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檸檬読書日記 夏目漱石はおれおれ防止、とろとろ雨が、泉鏡花の幼き顔を見る。 7月1日-7月7日

7月1日(月)

note2年目だ。早い。石の上にも三年まで1年。



1日恒例神社参り。
茅の輪くぐりをしてきた。本来は6月30日にするらしいけど。まぁ、まぁ…。
それにしてもそんな時期なのかと驚き。1年あっという間だなあ。






7月2日(火)


最近お気に入りの、オーガニックフルーツ&ナッツバー。
全部で4種類。

「ココナッツ」
「ザクロ」
「アーモンド」
「メープル」

水飴と寒天などで固めていて、それも食材をただくっつけるだけの役割だからか、固すぎず柔らかすぎず、適度な固さ。ドライフルーツはふにゃっと、ナッツや玄米パフはザクっと歯ごたえ良く、それらが絶妙なバランスで一つにまとまっている。結構面白い食感。

「ココナッツ」は、ココナッツ自体がふんだんに入っているから、かなり独特な味わいだけれど、癖になる美味しさがある。

「ザクロ」は、ザクロというよりもベリー感が強い。少し酸っぱめベリー。かなりなベリー感だから、ベリー好きにはいいかも。

「アーモンド」は、無難に無難。誰にでも好まれる感じ。

「メープル」は、まさにメープル。自分はこれが1番好きかも。

全部程よい甘さで、食べやすい。


使っている材料全て有機なのも嬉しい。

1本でかなり満腹感があるから、小腹が空いた時に良さそう。常にポケットに忍ばせておきたくなる。ポケットの中にビスケットではなく、ナッツバーをね。
ポケットの中にはナッツバーが1つ♪
みたいなね。



井上ひさし『私家版 日本語文法』を読む。

日本語って、何故こうも難しいのだろう。
自分の落ちこぼれさを再認識させられる。
つまりはあまりよく分からなかった。けれど、例えや文章が井上ひさしらしくユーモアがあって、多少の置いてけぼりにはなりつつも興味深く読めた。

中でも、夏目漱石の話は興味深かった。
夏目漱石『坊つちゃん』では、「おれ」という人代名詞を主語とするのを、あえて避けているようで。
「明らさまに主語に立つことは慎重に回避されている。」
らしい。


〈おれ〉が主語に立つのをなぜここまで隠さなければならないのだろうか。漱石にはそういう癖があったのか。開巻劈頭から、「吾輩は猫である」と人代名詞を主語に立てたことのある漱石だ、そんな癖があったとは思われない。漱石はつまり人代名詞を使いわけていたのである。


なんと!


『吾輩は猫である』の語り手である猫は、いきなり「吾輩は……」と偉そうにいい、髭をひねりあげることによってヨソモノ宣言をしたのだ。(略)なにせ吾輩は猫であって諸君たちのような人間という(略)生物とはちがう(略)、と物語の語られ方の構造を種明かししてしまったのだ。〈猫の物語る……〉という形式を、この冒頭の一句はあきらかにする。人間界のヨソモノである猫が喋っているのだということを読者に意識すればするほど作品の滑稽味と厚味は増すであろう、と漱石は計算したにちがいない。


なるほど。


一方の『坊つちゃん』ではその逆の計算がなされている。作品の最初から(略)「おれおれ」になるのを避けてる。物語り体の小説で、おれおれと強く推しすぎると、日本人読者が逃げるだろうとう胸算用がある。


確かにオレオレ詐欺って、ドンビクもんね。(違う?)
小説でも、主語が一つの文に複数使われていると結構気になるもんなあ。
だから夏目漱石はあえて、多用しないようにした。


注意深く人代名詞を扱って(略)、読者との間をこまかく調整しながら(略)、すこしずつ読者を物語のナカマに誘い込み、共同の縄張りができたところではじめて〈おれは〉と人代名詞を主語に立てるのである。


夏目漱石、天才ではないか。(いや天才なんだけど)
そこまで考えられていたとは…。
意識して『坊つちゃん』を読みたくなった。他に上げられた『倫敦塔』『カーライル博物館』『一夜』『趣味の遺伝』も気になる。

そして、考えられて文章を練り生み出すのは、夏目漱石だけではない。他の文豪たちにもいえることで、彼らには人にしか生み出せない「エントロピー」があるという。
「エントロピー」=不確定度が、大きい。つまりは、「読者の予測を許さない」文章。
それはコンピュータやAIでは生み出せないもので。


