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『暮色に包まれた中で四季咲きのような恋をした』第1話

【あらすじ】
中村沙耶は優柔不断で、山本翔平は不器用だった。亡き父に憧れて、建築家になる夢を抱いている高校三年生の沙耶は、校内の大学推薦枠が取れずに落ち込んでいると、同い年の不動産会社で働いている翔平と出会う。 大学進学を機に東京に住む沙耶と千葉で働く翔平は、互いを思い合うのだが、些細な事が積み重なり、すれ違っていく。舞台は千葉・東京・スペイン。2001年から2024年の物語。

〜暮色に包まれた中で四季咲きのような恋をした〜

【2001年】

 人間は後ろめたい気持ちがあると人に言えないもの。ましてやそれが、大学の推薦枠を取れなかった事を母親に報告するだなんて。



 今日は亡くなった父親の健一郎が所有していた、千葉県市原市内の別荘の片付けを手伝いに来ていた。別荘の売却が決まって引渡しまで荷物の整理をしてなくてはならない。



 まだ引渡しまで時間はあるものの、二週間に一回の頻度で母親の良子と一緒に荷物の整理をしている。大半の物はお父さんのゴルフ関連のもの。車で数分の距離にはゴルフ場が沢山あって、お父さんはゴルフ場が近いからとの理由で建てた家だった。



 間取りは八帖の洋室が三部屋の三LDKの平屋。土地は六百平米超えで高台に位置しており、リビングと二つの洋室が面しているウッドデッキからは、ゴルフ場が見渡せる程の開放感がある。



 LDKは二十五帖超えで床暖房や大きな天窓付き。対面式のキッチンと敷地内に露天風呂もある。娯楽満載の別荘だけれど私にとって、この家にはあまり良い思い出が残っていなかった。



 私が小学校時分には付き合わされて、何度か泊まった事がある家。お父さんの仕事が休みの度に三人で来ては、私のゴルフレッスンが始まる。



 私は全く興味がないのに嫌々とゴルフに付き合わされて、我慢の限界に達すると泣きながらお母さんの胸に飛び込んだ。私が泣きじゃくるとお母さんがお父さんをゴルフ場に残して、一緒にこの家に連れて帰ってくれた。



「ねぇ、沙耶? 見て、これ」



 キッチン棚の食器を段ボール箱に詰めていると、遠くの方から聞こえてきたお母さんの招集に生返事をして向かった。リビングを抜けて洋室に入ると、お母さんが見せてきたのは私が小さい頃にスケッチブックに描いたお母さんのデッサン画だった。



「これ、あなたが小学校の時に描いたやつよね?」



 ゴルフ場から泣きじゃくった私を連れて別荘に着くと、お母さんが絵の書き方を教えてくれた。私はその時間は大好きだった。お父さんが帰ってくるまで沢山の絵を描いた。水彩絵の具で風景画、偉人の肖像画など様々。お母さんが見つけた絵はその中の一枚だった。



「お母さんが、色々教えてくれながら描いたよね」



 あれから十年近く月日が経つのに綺麗な状態で残っていた。お母さんは絵によってファイルケースの中に乾燥剤を入れて保管して湿気対策をしてくれていた。それから片付けの手を止めて、二人して私が描いた絵の選評会が始まった。



 タッチは悪くないなどお母さんが言えば、私は小学生にしては上手いなど言い訳が次々と出る。次にお母さんがクローゼットから取り出した金の額縁に収まった絵を見て息を呑んだ。



「あなたが将来の夢を決めたのは、この絵を描き始めてからよね」



 縦横一メートル超えの五十号サイズの絵を手に取って懐かしそうに見ているお母さん。それはスペインにあるサグラダファミリアだった。私も描いた当時の想いを馳せながら見ていたが、大学の推薦枠が取れなかった負い目を抱えながら懐かしむ事が出来ずにいる。



「きっとお父さんも喜んでいるわ。一人娘が父親と同じ、建築家を目指しているんだから」



 お父さんは建築家だった。世界を飛び回ったり、地方に学会絡みの講義に参加したりなど大忙しだった。そんな父親に憧れを抱いて、大学は都内の建築学科を目指していた。それなのに高校の集団面接で上手くいかず、推薦枠は他の生徒に取られてしまった。



 その結果をまだお母さんに言えていない。これだけ期待されているのに、お母さんががっかりするような事は言いたくない。言ったらどれだけ悲しませることになるだろう。



 専門学校に進学するよりちゃんと四年間学んで、いずれお父さんのように海外で仕事をしたい。それなら推薦じゃなくて一般入試の考えに辿り着くものの、今からでは到底無理。半年後の入学試験に受かるはずがない。今になって日頃から勉強してこなかったツケが回ってきた。



