見出し画像

檸檬読書日記 内田百閒に会い、川端康成と別れ、太宰治に惚れる。 3月18日-3月24日

3月18日(月)

内田百閒を見かけた。

内田百閒のような、おじいちゃんを。
グレーのスーツに山高帽、ステッキに眼鏡という出で立ち。そしてへの字口。まさに内田百閒で、2度見してしまった。かなり似ていた。
違うのは横幅ぐらいだろうか。少し細い。

何をしていたのだろう。ノラでも探していたのだろうか。
はたまたこれからお弟子さんとお出かけかな。その最中か。



斉藤倫『ポエトリー・ドッグ』を読む。

小説だけれど詩のような、ぷつりぷつりと切れる独特な文章に、バーテンダーの犬がお客(人)に、お酒と共に詩を提供するという、これまた独特な内容。

なんとなく不思議な、掴めそうで掴めない、酔ってふわふわと思考が漂う中で読んでいるような感覚になった。

詩を絡ませる同じ作者の作品『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』を以前に読んで、とても良かったから今回読んでみた。どちらかというと「ぼくが」の方が好みで読みやすかったけれど、「ドッグ」も世界観が独特で詩をいくつか知れるのは良い。

こんなバーがあったら良いのになあ。詩だけ求めてお酒は飲まなそうだけど。






3月19日(火)

祖父がワカメを飲んでいたと言うから、どういうことと聞いたら、急須にお茶と間違えて乾燥ワカメを入れて飲んでいたという。
急須の蓋を開けたら、戻って大きくなったワカメが入ってて驚いたらしい。そりゃ驚く。
まあ確かに同じ深い緑系ではあるけど…間違えるのかあ。
祖父は「確かにいつもと少し違うような気がしてたんだよなあ」と言っていた。いやぁ、少しどころか結構違う気もするけど…。でもまあ、ワカメだし、出汁みたいなものだし、体にはいいから、まあいいか。戻ったワカメは味噌汁にでも入れればいいしね。うんうん。

それにしても、急須開けたらワカメとは、想像して少し笑ってしまった。



米原万里『打ちのめされるようなすごい本』を読む。


(略)中学二年の時に帰国し、近くの公立中学に編入した私は、歴史のみならず、あらゆる教科書の絶望的退屈さ加減にショックを受けた経験がある。義務教育であるとか、テストがあるとかの強制力が無い限り、一行とて読み進む気のおこらない羅列的記述。そこには、ものを知る=知らせる喜びも、物事の本質を極めていくときのあの胸の高鳴りも影を潜めていのだった。


少し前に読んだ、高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』でも書いてあったけれど、本当に日本の教科書は驚くほど眠い。
基礎基準は書いたから、後は各々で頑張ってくださいという投げやりさ、どうやったら興味を持ってるくれるかという考え、思いやりのなさが…。


(略)面白くなくては、つまり子供が読んでくれなくては、教科書ではないという常識が、日本では逆転していて、教科書は退屈の代名詞となっていた。


どうにかならないものだろうか。
でもそれは昔で、今は少しは良くなっているのかなあ。だと良いなあ。
教科書が面白いかどうかで、本を好きになる人数も本を読むかどうかも変わってきそう。

あぁ、本好き、増えて欲しい。切実。
本屋が潰れる、閉店というのを見る度に悲しくなる。行けないしこれから先行けるかどうかもわからない場所でも、本屋が1つなくなるというのは本当に辛い。

あぁ、本好きが増えて、本屋や古本屋が町中に溢れかえらないかなあ。





3月20日(水)


おやつ。
ゴンドラのパウンドケーキをもらった。それにアッサムロイミーと自家製金柑蜂蜜を添えて。

ゴンドラのパウンドケーキ、昔ながらの素朴な味わいながらも、しっかりとしたバターと、ラム酒がふんわりと、そしてしっとり食感が堪らない。
入っているラム酒漬けレーズンが、日が経つうちにしっとり感を増させ、だんだんと変わってくるのも楽しい。個人的には3日目過ぎてからがとても好みだった。
もう最高でした。



ボーモン夫人『美女と野獣』を読む。
「虐げられた王子さま」

戦闘で勝った王子に、周りは負けたヴィオランという王から国を奪ってしまいなさいとすすめる。けれど王子はこう言った。


「わたしはそんなことをしようとは思わない。王の家来たちは、外国人なんかより自分の王を慕うのがふつうだから、そんなことをしたら反乱を起こして、いずれ王に王位を返すにちがいない。それにヴィオラン王はけっして牢獄の苦しみを忘れないだろうし、そんなことからまた戦争が続くにちがいない。そうして戦争になれば、両国の国民がまた不幸を味わうことになるわけだ。それどころか、わたしは反対に、身の代金なんか取らないで、ヴィオラン王を自由の身にしてやろうと思うんだ。わたしが聞いたところでは、あの王はなかなか寛大な男だというから、王はわたしの友だちになってくれるにちがいない。わたしにとっては、王の国なんかより王の友情のほうがずっとありがたいんだ。国なんていうものは、結局わたしたちのものではないからな」