(略)どんなにすぐれた自動翻訳機ができても、小説や詩や戯曲の翻訳だけはコンピュータの手には負えない。すくなくとも、よい、そしておもしろい文学には、コンピュータは永遠に音をあげつづけることになるだろう。(略)個性的な文章やおもしろい文章やよくできた比喩は、常にエントロピーが大であるからだ。しかもそれはじつにいいことであると思われる。なにもかもがコンピュータに合わせて仕切られてしまう世の中に、物書きたちはいつも人間としての肉声を発しつづけなければならない。それが物書きたちのつとめになるはずである。それにはやはりコンピュータにからめとられてしまうような、紋切型の文章を書いていてはだめだな。これはもとより自戒である。


そう最後は締めくくられている。

時代は進んで、今や文章までも作れてしまうけれど、未だに絵も小説も響くものは出来ていない。「作られたもの」というのが明らかで、人には追いついてはいない。(あくまでも個人的見解)
それはやはり魅力的な作品を生み出す人が、次から次へと生まれているからだろうなとも思う。
それでも機械で作られたものの方が良いとなった時は、きっと創作物の終わりなんだろうなあ。その時は本も芸術もなくなる気がする。
機械の文章で良いということは、予測不可能なことへの拒絶ということで、人らしさ、個性がいらないということだと思うから。
井上ひさしの言うように、おそらく機械では人には追いつけない。永遠に音をあげつづける。だけど人の方が機械を望めば、関係なくなってしまう。永遠に、そうならないでほしいなあと願うばかり。
だから自分も、やはり人の方が良いと思ってもらえるような文章を書けるようになりたいな。






7月3日(水)

小川糸『糸暦』を読み始める。歳時記エッセイ。


山椒がミカン科と知ったのは、つい最近のことだった。確かに、言われてみれば、山椒は小さなミカンである。香りも、若いミカンそのものだ。


ミカン科だったのか。知らなかった。
でもピリピリして、ミカンほど優しくないよ。痺れるー。


わたしの経験上、ラッキョウほど手間のかかる食材はない。まず、大抵の場合、ラッキョウは泥にまみれている。だから、最初はその汚れを水で洗い、綺麗にする必要がある。更に、表の薄皮を一、二枚剥がして、つるんとした素肌をあらわにする。それから、根っこを切り落とし、更に芽も切り落とす。これを、一つ一つ手に取って作業するのだ。気が遠くなるのも、無理はない。


分かる分かると頷きながら読んだ。

本当に、ラッキョウは手間がかかる。
泥を取るのも、ラッキョウは大体束になってくっついているから、それを剥がして、1つ1つ洗わなくてはいけない。
尚且つ、痛い。切って皮を剥いていると、ラッキョウの成分が飛ぶからなのか、目が凄く痛くなる。(玉ねぎを切ってる時と同じ感じ)
本当に気が遠くなる。大変さが分かっているから、やる時はよしっと気合を入れてからでないと出来ない。
思い出すだけでも、気が遠くなる。毎年よくやっているよなあと思う。でもその分美味しいんだよなあ、ラッキョウ。罪深き奴だ。



米原万里『打ちのめされるようなすごい本』を読む。


(略)たしかコール・ドイツ首相がいみじくも「日本には友人と呼べる国がない」と言い当てたことを、ふと思いだしてしまった。


確かに。

当たり前だけど、国って国民性が反映されるよなあ。
長いものに巻かれろ、踏み込めない、踏み込まないで、でも助けて。
自分もそうだけど、親しくなるとか友達作りが下手っぴなのかも。



『村山槐多全集』を読む。


強き紫のひかり燈火より来れり
君思ひわれは泣きけり
ひそやかに暗き夜はわが涙の
冷めたき宝玉を拾ふ

とろとろと外に雨ふれり
薄くれなゐの雨かな、ふりしきるは
光陰顕す露はきらめくなり
電光時に雨は交はれり

(略)

爛々と輝ける眼の底に
遠くはるけく映れり君の影ほのかに
雨ふりの薄明り見すかせば
わが涙は宝玉なり五色の虹を交へたり

強き紫のひかり薄らぎゆけり
薄紅の虹もてる暗夜に
争闘不可思議にわが神経をこそこめたれ
美しく一滴の赤血したたれりその上に。

「雨夜の涕泣」


「とろとろと外に雨ふれり」

「電光時に雨は交はれり」

「わが涙は宝玉なり五色の虹を交へたり」

どうやったら思いつくのだろう。
心拍数上がる。
そして最後よ。

「美しく一滴の赤血したたれりその上に。」

くぅ。痺れる。





7月4日(木)