 緊張感が走るような空気ではないけれど、私の鼓動の高鳴りは止まらない。むしろ段々、強くなっている気がする。今しかない。伝えるなら今だ。



「……あのね、お母さん──」



 言いかけていた時、インターフォンが鳴った。



「あれ、もうこんな時間?」



 お母さんが立ち上がって部屋を出て行った。お母さんの背中を見送ると肩を落として大きな溜息が溢れた。なんてタイミングだ。ようやく意を決して伝えようとしたのに。



 暫くすると何やら玄関の方で話し声が聞こえてきた。声が高く若い男性のような声。お母さんが嬉しそうにはしゃぐ声が気になったので、玄関に向かった。廊下から体の半分を壁に隠して玄関先を覗くと、青いネクタイをしたスーツ姿の若い男性が立っていた。



 長身痩躯の言葉が似合う男性は、お母さんと立ち話をしている。視線に気付いた男性は私と目が合うと、目礼をした。



 それに気付いたお母さんが私に「あぁ、高校生の娘。ほら、一人じゃ大変だから人手はいた方がいいと思ってね」と普段あまり見ないお母さんのちょっと照れ臭そうな表情に何だか複雑な気持ちになった。すると男性が近づいてきて名刺を差し出してきた。



「初めまして。山本不動産の山本です」



 名刺を受け取ったのは初めてだったので、ぎこちなく両手で受け取りながら頭を下げた。



「高校何年生なんですか?」と山本さんからの思わぬ質問に高三ですと答えると「じゃあ同じ学年ですね。私、今年十八なので」と予想外の返答。もう少し年上だと思っていた。



「えっ、そうなんですか?」



「高校中退したんで。その後に父親の不動産会社で働いていて」と頭を触って戯けて見せた。同年代で社会人になっている知り合いがいなかった為、なんだかやけに山本さんが大人に見えた。



 二人はこの家の売却の件で打ち合わせがあるらしく、お母さんが山本さんをリビングに案内するとソファに座って話を始めた。カップセットを用意してインスタントコーヒーを二人に配膳した後に、私は居場所がなかったので部屋に戻った。



 なんだか数歩先を生きている、そんな印象を山本さんに抱いた。私と同い年なのに、もう自分の人生を生きている社会人。嫉妬のような、悔しいような、いろんな感情が脳内を駆け巡り始めた。ベッドに背を預けて大きく伸びをする。天井の白い壁紙は黄ばみと黒い斑点が所々にあって、やけに目についた。



 大きな溜息が溢れる。普段、他人と自分を比較したり、妬んだりする事は決して多くはないのに、ここ数日は特に大学の推薦が取れなくなってから、やけに他人と自分を比較するようになった。  



 中間テストで平均点を取っても、マラソンの授業でビリになっても、友人がコンビニのくじで当たり券を引いても、全く気にしなかった私が、他人の目を気にし始めた。



 日々の生活に焦りや不安を覚えてこなかった私が、過去を振り返り、どうしてあの時もっと頑張らなかったのだろう。どうしてあの時、こんな事を言わなかったのだろうと後悔するようになっていった。



 そうした日々を思い出しながら懺悔していると、込み上げてくる感情が溢れ出して涙が溢れた。最近の私は脆く弱い。こんなくよくよする事は今までなかった。情けないや悔しいって感情が、こんなに自分の中で強くなる日々がとても息苦しい。



 目尻に溜まった涙を拭った時、視界に山本さんが映った。部屋の入口でばつが悪そうに私を見ている。驚いて起き上がると「ごめんね、さっきから声をかけていたんだけど、全然返事返してくれないから不安になって」と焦るように弁明した。



 完全に泣いている所を見られた。恥ずかしさのあまり「なっ、何か用ですか?」と素っ頓狂な調子で尋ねると山本さんは「それ、ちょっと見たいんだけど」と言って部屋の奥を指刺した。

  

 

 刺した先には私が描いた絵画の集まり。立てかけている絵画は私が小学生の時に描いた五十号サイズの絵画。



 私の返事を待たずに山本さんが部屋に入ってくると金の額縁の絵画を手にして「へぇー、やっぱり格好良いね。すごい、素敵だよ。これ、きみが描いたの?」と感心した様子の山本さんに頷いた。さっきまでの固いビジネスな印象とは違った砕けた言動に同年代の親近感を覚える。