「国なんていうものは、結局わたしたちのものではないからな」

全ての国の上の人に聞かせたい。よろしければ音読して差し上げたい。良い声でも上手くもないけど。え、それじゃあ駄目ですか?残念。
上に立つ者が全員こういう人であったらなあ。





3月21日(木)

金利、怖さしか感じぬ。
タンス貯金を引き出させようとしている。それで緊急事態条項が通って、全部没収、そして、の流れが見えるのが…。
自分は逆行して下ろすという手も。でもなったら結局紙切れかなあ。んー。持っていてもだよなあ。でも悪いことに使われるよりはいいかなあ。んーー。
まあでも使うほど大した金額でもないんだけど…。とほ。



高原英理・編『川端康成異相短篇集』を読み終わる。
「眠り薬」を読み終わる。

「眠り薬」は、随筆。
眠り薬を飲んで起きた川端自身の出来事が書かれている。
文章から、何か恐ろしくも不思議なことが起きているように思えるが、出来事だけを考えると、川端康成の少しお茶目…というか可愛らしさを感じた。

後は個人的に宮城道雄の名前が出たことにしんみりした。汽車の件を知っているだけに。

それにしても、漸く読み終えた。芥川龍之介の時同様、2ヵ月くらいかかった気がする。長かった。けど川端康成の1番見たかった面を堪能出来たから、凄く満足。寧ろ物足りないくらい。
編者が最後に


当短篇集の試みによって川端康成という謎が一層深まることを望みたい。


と書いているが、その通りに深まってしまった。深まりすぎてより知りたいと思った。

川端康成の作品は、どれも美しく、けれど単なる美しさだけでなく、人というものが生み出す魅力が美しさとなって現れている感じがあった。
どの作品も生と死がまとわりつき、それがまた捉えて離さない、1度知ったら抜け出せない川端康成作品の魅力なんだろうなと思った。

全部が全部理解出来た訳ではなかったけれど、どの作品も何かしら動かされるものがあった。
えっ…というものや、それは…というものも勿論あったけれど、総じて良かった気がする。
初期作品もあるからか、多少読みづらい作品(句読点が独特なもの)もあったけれど、美しさの前では気にならず、読んでいくと慣れてくる。
でもそう思うと、芥川龍之介の文章力はずば抜けて上手かったのだなあ。

この本は、編者による解説も興味深く、結構川端康成は(個人的に)分からないものが多いから 、補う面でとても助かった。
自分は解説をわりと後半になってから、その存在に気がついたから、全部読み終わった後に読んだけれど、その都度読みながら深めていくのも良いかもしれない。
解説を踏まえた上でもう一度読むのも楽しそうだから、いつかまた読み返したいなあ。

さてさて、次は何にしよう。川端康成『掌の小説』があるから、それでも良いけれど、でもせっかくだから違うのにしようかな。うーむ。






3月22日(金)

『ブレヒト全書簡』を読む。

同じドイツだから、絶対どこかで出てくるとは思ってたのです。
何度も何度も顔を出しては、自分を追いかけてくるあの人が。
そう、カフカが。
ようやくお出ましました。


(友人の)あの本はカフカの『訴訟』の具体化のように読めるよ。あの男の悪魔は、きわめて遠くまで目が届いていることを暗示している。



「あの男の悪魔は、きわめて遠くまで目が届いていることを暗示している。」

分かるようで分からないけど、なんだかかっこいい。

そういえば先週、カレル・チャペック『園芸家12ヵ月』を読んだ時「フカフカ」が出る度に「カフカ」に見えて困った。
どこまで追いかけてくるのやら。1度知ったら、カフカの魔力からは逃れられないということだろうか。なるほど。

フカフカが カフカに見えて 逃れぬを 悟りましたよ カフカフカフカ



太宰治『十二月八日』を読む。

きっかけは、少し前に読んだ、高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』で、太宰治のこの作品が紹介されていて興味を持ったことだった。
後は最近太宰治テロにあって、無性に読みたくなった。