お付き合いで服屋に行ったら、雑貨と本も少し置いているようで、自分は本を物色。そしたらびっくり。凄くいいものがあるではないか。
そこで買った本は、2冊。

くどうれいん『わたしを空腹にしないほうがいい』
本秀康『あげものブルース』

本屋にはあまり置いてないような、独特なセレクトで湧いた。
何より!何より!くどうれいん『わたしを空腹にしないほうがいい』!
ずっと探していた本。本屋では売っていない、個人経営の本屋(それでも限られている)しか売ってない本だから、なかなか手に入らなくて…一生手に入らないかもとちょこっと諦めかけていたけど、まさかまさかで嬉しい。

『あげものブルース』は、一目惚れして買った。
揚げ物は苦手だけど、中の絵が凄く好みだった。
モノクロ!という感じと、レトロで少しシュールな絵柄が個性的で惹かれる。昔のような全てペンで描いている、温度のある描き方が本当に良き。

2冊とも、普通の本屋ではきっと出会えなかっただろうから、付き合いで行って良かった。
本当はもう何冊か気になる本があったから、また行こうかな。

買った本


後、本屋も行った。



小川糸『糸暦』を読み終わる。

穏やかな気持ちになった。
山の中で自然と共に暮らす生活、良いなあと思いながら読んだ。とても憧れる。
山菜を採ったり、旬の野菜を食べたり、梅仕事など手仕事をして保存食を作ったり。
自然に寄り添い、そして季節を味わう。日本人ならではの豊かな暮らしに、日本てやっぱり良いよなあと改めて思った。
大変で面倒なこともあるけれど、捨ててはいけないものたちが詰まっている気がした。

この本、静かな文章も素敵だけれど、絵も良い。
モノクロに色は赤1つ。レトロな色合いと模様に、味のある絵柄。文章ととても合っている。
絵も多く収録されていて、見るだけでも楽しい。その上レシピも少し載っていたりと、なんとも贅沢な1冊だった。



新紙幣、本当に無駄すぎて…。キャッシュレスを推しているのに、というところから見え見えで。
旧札を紙にする気満々ですか。たんす貯金を出させたいのかな。
お金が新しくなるから機械も変えなくてはいけないしでゴミが…。
むーん。





7月5日(金)

『葬送のフリーレン』をようやく見終えた。
いやぁ、良かった。最初は観るのやめようかなとも思ったけれど、見続けて良かった。
進むにつれて戦いも出てきて、魔法らしいバトルがかなり熱かった。
んー、早く漫画ほしいなあ。
何巻くらいまで続くだろう。そんなに長くは続かなそうだけれど…20辺りか、いって30巻くらいかなあ。
でもまだまだ先だな。

次は『鬼滅の刃』だ。でももう最終回なっててびっくり。そして続けは劇場版ていうね…悲しい。観れるの大分先だなあ。



オリガ・ベレベンニク『戦争日記 :鉛筆1本で描いたウクライナのある家族の日々』を読む。


わたしがのこ日記を書くのは「戦争反対!」と叫ぶためである。
戦争に勝者はいない。そこにあるのは血、破壊、そしてわたしたちひとりひとりの心の中に出来た大きな穴だけだ。
(略)
わたしは民族で人を分けない。
人を定義するのは、民族ではなく行動だからだ。
多くのロシア人が戦争に反対していることを知っている。
今は、はっきりと分かる。戦争と人間が別物であることが。
戦争は人間など気しない。
戦争はわたしを思い切り揺さぶった。
今わたしは国籍や民族を問わず、わたしを助けてくれる人たちと共にいる。
彼らには「力」がある。
戦争は終わり、そういう力を持った人たちは生き残っていくだろう。


「戦争に勝者はいない。そこにあるのは血、破壊」

本当に、勝ちはない。そして何も生まれないし、何も生まない。

「人を定義するのは、民族ではなく行動」

戦争をしているからといって、その国の人が全員戦争を支持している訳ではない。だから戦争をしている〇〇の国の人だから、悪者という認識は違うと思う。
何処の国も民族も、戦争をしたがる悪い人もいれば、同時に人を救う良い人もたくさんいる。
何処も同じはずなのに、戦争をするとその国の人は全員が悪者となってしまう。何故そんなにも極端なのだろう。

この本には、戦争が始まり地下での生活、そして国外へ脱出するまでが、ラフなタッチの絵と短い文で記されている。
だからとても読みやすく、スっと入ってくる。

『戦争日記』を読んで、やはり現金を持つことは大切なんだなと改めて思った。(まあ自分は電子マネーもカードも信用してないから、持っても使ってもいないのだけれど)
今の時代、電子マネーが殆どで、現金を持っている人は少ない。でも、何かあった時、電子マネーも勿論カードも使えない。慌てて現金を下ろそうとしても、銀行は止まっていて下ろせない。
なのに、食品を買うには現金しか使えない。
だからある程度は、持っていた方がいいのではないかなと。