「これって、もしかしてサグラダファミリア?」



 その質問が胸に刺さった。ただでさえ、お母さん以外の他人に見せた事がないし、拙い絵を見て感心する感じは、きっと営業トークに決まっている。



「……そうなんですけど。ただ小学生の時に書いただけなんで……あの、あんまり見ないでください」



「ふぅーん。ところでさっきお母さんから聞いたけど、建築家を目指しているんだって?」



 全然この人、帰る気がないし、お母さんは何を余計な事を話してしまっているの。



「……えぇ、まあ」 



 推薦が取れなくて落ち込んでいる状況なだけに複雑だった。そんなペラペラ話さないでよ、お母さん。何だかすごく恥ずかしい。顔が火照ってきた。



「まぁ、この家を見ていれば分かるけど、お父さんに憧れるのは当然な環境だもんね。実は俺も建築が好きでさ、世界遺産とかテレビで特集されていると見ちゃうんだよね」



「……そうなんですか?」



 意外な言葉に胸が躍った。思わず、前のめりになって山本さんの次の言葉を待つ。



「特にコルビジェのサヴォア邸とか、近代建築の師って感じがしていいなって。空中庭園なんかも格好いいじゃん」



「それを言うなら、私はガウディのサグラダファミリアですよ。あれは──」



 その後も互いに持っている知識の引き出しを開けては話を繰り返した。



 途中、私が山本さんと呼ぶ事に違和感があったようで「同じ年なんだから翔平って呼んでよ? さんは無しな。俺も沙耶って呼ぶから。まぁお母さんの前では仕事だから、さん付けするけど」と翔平くんが言ったはものの、私のコミュニケーション能力の低さが邪魔をして、その後は名前呼びが出来なかった。


  

 そんな話をしているとお母さんがようやく部屋に顔を覗かせた。



「翔平くんさ、沙耶と同い年なんだから、友達になってあげてよ?」とお母さんのパスに翔平くんは「もう友達になりました」と満面の笑みをお母さんに向けて答えた。なんだかそれはそれで母親の前だと余計に恥ずかしい。



「さて、それじゃあそろそろ失礼させて頂きますね」



 おもむろに立ち上がった翔平くんが歩き出した。お母さんと二人で見送ると「また連絡します」と言って玄関を出て行った。



「お母さん、あの不動産屋さんと親しそうだったけど、知り合いなの?」



 いくら私と同い年とはいえ、お母さんのそれは、他人の距離感とは思えなかった。



「翔平くんの事? だって彼が小さい頃に絵を教えていたから。それが縁で彼のお父さんにこの家の事を相談したわけ」



「……そういう事だったんだ」



 人の懐に入るのが上手い人だなって思った。私には到底敵わないコミュニケーション能力を持っている。そんな羨ましい気持ちと印象に残る翔平くんとは、近々また会えそうな気がしてならなかった。



 内房線の五井駅の東口に降りると、自宅までの帰路を足取り重く歩いていた。



 今日も平凡な時間を過ごしてしまった。もうすぐ九月が終わり、十月に入ろうとしている。肌寒い季節に入れば季節同様、私の心も寂しさと切なさが募るばかり。これから先、私はどうすればいいのだろうか。



 そんな時間を過ごしている原因は、はっきりしている。それは未だにお母さんに指定校推薦の校内選考に落ちた事は話せていないから。AO入試だって今からでは到底間に合わないし、私の進路に明るいレールはもう敷かれていない。友人達に相談するにも、彼女達は自分の事で頭がいっぱいのはず。他人に構っている時間はないだろう。



 大きな交差点に差し掛かると、赤信号で足を止めた。空を見上げると曇天が広がっていた。まるで私の心情と一緒だ。きっともうすぐ大雨が降るだろう。泣き叫びたい気分だ。このまま雨に晒されて、大声をあげながら家まで走り飛ばしてやろうか。



 そんな不貞腐れた状態の中、車の走行音に掻き消されながらも僅かに私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。



 辺りを見回していると反対車線で停止している、白い軽自動車の運転席からこっちに手を振っているのが見えた。辺りを見渡しても私以外に誰もいない。



 一瞬誰だかわからなかったが、車のボディに『(有)山本不動産』と書かれている文字が見えると直ぐに翔平くんだと分かった。



 私が手を振ると翔平くんは車を走らせて交差点でUターンをした。車は私が立ち止まっている場所から少し離れた反対車線の場所にハザードランプを点灯しながら停止したので小走りで車に近づいた。助手席側の窓が下がったので、そこから顔を覗かせた。



「今、帰り?」



「うん、これから家に帰るとこ。仕事中? ってもう車の免許取ったの?」



「五月で十八になったし。それに免許ないと不便だろう?」



 不動産屋なら車の免許がないと支障が出るよなと納得しかけた時に「乗ってく? って言ってもあれか、家すぐそこか?」と一瞬、どうして私の家を知っているのだろうと疑問に思ったが、別荘の売却をお願いしているから自宅は知っているよなと合点がいった。



