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檸檬読書日記 川端康成で正気を捨て、カフカに満ちて、村上春樹に学ぶ。 2月5日-2月11日

2月5日(月)

高原英理・編『川端康成異相短篇集』を読む。
「毛眼鏡の歌」を読み終わる。

きみ子は男の前からいなくなってしまった。愛情のように感じていた黒髪の屑を残して。
男は幻のきみ子を追い求めるように、その黒髪を思い出の場所に結び、歌を歌うのだった。

ある意味ホラーだ。
相変わらず綺麗さで、寧ろ磨きをかけて、分からなくさせようとしているが、よくよく考えると恐ろしく、正気に戻って想像してしまうと、結構なドン引きをもたらす。
例えるなら、純白の雪の上に血が落ちる。白に染まり染み込むように広がる赤は、一見とても綺麗に見えてうっとりする。けれどそれが血だと理解すると、次第に恐怖が襲い、そんな感じ。
そして科学が発展し、顕微鏡で初めて血を見てしまったような、うわっ…という感覚。

簡単に言うと、正気で読んではいけない作品。

タイトルも意味が分かると、えっとなるし、言葉通りの2人の関係なら、えっとなるし、もう総じて…うん。

けれども自分的にはこういう気持ち悪さ(結局言ってしまった)は、嫌いではない。
好みは極端に分かれそうだけれど、とにかく綺麗だから許してしまうような、受け入れて、いや寧ろ受け入れるために正気を捨てたくなる作品だった。

そういえば、この前noteの記事で川端康成は幼少期病弱だったと知った。
知って、だからかあと思った。川端康成の作品は、死が近いようで、とても遠く、死と生の境界線が曖昧で薄い気がしていた。死に対しての熱が薄いというのか、だからこそ余計に生々しさがないのかなあと思った。

最近、三島由紀夫も幼少期は病弱だったと知ったけれど、それもなんだか納得。彼の作品もまた、死が近くてとても遠い。(2作品しか読んでいないけれど)でも川端康成と違うのは、生命力、なのかな、生に対しての熱が感じられるような、気が。





2月6日(火) 


おやつ。
よもぎ餅に餡子にきな粉。最高です。塩っぱいのは煎餅を添えて。渋い。でもなかなか良いおやつだった。



ヨーゼフ・チェルマーク/マルチン・スヴァトス編『カフカ最後の手紙』を読み始める。

タイトル通り、カフカが亡くなる直前に書いた手紙たちが集められたもの。
これらは、全集には載っていない、全集が完成した後に発見されたものらしい。
カフカのことや、特に亡くなる直前の出来事が知りたいなあと思って、それなら全集の手紙とか日記を読むのが良いのかなと思っていたけれど、その必要はなかった。そもそも載っていなかったから、読まなくて正解だった。(いや、読んでいてもそれはそれで楽しいだろうから、良いのかもしれないけれど)
もう正に求めていたものだった。
まず、最初の解説部分を読む。

「……」

一時停止。 



池内紀『カフカの生涯』を読み始める。

『カフカ最後の手紙』の冒頭を読んだ段階で、これはもしやカフカのことを知った上で読んだ方が面白いのではと気づく。
なので、一緒に借りたこの本を最初に読むことにする。

この本は、カフカのことが知りたいと思った直後に出会った。奇跡的にピッタリな本が丁度紹介されていた。
その上『カフカ最後の手紙』もまた、教えてもらった本。まさに求めていた本を…!嬉しさと感謝で、思わずスマホの前で拝んでいた。ありがたやー。

始まりは、フランツ・カフカ誕生からでなく、そのもっと前、祖父の話から始まる。だから最初は、へーという感じ。けれど読み進めていくうちに、何故祖父から始まり、父親の話へと移り、ようやくフランツ・カフカになっていくのかが分かる。それぞれの生き方捉え方あっての、フランツ・カフカに及ぼした影響だったのだと。

野心家な父親故に入れられた学校は、フランツ・カフカにとっては辛く、担任の先生は厳しかった。けれど


(略)とりわけ厳しい(略)先生の担任の下、一つの生き方をあみ出したらしいことはみてとれる。より正確には、生きのび方といったものであって、それをひとことでいうと、「消え方」ということになる。その中にいて、しかし、いない。只中にあって、しかし、こっそり消えている。友人たちはいずれも「ガラスの向こうにいるような」と述べている。自分のまわりに透明な壁をつくって、その中にひそんでいる。生きていて、しかし、死んだふりの作戦だ。