地下室にチョークを持ってきた。
とうとう、ここにも「洞窟壁画」と言えるくらいのものが出来上がった。
子どもたちは爆撃音を聞きながら「平和」と書いている。


この本の中で、最も印象に残っている場面。

子どもたちの願い「平和」が、届いてほしい。






7月6日(土)


目玉焼きを作ろうとしたら、まさかの双子でびっくり。奇跡だ。
何か良いことがありそうな予感。むふふ。(ただ大概こういう時は、出たことで幸運を使い切って何も起きないパターン)



エドガー・アラン・ポー『黒猫 ポー傑作選1』を読む。
「アッシャー家の崩壊」を読み終わる。

今まで読んだポー作品の中で、1番ホラーらしい。
今までは人間的介入の恐ろしさ、人がもたらす怖さ、目に見ることで感じる怖さがあったけれど、『アッシャー家の崩壊』は、不可視による怖さがあった。見えないから想像が膨らみ、膨らむからどんどんと怖さが増していく。
文章も今までで1番細かく、念入りに描写されている。それがまたじわりじわりと、何かが迫ってくるような感覚になった。

男は、招待されて友人の元「アッシャー家」へと訪れる。
だかその屋敷は何処か物々しく、友人も昔の面影がないくらいに痩せこけ、病人のように蒼白で、まるで亡霊のようであった。唯一の血縁である妹も、重い病気に侵されている。
そしてやがて妹は亡くなり、友人の幻覚は日を追う事に酷くなり、それは招かれた男にまで及ぶほどだった。
幻覚、幻想は次第に現実にまで顔を出し…。

いやぁ、ドキドキもの。
緊迫感が迫ってきて、落ち着かない気持ちになる。
まさに「崩壊」。





7月7日(日)

もう汗びっしょり。
畑仕事にはキツイ温度だ…。朝から暑い。
1時間30か、頑張って2時間が限度。
もう雑草が凄い。あまり抜かない方針でやっているけど、それにしても流石に…。足の踏み場もない。
抜いても抜いても生えてくるよー。あぁー。

人参が大きくなりすぎたから、数本残して収穫。大量大量。50本は採れたかなあ。中でも黄色人参が20本くらい採れたのが嬉しい。紫は2本くらいだったのは残念だけど…。
黄色人参は1本残して種にする予定。なる種か分からないけど、一応ね。
いやぁ、売れるくらいあるよ。人参。
でもサイズはバラバラ、ボコボコしたり、又割れしたりもしているから、綺麗好き(?)な世の中では売れないかもだけど。

後はジャガイモを少し採る。
新じゃがですよ。蒸して塩パラパラして食べたら、うまっ。特に小さいものが最高。
ジャガイモはまだまだある。来週全部採れると良いけど…。何度だろう。そもそも雨?
でも最近雨がコンスタントに降るから助かる。ありがとうございます。8月もそうだと良いのだけれど。お願い致します。どうかどうか。



石井千湖『文豪たちの友情』を読む。
「泉鏡花と徳田秋聲」を読み終わる。

泉鏡花と徳田秋聲の話というよりも、泉鏡花と尾崎紅葉の話が多い。


「紅葉先生の玄関番」という談話によれば、住み込みの弟子をしていた四年くらいの間、鏡花は勝手に遊び歩くこともなく、友達もほとんどいなかったという。厳格ではあったが、紅葉は弟子をかわいがった。ただ、薪割りと弓と凧揚げに付き合わされて、うまくいかないと癇癪を起こすのは困ったらしい。


そんな子どものような一面があったとは…。
あぁ、でも『追悼の達人』にも、子どものようなエピソード(それも結婚した後で)が載っていたから、結構子どものような人だったのかもなあ。小説の内容や文章からだと想像出来ないけど。そういうギャップも彼の魅力だったのかもな。


おばけ好きで美しい夢の女を描く鏡花と、世知辛い現実を舞台に生身の女を描く秋聲。二人の作風は対照的だった。


同じものよりも違う方が惹かれ合いがちだよなあ。この本で登場した人達殆どが対照的だけど仲が良かった、が多いもんなあ。面白い。
でも確かに自分も同じ趣味の人と長く続いたことないかも。



結局緑のたぬきかぁ。終わったー。





ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様に豊かな日々が続きますよう、祈っております。
ではでは。


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