太宰治の作品は2作くらいしか読んでいないが、正直なところ今までハマることが出来ないでいた。でも、この作品を読んで印象がガラリと変わった。なんてユーモアに満ちた溢れた人なのだろうかと。厳しい状態でも笑いを忘れない、むしろ取り入れることで巧みに操作し、隠しながらも大切なことを伝えよう、自分を表現しようとしている。
この作品を読んで、一気に好きになってしまった。

内容は、太平洋戦争が始まった日、ごく普通の主婦による日記。

素直に読めば、戦争賛成を掲げた応援小説に見える。けれど盛り上がる気持ちを打ち砕くように、周りがふざけ、笑いで隠すように自分の意見を潜ませている。その巧みさに、惚れ惚れとした。
そして文章が妙にグダグダしている。主婦の日記だからあえてそうしたのだとしたら、凄いなあと思った。真実は分からないけど。

どこもかしこも目を引くものばかりで、「放送局の無邪気さに好感を持った。」など、よくよく読めば皮肉がそこかしこに散りばめられているのも、面白い。

主婦目線で語られるが、主婦にもその主人にも、太宰治自身が見え隠れするのも興味深い。
特に、小説家であるとされる、惚けた不真面目な主人には。

そして何より興味深いのは


(略)嘘だけは書かないように気を附ける事だ。


最初にそう書いているということ。
確かに嘘は書いていない。賛同し応援し盛り上がり、敵を倒してと望む主婦の気持ちも嘘がないなら、何がなにやら分からずにいる国民も真実なのだろうなと思った。そしてそれこそを書きたかったのだろうなと。

話の中、ラジオで太平洋戦争が始まったと流れる。


しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹を受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。


「私の人間も変わってしまった。」

きっと、殆どの人がそうやって、変えなくてはいけないと、変わってしまったのだろう。

「日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。」

その言葉が、ずしりとのしかかる。


もうこれは、演習ではないのだ。心の異様に引しまるのを覚える。でも、これは少し暗すぎるのではあるまいか。


けれど


園子(子ども)は何も知らずに眠っている。


そして暗すぎる夜道に難儀する妻に、主人は言う。


「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」


主人は最後に「ついて来い。」と言ったのだ。太宰治自身にも見える主人が。

ああもう載せたいところだらけだけで、きりがない。書きたいことが多すぎる。
まとめるなら、滑稽と皮肉、ユーモアに満ち、これこそが太宰治の本来の魅力なのではないかなと思える作品だった。
厳しく、制限があればあるほど、より一層輝く作家なのではないかと。
高橋源一郎が「戦場の作家」と書いてあったのが分かった気がした。

凄く短いから直ぐに読めてしまうし、太宰治が苦手な人も初心者にも読みやすく、好きな人も新たな一面が見れて良いのではないかなあと思った。(もしかしたら自分が知らないだけで、太宰治とは本来こういう人なのかもしれないけど、新たでなくても普通に楽しめると思う)
だから是非とも体感してほしいなあ。

いやぁ、太宰治って本当に凄い人だったのだなあ。(今更)
何故あんなにハマる人が多いのだろうかとずっと不思議で、闇が深いからなのかなあとも思っていたけれど、闇だけでなく闇の中に愛嬌があるからこそ、虜になってしまうのかもしれないなあ。とか思ったり。(違うかもしれないけど)

この作品を読んで自分も完全に虜になってしまった。だからこれからは少しずつ太宰治作品(特に戦時中のもの中心に)読んでいこうかな。



米原万里『打ちのめされるようなすごい本』を読む。


(略)地球が滅んでも金儲けしたいらしい。その小泉内閣に九〇%もの支持を寄せる日本は、そろそろおしまいなんじゃないか、子供たちだって、取り返しのつかないことになるのではないか。


2001年かあ。日本は本当に変わらないなあ。
だから本当にそろそろ。





3月23日(土)

渡辺淳一『冬の花火』を知ってから、直ぐに読めないくせに欲しくて、手元に置いておきたくて、求めて古本屋に行った。その結果

買った本。


違うの買ってる…。

違うのです。なかったのです。でも、探す際に違う欲しかった本が目に入ってしまったから…(言い訳)
本当はもう少し欲しかったけれど、1万円崩すの嫌だから、厳選して小銭ある分だけ買った。偉い(偉い?)