その環境下だったからこそ、生まれたものがある気がした。強烈な印象を抱かせたのに、最後は忘れ去られたようにするりと消えていく、『変身』とか。

いやあ、これから読んでいくのが楽しみだ。

そういえば記事の中に、「カフカって誰ですか?」と聞かれたと書かれていたけれど、自分も少し前に聞かれたことを思い出す。
読み終わったら、自分も教えられるかな。まあ、熱弁したとて「へー」で終わりそうだけれど。へー。



 


2月7日(水)

父親が実家に帰るからと「そろそろ髪を切やなきゃな」と言うから「それなら切ろうか」と言ったら「いや、カッコよく決めなきゃいけないから、床屋で切ってもらう」と言われ、何じゃいとなった。

それが先週のこと。
どうやら床屋(と言っても普通の街の床屋さん)に行ったらしく、見たら衝撃。変わらない。自分が切った時とあまりの変わらなさに驚いた。そして笑う。
「あんま変わらなくない?」と聞いたら「それは俺も思った」と苦笑していて、それならやっぱ檸檬床屋さんで良かったのでは?となった。

母親なんかはあまりの変わらなさにケラケラ笑って「あんたが切った方がカッコイイよね」と言っていて、いやはや滅相もない。変わらないといえど、流石にプロの方が断然良いだろう。けれど、自分の腕も捨てたものではないなあと思った。少しね。

きっと父親が今、何じゃいってなっているんだろうなあ。全く、見栄っ張りだかなあ。



ヘンリー・スコット・ホランド:詩、高橋和枝:絵『さよならのあとで』を読む。詩。


死はなんでもないものです。

私はただ

となりの部屋にそっと移っただけ。

(略)

私たち二人が面白がって笑った
冗談話に笑って。

人生を楽しんで。

ほほえみを忘れないで。

(略)

私はしばしあなたを待っています。

どこかとても近いところで。


悲しみにそっと寄り添うような言葉たちが並んでいた。
別れは、悲しいものではないと。今は遠くにいて会えないけれど、いつかはまた会える。だから忘れないで、今までの自然なあなたでいて下さいと、離れなくてはいけなくなった人の祈りのようにも思えた。

シンプルな絵も微笑ましく、たくさんの余白がまた素敵な、贈り物にも良さそうな本。
たったの42行の言葉だからすぐ読めてしまう。けれど短いながらも、深い愛と優しさが溢れているから、たくさんの人に読まれて、たくさんの悲しみが癒えると良いなあと思った。




葉室麟『読書の森で寝転んで』を読む。

著者が失態をおかしてしまったときのこと。


(略)できれば、忘れたい、と思った。ひとは追い詰められた土壇場では常に自らを向上させるより、必ず安易につこうとする。忘れることほど楽なことではないか。
だが、忘れるという字は「亡」の下に「心」と書く。「亡」は手足を折り曲げて葬られた死者の骨の形だという。そこから見えてなくなる、隠れるという意味があるそうだ。一方、心は心臓の形だという。
心臓、あるいは心を見失うことが、忘れるということなのだろう。それでよいのか。


全然、よくない。
故意に忘れている人は、揃って目が死んでいる。きっと、心失い、心を見失っているからなのだろう。最早泥人形ではないか。人形だから、差し出せる。他の心を。
自分は辛くても、忘れたくないなあ。心を見失わないように。





2月8日(木)

今日はたくさん歩いたから、足が重い。

覗くだけ覗くだけと言い聞かせて、本屋にちょろっと寄る。
没後100年で作られたカフカ特集の本を発見。丁度のタイミングで凄く欲しくなったけど、割といい値段プラス分厚い。それにもう充分カフカが自分の中で充満しているからと、本に伸びる自分の手を必死に抑えて止めた。
ふぅ、どうにか買いたい読みたい衝動を止めてやったぞと思ったけれど、気づけば違う本は買っていた。あれ…。





2月9日(金)

世の中ルシフェルになってきている。アーリマンも蔓延って。お花畑と物質主義。悲しきや。



池内紀『カフカの生涯』を読み終わる。

1番知りたかった亡くなる直前の部分は少なめで、時代背景4割、カフカ以外2割、カフカのことが4割という感じだったけれど(個人的感覚として)、全て含めて大満足な1冊だった。
反対に脇が豊富だからこその、カフカという人物がどうやって構成されていったのかが分かった気がした。

時代背景も、当時のことが知れたのは結構興味深かった。カフカの祖父の時代は、結婚出来るのは長男だけとか、カフカが亡くなる直前は、お金の価値が暴落してただの紙屑同然になっていたとか。物価高。日本の未来かもと思うと少し怖くなった。

