心の間にゆとりをつくる」ことが肝心だ。言葉に縛られている僕等は如何にその言葉の裏道や抜け道を考えていかなければならない。ただ字義通りの意味で言葉を受け取ってはならない。そこに自分なりのユーモアを以て接することが出来るのかが重要である。

僕はこれまで手放しにユーモア、ユーモアと書いている訳だが、ユーモアと言ってもギャグとは異なるということだけは断っておきたい。ただ笑いを取る為だけの面白さはギャグだ。そんなものはお笑い芸人にでも任せて置けばいい。僕がここで想定しているユーモアというのは知的な要素を孕んでいるということだけは断っておきたい。例えば、笑うこと、冗談で下ネタを安易に入れる人間が居る。そういうのは下品という。


ユーモアというのは簡単に手に入れることは出来ない。

それは、数多くの文学や芸術、哲学などの作品に触れることで得られるものであると僕は考えている。これは先にも書いた通り、「寛容さ」「優しさ」というものと同じ地平に存在している。つまり、ユーモアは同時に「寛容さ」そして「優しさ」でもあると言っても過言ではない。相手のことを思うという気持ちには相異ない訳である。

この「ユーモア」ということについては、また時間を掛けて考えてみたい。それは構造的に「寛容さ」「優しさ」と繋がると、そして同じ地平であると安易に書いてしまっている訳だが、それが本当にそうなのかということを自分自身の中で検証しきれていないからである。また気が向いたら書くことにしよう。

さて、朝から色々と書いてしまった。ここでそろそろお終いにしよう。ちょうど、『もののはずみ』のあとがきが凄く良いことを書いていたので、最後にそれを引用してこの記録を閉じたいと思う。

 実際に使っている「もの」も、見ているだけの「もの」も、特定の生活空間に呼び込まれてはじめて息を吹き返す。ずっとそこに置かれたままで力を発揮する場合もあれば、あちこち移動し、隣りあうなにかとの関係のなかで、それまでの自分にはないあたらしい文脈を発見していく場合もある。彼らのしずかな変幻を見守ることも、「物心」のおおきなはたらきのひとつなのだ。つまり、「仏心」ならぬ「物心」とは、「もの」を買ったり愛でたりすることと、かならずしも一致しないのである。どんなにありふれた量産品でも、それが最新であった時代の役目を終え、廃棄されるかわりに生き延びようとするとき、他のだれかのもとではなくこの自分のところにやってくることになったいくつもの偶然の重なりと、そこに絡んでいた人と人のつながりをこそ、「物心」あらんと欲する私たちは愛するわけで、もしかすると、「物」じたいより、背後にあるさまざまな「物」を語ることのほうを、物語のほうを大切にしているのかもしれないのである。

堀江敏幸「「もの」の「はずみ」—あとがきにかえて」
『もののはずみ』(角川書店 2005年)P.201,202

よしなに。

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