 確かにあと五分も歩けば着くけれど「せっかくだし、いいかな? それに雨降りそうだし」と無下に断るのも悪いと思って助手席に乗り込んだ。



 私がシートベルトをしていると「ちなみに俺、ペーパードライバーだから、そこんとこよろしく」と出発前に不安を煽るような一言がちょっと格好悪い。短髪で屈託ない笑顔はまるで無邪気で少しやんちゃな少年の様だった。



 大通りを進んで次の交差点を右折、右折と来た道を戻ればすぐに自宅に着く。もうすぐ交差点に入るときに翔平くんが「ちょっとコンビニ寄っていい?」と尋ねてきたので頷いた。大通りを右折しないで交差点手前にあるコンビニの駐車場に入る。


  

 車を停めて店内に向かう翔平くん。降りずに待っていると案の定、小雨が降り出した。フロントガラスに雨粒が叩きつけられる音が次第に大きく加速を始める。



「やっぱり降って来たじゃん」



 帰ってきた翔平くんに私は鞄からハンカチを取り出して翔平くんに渡した。受け取った翔平くんはお返しと言わんばかりに私の顔の前に二つの缶コーヒーを差し出してきた。



「微糖、ブラックどっちがいい?」



 照れ臭そうな表情の翔平くんに吹き出しながら「ありがとう」と言って微糖の缶コーヒーを手に取った。



「結構、降ってきたな」



「そうだね」



 ブルトップを開けて口に運んだ後に「なんかあった?」と突然、翔平くんが尋ねてきた。雨粒が車に叩きつけられる大きな音に掻き消される事なく、確かにはっきりと聞こえた。



 ゆっくりと隣の翔平くんに振り向くと、翔平くんはフロントガラスは雨で視界がはっきりしないのに正面をずっと見ていた。私の次の言葉を待っているように。やっぱりわかる人には分かっちゃうのかな。私はすぐに顔に出るってよく言われるし。



「……そんな風に見える?」



「さっき交差点で待っている表情、遠くから見てもわかるくらい死んでたぜ? まるで絶望って漢字が顔に書いてるような」



 そう言って翔平くんは両肩を落として俯いた私を真似して戯けて見せた。馬鹿にされたからちょっとムカついたので、翔平くんの左肩を叩く。まだ私を馬鹿にしてきたので、今度は私が初めて翔平くんに会った時の大人ぶった対応を真似してやり返すなど応酬が続いた。



 それでも無邪気な翔平くんに自然と笑う事が出来たのは事実だった。話しながら私ってこんなに笑ったのは久々だと実感した。その翔平くんの優しさのおかげで救われた気がして、心の奥底にある靄のようなものが晴れた気がする。



 小雨になりはじめると「まだ時間ある? ちょっと見せたい所があるんだけど」と翔平くんが尋ねてきたので頷いた。時間は十六時を過ぎたばかり。



 国道十六号線を北に四十分ほど進んだ。道中で翔平くんが私のお母さんの中学校の元生徒だと聞いて驚いた。お母さんは中学校で美術の非常勤講師を請け負っていた事があり、その時の生徒だったのが翔平くんらしい。



 高校を中退したと聞いて、もしかして私が通っている高校なのか尋ねたが、どうやら違うらしい。その時の翔平くんの顔は、まだ車に慣れていなくて緊張しているのか、それとも私の質問に抵抗があったのかわからないけれど、表情は暗かった。



 着いたのは稲毛海浜公園。着いた頃には雨が止み始めて、雨上がり特有のコンクリートの匂いが鼻腔をついた。私が初めて来た事を話すと翔平くんは、ここは土日になると家族連れでバーベキューやプールに入ったりして遊べる人気のスポットだと説明してくれた。



 どうしてここに連れて来られたのかわからないまま、先導する翔平くんの後をついていく。すると目の前に砂浜が見えて視界が開けてくると、広大な海と夕焼け空が広がっていた。



「止まない雨はないってね」



 砂浜に立ち尽くしながら眼前に広がる海から目を離せずにいる私に翔平くんが得意げに話した。



「……あぁ、なんだろう。私、なんだが泣きそう」



 心が救われるってこういう事なのかもしれない。自然の景色に圧倒されて心打たれた事は初めてだった。遮る視界もなく、これだけ綺麗な夕焼け空に見惚れてしまった。今の私の心と体に最適な治療法なのかもしれない。