カフカの作品は、環境によっての影響が殆どだったようだが、特に影響を及ぼしていたのは、父親だった模様。強くて逆らえない存在であった父親。支配。それから生まれた、不条理な環境。


(略)「その結果、わたしにはこの世が三つになりました」
一つは自分が奴隷でいるような世界であり、掟づくめで、自分にはなぜか、どうしてもきちんと応じられない。二つ目は、父のいる世界であって、支配者が命令を出し、守られないと怒りくるう。自分にはかぎりなく遠い世界である。三つ目は、ほかの人たちが幸せに暮らしている世界であって、命令も服従もないところ。(略)

「わたしはいつも恥辱のなかにいました」


カフカはそう繰り返し言う。
正にカフカ作品。

カフカにとっては、とても辛かったのかもしれない。けれど、それらが全てあったからこそ、カフカのあの独特な、抜け道の見えない迷路のような作品たちが生まれたような気がした。
カフカ作品は、正直まだ『変身』しか読んでなく知識は薄いけれど、カフカ作品の根源が見えた気がした。

そして強い父親に不満を抱えつつ、何故か必ず強く自分を引っ張ってくれる女性に惹かれるというね。
そして、支えてくれる妹。

今回、カフカの人生を知って、1度読んだ『変身』であっても、次読んだらもしかしたら違って見えるかもしれない、まだ読んでいない作品も、より深く楽しめるかもしれないと思った。
読んだことのある『変身』含め、カフカ作品を色々読んでみたくなった。


『カフカの生涯』を読み終えたから、待ちに待った『カフカ最後の手紙』を漸く読み始められる。

ということで、再生。





2月10日(土)

怒りが世界のあらゆるところで現れている。蔑ろにした自分たちが招いたことへの反撃だとは分かってはいるけれど、それでもやはり辛いなあ。
これ以上酷くならないためにも、自然を大切にしてほしいなあ。目を向けてほしいなあ。



『MONKEY』vol.6 「音楽の聞こえる話」を読み終わる。
村上春樹「職業としての小説家」を読む。

小説を書くにあたってが書かれているのだが、面白いなあと思ったのが、2つ。


長編小説を書く場合、一日に四百字詰め原稿用紙にして、十枚見当で原稿を書いていくことをルールとしています。(略)もっと書きたくても十枚くらいでやめておくし、今日は今ひとつ乗らないなと思っても、なんとかがんばって十枚は書きます。なぜなら長い仕事をするときは、規則性が大切な意味を持ってくるからです。書けるときは勢いでたくさん書いちゃう、書けないときは休むというのでは、規則性は生まれません。だからタイム・カードを押すみたいに、一日ほぼきっかり十枚書きます。


作家は皆、書ける時に書く、というスタンスだと思ったけれど、違ったみたいだ。
けれどこの規則性、分かる気がする。規則性があるからこそ、続けられたりする。自分も物事は大体時間で決めていたりする。正直何処まで何をやればいいか分からないから、そうすると一々迷わなくていいしスムーズ。(でもまあ、全てのことがそんなに時間通りにならないから、ふわっとだけど。ふわっと大体)

noteを書く時間も、大概決まっている。だから続けられている気がする。
人それぞれ合ったやり方があるのかもしれないけれど、創作物に関してこのやり方が1番良いような。

もう1つ。
村上春樹さんは、ある程度出来上がったら必ず奥さんに読んでもらい、意見を言ってもらうのだとか。
そしてそれが、納得出来る出来ないに拘わらず、その部分は必ず手直しする。それは助言通りではなく、違う方向で手直ししたりもする。


(略)腰を据えてその箇所を書き直し、それを読み直してみると、ほとんどの場合その部分が以前より改良されていることに気づきます。僕は思うのだけど、読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。つまりその部分で小説の流れが、多かれ少なかれつっかえているということです。そして僕の仕事はそのつっかえを取り除くことです。どのようにしてそれを取り除くかは、作家が自分で決めればいい。たとえ「これ完璧に書けているよ。書き直す必要なんてない」と思ったとしても、黙って机に向かい、とにかく書き直します。なぜならある文章が「完璧に書けている」なんてことは、実際にはあり得ないのですから。


なるほどなあ。
小説とは、どれほど矛盾をなくせるかだと思っていたけれど、矛盾ではなくつっかかりだったのか。そして何よりも大事なのは、第三者の目。確かに。見て指摘してくれる人がいるというのは、作家にとって重要な必須の存在だよなあ。
そういう存在がいる、というのも、作家を続けていく上で大事になってくるのだろうなあ。