中でも『荷風随筆集』は凄く嬉しい。これで『日和下駄』が読める。山田詠美『晩年の子供』もずっと探していた本だから、発見した時かなり湧いた。
井上靖は『愛』というシンプルさがなんだか良いなあと、目を惹かれて思わず購入。自分が愛してやまない武者小路実篤『愛と死』みを感じたのも理由の1つ。
井上靖はまだ読んだことないけど、これをきっかけにできるといいなあ。
小川洋子と吉田篤弘は持ってないものを見つけたら買うと決めている。

いやぁそれにしても『冬の花火』見つからなかったから、また行かなくてはいけないなぁ。これは仕方ないよなあ。うんうん、仕方ない仕方ない。(え)

あ、そういえば、米原万里の本もあったら買おうと思ってたのに、探すのを忘れていた。これはますますもう一度行かなくてはいけなくなってしまったなあ。(ん?)



梅ヶ枝餅を知ってしまい、食べたすぎて頭の上にずっと梅ヶ枝餅がぐるぐる回ってる。でも福岡かあ。なんかどこかで出会えないかなあ。

同時に知った、谷中珈琲もぐるぐる。調べたら、注文ごとに生豆から焙煎して出しているのだとか。凄い。しかも有機。最高。
でも初心者なだけに、調べれば調べるほど種類の多さに混乱。15ヵ国30種類もあるのですよ。そしてそのどれも個性があるというね。もう見すぎて飲んでもいないのに満足してしまうよ。(え)

本もそうなんだよなあ。読みたいと思っていても、他の人の素晴らしい感想文を読んだら読んだ気になって満足してしまうという。

でも谷中珈琲は近くまで行った時は飲んでみたいな。





3月24日(日)

今日は人参の種植え。去年とったものを種に使ってみたけど、どうかな。上手く育つと良いなぁ。出ろ出ろ!



角野栄子『トンネルの森 1945』を読む。


「ほら、出口だよ。泣くのはやめて。トンネルはいつまでもトンネルじゃない。必ず出口があるんだから。(略)」


1945年、小学四年生のイコは、義母と幼い弟と共に、田舎の小さな村に疎開することになった。実の母親は幼い頃に亡くし、病気気味の父親は出稼ぎに東京に残り、滅多に帰ってこない。疎開先の小学校にも馴染めず、孤独を感じていた。
家の近くにある森の中のトンネルは暗く恐ろしく…。
著者本人の戦争体験を元にした、苦しく切なくも希望がキラリと見える物語。

『魔女の宅急便』というファンタジーや明るめなイメージがあったから、こういう少しずっしりとした現実を書いていたことに驚いた。
その上実際の体験に基づいているからか、当時のヒリヒリとモヤモヤとした感覚がより鮮明に伝わってくる。日本がおかした過ちや異常性がずっしりとのしかかって、何故なんだと読みたがら頭を抱えたくなった。モヤモヤ、モヤモヤと。

イコや義理の母親、祖母や父親の気持ちもそれぞれで、それぞれに抱えるものがあって、どの視点も分かるけど…けど…それらは平和なら何も問題なかったことで、それがまたモヤモヤを増させた。

物語は進むに連れて、とんどん生活や状況が苦しくなる。それでも、「出口はかならずあるんだから」という言葉が、イコがトンネルを通る度に聞こえるようで、トンネルの出口を求めるように先へ先へと読み進めていく。

その当時の国民の気持ちや生活、苦しさや苦悩、それでも暗くなりすぎない、読みやすい児童書ならではの文章で綴られている。
忘れないために、出口を望んだ人たちと同じ思いをしないために、知らない人が実感するために、たくさんの人に読まれ、残り続けてほしい作品。

どんなに苦しくとも、必ず出口がある。改めて胸に刻んで、進んでいこうと思った。
そして再び起こさないようにと。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「三島由紀夫」編を読み終わる。

小説家。個人的に『三島由紀夫レター教室』と『命売ります』が好き。

死に方が切腹なだけに賛否両論、若干批判に傾いているようだけれど、意外なのが日本よりも海外の人の方が好意的にとらえているということ。まあ他所になるとそういうものだよなあ。

後、森茉莉の言葉はお嬢さんだなあと思った。


三島由紀夫は生きている人をほめるのがうまく、死者を追悼することも並はずれてうまい人であった。死者の心情へたちいることは、かなり力業がいる。
「三島由紀夫全集」をめくるだけでも、(略。様々な人の)追悼文が目に入る。そのいずれもが切々たる直情にあふれ、核心をつき、文学的で、死者をいささかも冒瀆しない。あれほど毒舌と逆説と、目のくらむ論理の展開を弄した三島が、いっさいの美文を排して、純真にまっすぐに哀悼するのである。死者に対して、三島はひたすら礼儀正しい。


三島由紀夫に対しての追悼よりも、彼の書いた追悼文の方に興味を惹かれた。三島由紀夫が書いた追悼文集とかあればいいのになあ。





ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様にとっての出口が見つかって少しでも近づけますよう、願っております。
ではでは。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?