 深く心を閉ざして、まるでこの世の終わりのような、燻んだ気持ちを抱えた状態の私が小さく感じる。人それぞれ価値観は違うけれど、その問題に向き合う角度を変えて見れば、根本的な解決にはならなくても、また新たな考え方や向き合い方が見えてくるのかもしれない。そう思える程の景色がここにあった。



「本当は虹を見せたかったんだけど、今日は難しいのかな」



 辺りを見渡しながら翔平くんは遠くを見るように目を細めた。



「ほら、虹を見ると幸せな気持ちになるだろう? 俺もたまに気分転換に寄るんだけど、あぁせっかくだから格好つけて見せたかったんだけどな。俺ってこういう時、持ってないんだよ」



 途端に砂浜に蹲み込んでいじけた様子を見せる翔平くん。



「……大学、諦めんなよ? 今から塾でも通って最後まで当たって砕けろよ?」



 翔平くんが私を見上げながら話を蒸し返してきた。さっき車内でもその話になったが、私は話を変えようとしたり、遮ったり徐に触れて欲しくないアピールをしたつもりなのに。それに今の私の力では到底難しい。来年の二月の試験まで半年を切った状況で、今から一般入試に向けて勉強する事はあまりにも無謀。



「またその話? だから私には──」



「夢、諦めて良いのかよ? ここが、今が、お前の人生の岐路だぞ?」



 語気を強めた真剣な表情の翔平くんが私を逃がさない。その目は本当に私の事を心配してくれている。それは十分に伝わる。それくらいわかっているし、他に方法はないのか模索してみたいけれど、そんな時間はない。



 さっき抱いた前向きな気持ちがどんどん霞んでいくのがはっきりとわかる。まるで熱が冷めていくように。



「……それくらい私だって言われなくてもわかってるよ」



 半べそをかくように翔平くんに答える私。こんなに悩んで不安で苦しんだ気持ちを吐露すればするほど、溢れてくる想い。言葉にすればするほど、抽象的で漠然とした夢。



 何から手をつけて良いのか、今の自分にとって何をすれば最適なのか。不安と焦りだけがはっきりとしていて、それを払拭する答えが見つからない。何となくこの道に進めば、夢が叶うだろうと憶測だけで進もうとした道が閉ざされて、方向転換を余儀なくされた今の私は脆かった。



「だったら、やる事なんて一つしかないだろう? 進むなら一つ一つ進んで行くしかないんだから」


 

 俯いていた顔を上げると、翔平くんが満面の笑みで背中を押してくれた。どうしてここまで私の事を励ましてくれるのだろう。知り合って日も浅いし、別荘の売却をお願いした同学年の関係。たったそれだけの関係でどうしてここまでしてくれるのか、私の浅ましい疑問が一瞬だけ過ぎったけれど、すぐにその疑問は掻き消された。



 何より不安と焦りで苦しんでいた暗い心の中に一筋の光を照らしてくれた翔平くんの優しさで感情が溢れ出してしまったから。



 感情を吐露して、少しだけ晴れやかな気持ちになった私を翔平くんは自宅まで送ってくれた。帰宅するといつもより帰りが遅い私を心配してお母さんが心配して出迎えてくれた。



 自宅の一部を改装したアトリエで作業をしていても、手が付かなかったらしい。事情を正直に話して謝ると「こんな気持ちになるなら、やっぱりあなたに携帯買ってあげようかね」と前からお母さんにお願いしていたカメラ機能付き携帯の購入が、まさかの承認になった。



 周りの友達が学校で写真を撮っているのを横目に見て羨ましかったので、こんな形で買ってもらう事になったのが、申し訳なさと嬉しさの半々だった。



 夕食が終わった頃になると私は腹を括って、お母さんと向き合い大学推薦の校内選考に落ちた事を報告した。お母さんは一瞬、驚いた様子を見せたけれど、私が続けて来年の二月の一般受験をしたい事、塾に通って勉強したいと話すと、お母さんは直ぐに「頑張りなさい」と微笑んでくれた。



 その一言に私はどれだけ救われたか。肩の荷が下りてほっと胸を撫で下ろした。翔平くんが背中を押してくれたおかげだ。お母さんは嬉しかったのか、キッチンに向かうとワインとグラスを片手に戻ってきて飲み始めた。私はダイニングテーブルの向かいに座り、いつものようにお母さんのお酒にウーロン茶で付き合った。



 あなたが何か悩んでいるのは分かっていた。けれど自分から話してくれるのを待っていた。落ちたことはそんな気がしていた。そんな言葉の繰り返しだった。やっぱりお母さんは気づいていたんだ。それでも答えを催促しないで待ってくれていた事に、母親としての優しさや懐の深さを感じた。