他にも興味深いことが書かれていたけれど、割愛。

この話は、『MONKEY』内で連載され、今回は最終話であるらしいが、1冊の本として出ているのだとか。

(自分よりも詳しく尚且つ分かりやすく、全体的な内容が書かれている記事があった。気になる方は是非こちらを。)

それにしても今回の『MONKEY』「音楽の聞こえる話」、絶版になってるだけあって、なかなか良かった。
書かなかったけれど、有名な音楽家のあったかもしれない話を集めたもの。
ハワード・モス『インスタント・ライフ --作曲家篇』
これもまた良かった。何より、絵を手がけているのが、エドワード・ゴーリーなのがまた堪らなく良い。相変わらずのダークさが素敵。

個人的に今まで1番良い特集だったかも。

次は何によしようかなあ。順番的にvol.30「渾身の訳業」かな。





2月11日(日)


金柑の蜂蜜煮。
金柑がモチモチで美味しい。
しばらく金柑の出来が良くなくて食べれなかったけれど、今年は豊作で嬉しい。そして結構大きめ。何より、甘い。そのまま生でも甘くて美味しい。
蜂蜜煮も、これ以外に3倍くらい大きい瓶にまだ2つもあるから、結構楽しめる。嬉しい。

今年たくさんだったから、きっと来年は少ないんだろうというのが残念なところ。後、蜜柑もか。交互だから仕方ないけれど。



ヨーゼフ・チェルマーク/マルチン・スヴァトス編『カフカ最後の手紙』を読み終わる。

事前に『カフカの生涯』を読んだからか、どちらかというと、発見よりも復習のような感覚だった。あぁ、そういえばそうだったなあという。ただ、より詳細に知れたから、読んで良かったし、興味深かった点も多かった。

ほぼ両親に宛てた手紙なのだが、どの手紙もよそよそしさを感じた。
援助は欲しいけれど、逃げたい。逃げたいけれど、抗えない。カフカのふにゃふにゃした優柔不断な性格がよく出てるなあと、個人的には思った。

カフカの亡くなる直前なのか、本当に最後の手紙だけが、どこか砕けた、今までで1番明るいような気がしたのが、なんとも…。

そして、両親に宛てたこの最後の手紙たちは、何故全集に載らなかったというと、全集の後に発見されたからだった。見つかった後、1冊の本にまとめられた。つまりは、両親が手放した又は保存してなかったということで、そう考えると、これまたなんとも…。

読む前から、先週絵本で読んだことは、おそらく書かれてはいないだろうなあとは分かってはいた。けれど、やはりそれらしいことは一切なかった。
それでも、カフカに満たされて凄く満足だった。
カフカが凄く手紙好きだったらしいが、手紙魔で良かった。

全集にはある、カフカの日記も気になるところだけれど、お腹いっぱいな気もする。カフカ作品は探しつつ、他はもう少し間を開けてからにしようかな。

それにしても、手紙はその人の表面が、日記はその人の内面が見えてくる気がするなあと、思ったり。



嵐山光三郎『追悼の達人』を読む。
「堀辰雄」編を読み終わる。

小説家。ジブリ映画『風立ちぬ』を見て、読みたいなあと思いつつ、未だに読めていない。もう何年経つのやら…。堀辰雄記念館とかも何年か前かに行って、読む準備は結構出来ているのだけれど…。そろそろ、読み、たい、が…。

映画の『風立ちぬ』の主人公のイメージなのか、気の優しい柔和な人かと思っていたけれど、結構好き嫌いが激しい人物だったらしい。だからか、追悼も両極端。
堀辰雄の情報が少ない身としては、どれも、えぇ!と驚きがあったが、ありすぎるから割愛。

その中でも、追悼ではなく弔詞だが、個人的に気に入ったものだけ1つ。室生犀星の言葉。


室生犀星は、しわがれ声で読みあげた。
「堀君、君こそは生きて、生きぬいた人ではなかろうか、……君危うしといわれてから、三年経ち、五年経ち、十年経っても、君は一種の根気と勇気をもって生きつづけて来た。……だが、やはり君は死んだ。かけがえのない作家のうつくしさを一身にあつめて、誰からも愛読され、惜しまれて死んだ(略)。君にあったほどの人はみな君を好み、君をいい人だといった。そんないい人がさきに死ななければならない、どうか、君は君の好きなところへ行って下さい、堀辰雄よ、さよなら」


流石は仲が良かった室生犀星の言葉。胸を突くものがある。悲しみがじんわりと沁みてきた。




ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
皆様にも良き出会いが訪れますよう、願っております。
ではでは。

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