 きっと催促されていたら一般入試を受ける決断に至らなかったに違いない。もしかしたら私の事だから、不貞腐れて夢を諦めていたのかも知れない。それを承知の上での事ならお母さんと翔平くんに感謝だった。



 そこからお父さんとお母さんの思い出話になった。これは何回も聞いた話。お父さんは世界のコンペに勝てば一年や二年、日本に帰ってこない事は多々あった。お母さんはそれを仕事だからと尊重しながらも、娘の入学式や授業参観くらいは参加して欲しかったらしい。



 私はそのお母さんの愚痴を聞きながらも、お母さんが常に参加してくれたから寂しさはなかったし、子供ながらに仕方がないと割り切っていた。



 当時、お父さんが帰国して自分が設計した建物の写真を見せてくれると、やっぱりお父さんの仕事はすごいって思った。建物の線形美や色合い。何より普通の家と違い、アーチ状に広がる線形美が美しかった。



 それらの建物は国々の公共機関がクライアントになって公共事業を中心に手掛けていたお父さんの強みだったのかもしれない。お父さんの仕事は単に一般住宅だけではなく学校や図書館、運動場など多岐に渡る。お父さんが設計した建物に、いろいろな世代の人達が集まる場所を提供している格好良さに憧れを抱いたのが、私の夢の始まりだった。



「勝手に私より先に遠くに行っちゃうんだから、随分と身勝手よね」



 口を尖らしてグラスを口に運ぶお母さん。言葉と表情が全然、合っていない。そんなの本心じゃない事は私には分かっている。



「でもね、そんな身勝手なお父さんだったけれど、やっぱり何だかんだ、好きだったんだよね」



 そんな両親が素敵な関係性だなとつくづく思いながら、自分の将来の生活にこんな夫婦像を築けたらと二人を重ねた。



 そんなに甘くはない事は重々承知している。それでも私の本気は、もしかしたら通用するのではないかと淡い期待を抱いていた。通用しなければならないし、何としても合格しなければ徒労に終わる。


  

 よく頑張った。浪人生になって来年また頑張ればいい。勉強した事は決して無駄じゃない。そんな言葉は望んでいない。



 最初は大手予備校に通おうかと思ってお母さんに相談すると、評判の個人塾が外房線沿いにあるからと勧められて早々に通い始めた。広告など表だった広告活動はしていないようで、所謂知る人ぞ知る塾らしい。



 聞けばお母さんとそこの先生は旧知の仲のようだった。先生はお母さんと同い年くらいの女性で、戸建ての自宅の一階の部屋、八帖ほどの広さを改装した部屋に私を含む生徒五人が長机一列に座る対面授業のスタイルだった。



 高校は内房線沿いにあり、高校帰りに寄るには蘇我駅から外房線に乗り換えなければならない。塾での授業は二一時を回る時もある。そこから自宅に帰ると二十二時。さすがにお母さんは未成年の女性一人、ましてや高校生の女の子が一人で夜道を歩かせるのは危ないと思ったらしく、出した案が翔平くんの送迎だった。



 私はあまり気にしていなかったし、わざわざ翔平くんに迎えを頼むのは申し訳ない。頑固なお母さんが考えを改める事はなかったので、翔平くんに連絡をとると二つ返事だったので私は恐縮した。



 翔平くんが勤めている会社は外房線沿い。それに翔平くんの会社がある最寄駅と塾は駅一つの距離。翔平くんの家と私の自宅は近く、それなら翔平くんも帰りのついでに私を拾って送ってくれるなら、この展開はアリだと思った。それもあってお母さんは全てわかった上で、翔平くんに頼んでくれたのなら、お母さんに拍手を送りたい。



 そんな一喜一憂していても、翔平くんはどう思っているのだろう。私と違って社会人。私の送迎は仕事に支障はないのだろうか。



 もしかして迷惑じゃないのかなと不安に思っていた初日のお迎えの日だった。授業が終わり翔平くんに電話をする。お母さんに買ってもらったばかりの携帯電話。しかもカメラ機能付き。翔平くんとは携帯を買って直ぐに連絡先を交換した。今では毎日のようにメールのやりとりをしている。



 初日のお迎えの日、最寄駅のロータリーで待っていると翔平くんの車が来た。いつも乗っている会社名が入った、白い軽自動車だった。



「ごめんね、翔平くん。ありがとう」



「全然、気にするなって」



 家までの道のりは約三十分くらい。電車で帰るより十分くらい早いし、交通費もかからない。防犯上も安心だし、何よりこうして翔平くんと会話をしながら帰れるのが楽しい。今日あった出来事を互いに話し合う些細な会話。翔平くんと一緒にいる時間が心地よかった。



 時には時間が許す限り、ファミレスに寄って一緒に食事をしたり、週末に家の近くにある八幡神社で参拝して、絵馬に互いの夢の実現を祈願した。


  

 私は大学受験に合格。翔平くんは私の夢である、海外で建築家として活躍する事を祈願してくれた。本来なら自分の願いを絵馬に書く事じゃないのかと尋ねたら「俺の夢はお前の夢だもん」と照れずに堂々と答えた翔平くんに私が照れてしまった。



 その日の帰りには、翔平くんに背中を押されて大学受験を決意した場所の稲毛海浜公園に再び立ち寄った。秋晴れに加えて、訪れた時間が夕方だったので、綺麗な夕焼けが見れた。


  

 互いに砂浜まで手を繋いで歩き、腰を下ろす。特に会話をせず、互いに目の前に広がる、広大な光り輝く景色を眺めていた。



 ふと名前を呼ばれて翔平くんに振り向いた時、目の前に翔平くんの顔があった。驚く間も無く唇に感触を覚えた時、それが翔平くんからのキスだと認識すると目を瞑って、それを受け入れた。



 それが初めてのキスだった。



 突然の事に呼吸が止まりそうだった。どうすればいいの? 何をすればいいの? 初めての事に緊張と戸惑いが止まらない。私は成されるままの状態で翔平くんが目を閉じているので私も目を閉じた。次第に時が止まったように思考がゆっくりと停止しそうになる。



 触れた唇が離れて目を開けると翔平くんは照れ臭そうに俯いた。その顔を見た途端に脳内を駆け巡る感情、胸から込み上げてくる幸福感。それら一つ一つが、翔平くんの事を好きだと訴えている。自然と笑みが溢れて微笑ましい気持ちになった。



 だから今度は私からその唇に飛び込んだ。さっきの気持ちを確認するように。触れた瞬間、やっぱり間違いではなかった。


  

 この気持ちや想いは真実だった。翔平くんに初めて会った日から今日まで抱き続けてきた、この気持ちは翔平くんの事が好きだったという事。



 これが恋だと初めて知った。理解した途端、そっと唇を離した。理解した途端に襲ってくる恥じらいを翔平くんに隠すように今度は私が俯いた。



 そんな私を見てなのか、翔平くんが私の左手を握ってきた。俯いていた顔を上げると翔平くんは目の前に広がる景色を見ていた。



 視線を追うように私も同じ景色を見た。翔平くんの手の温もりを感じながら、同じ景色を見ている時間はとても心が満たされて幸せな気持ちに包まれた。



 こんな日が永遠に続けば、この気持ちも私が死ぬまで抱き続ける事が出来れば、どれだけ幸せなのだろう。頭の隅でそんな事を考えながら翔平くんの手を握り続けた。



 十二月に入ると、寒さは一層強みを増してきた。制服のスカート下の生足に容赦なく襲ってくる寒風が私の行く先を妨げてくる。物憂げな気持ちと感傷的な気持ちが綯交ぜとなって、胸の奥底に漂い続けていた。



 先日行った模試の結果が芳しくなかった。


  

 希望校の合否判定はD。下から二番目の判定。残酷な結果を目の前に突きつけられ、その判定用紙が追い討ちをかけた。生徒一人一人の模試の結果を公表され、塾の生徒五人中の最下位。志望大学の合格難易度が違うけれど、私が恐らく他の四人より難易度が低いから居た堪れなかった。



 先生が教室を去ると口々に試験に対して気を引き締め直す言葉や慢心せずに継続して復習を行うなどの言葉が飛び交う中、素直に結果に対して喜んでいる生徒もいた。



 私の場合、それらの言葉すら発することも出来ず、細々と周囲の視線に入らないよう、逃げるように塾を出た。きっと私が帰った後に四人集まって陰口のオンパレードに教室は包まれるのだろう。



 駅まで向かうといつものようにロータリーには翔平くんの車が停まっていた。正直、今日は翔平くんの送迎で帰りたくない。気持ちが落ち込んでいて余裕がなく、誰とも口を聞きたくない。そんな気分だった。



 だから翔平くんの車を見つけて二、三歩進んだ後に足が止まった。このまま駅の改札を抜けて電車で帰りたい、右手には改札に向かう階段が見える。



 一人になって周囲の刺激を受けたくない、そんな気分だった。それでも視界に翔平くんの車を捉えているにも関わらず、無視することは出来ない。結局、良心が痛んで止まっていた足を進めて翔平くんの車に乗り込んだ。



 翔平くんはいつものように話しかけてくるけれど、いつものように翔平くんの話が耳に入ってこない。断片的に聞こえてきたのは、今日は大きい売買契約があって、お客さんが喜んでくれて菓子折りをもらったと聞こえてきた。今の私と翔平くんの気分は、対極的だった。



 窓の外の景色のように暗くて重いカーテンのようなものが脳内を包んでいる。小雨が降り出し、フロントガラスに降り注ぐ小粒の雨が次第に大きくなってきて、ワイパーが雨粒を掻き消すも容赦なく降り注ぐ。その繰り返される格闘っぷりですら、今は雨に対して拍手を送れる気持ちになる程、私の心は弱っていた。



「なぁ、聞いているか?」



 不意に視界が左右に揺れて驚いた。振り向くと翔平くんが私の右肩を掴みながら心配そうに尋ねてきた。目の前は赤信号で車は停まっている。



「今度のクリスマスだけどさ、前に話した懇意にしているお客さんが経営しているレストラン。いつも予約が取れないくらい人気なんだけど、頼み込んだら特別に一席空けてくれるって言ってくれてさ。だから──」



 翔平くんの言葉が耳に入ってこない。雑音と雑念が交互に押し寄せてくるような感覚。一気に急アクセルを踏んだように突然、頭が痛み出してきた。耳が熱い。呼吸は荒々しくなる。胸がいっぱいになって溜息が溢れる。



 何だろう、この気持ち。一瞬、わからなかったけれど、翔平くんに対してこんな沸々と込み上げてくる感情を抱くことになるなんて初めてだった。



 前にも似たような症状が出た事があった。あれは親友の里香と中学生の時に些細な勘違いで一度だけ喧嘩になった事があった。その時もこんな症状が出た事がある。



 まさか翔平くんに対して、こんな気持ちを抱くだなんて。もう、止められない。耳が痛い、頭が痛い。もう限界だった。



「いい加減にしてよ。私がどれだけ苦しんでいると思ってんの?」



 吐き出すと少しだけ溜飲が下がった。胸の中に小さな穴が空いて、すっきりとした感覚を味わったのは塾に通い出してから一回もなかった気がする。静寂が車内に流れ出すと俯いていた顔を上げて、ゆっくりと翔平くんに振り返る。



 すると翔平くんは鳩が豆鉄砲を喰らったような様子を見せた。私にはどうしてそんな顔をしているのか、わからなかった。頭に血が昇り過ぎて思考が追いつかない。



「……わかっていたよ。わかっていたから、少しでも沙耶を明るくしようと──」



「わかる訳ないでしょ? 翔平くんは大学受験したことないんだから」



 今度は先程味わった感覚と違った。自分が放った言葉の意味を一瞬で理解が出来た。理解が出来ると一気に重く罪悪感が両肩に伸し掛かってきた。



 すると私と翔平くんの間に重い空気が漂い始めて、今度は怖くて翔平くんの顔を見れずに俯いてしまった。



 こんな事になるなら、やっぱり送ってもらわなければ良かった。自分が置かれている状況で、翔平くんと楽しくお話し出来る訳がない。そんな簡単な事が判断出来ない程、私は冷静さを欠いていた。



 突然、鳴り響くけたたましいクラクション。次に車が横を通り過ぎると私達の車の前に現れて何度もクラクションを鳴らしながら勢いよく走り去って行った。理由はすぐにわかった。目の前の信号が青に変わっていた。



 私はそれを合図のように捉えると、助手席のドアを開けて、雨の中を走り去っていった車と逆方向に走り出した。



 もう終わりだ、何もかも。大学受験も翔平くんとの関係もこれで全てが終わった。


 

 最低な模試結果と、最悪な幕切れだ。何となく予感めいたものは薄々感じていた。今までろくに受験勉強をしてこなかった私が、日頃から勉強をしている人達と張り合おうとしている事が、やっぱり無謀だったんだ。一時の感情だけで舞台に立って、恥をかいただけ。何の収穫もないし、失った事の方が大き過ぎる。



 そんな無謀な挑戦に対して背中を押してくれた翔平くんは何も悪くないのに、八つ当たりをして目の前から逃げ出してしまった。



 私がもっと前向きで多少、楽観的に物事を考えられる、器用な性格ならば、こんな幕切れにならなかったのかもしれない。勉強も翔平くんとも上手く両立が出来たのかもしれない。



 だけど私はそんな器用でもなければ、要領も良くはない。一時の淡い期待と甘い考えに、私は調子に乗ってしまった。



 これで私の人生は終わりを告げる。これから先、どうやって生きていけばいいのだろう。高校を卒業したらお母さんの絵画の仕事を手伝いして、生きていく事が分相応なのかもしれない。



 結局、最初から何もかも駄目だったんだ。この本降りとなってきた雨粒一つ一つが私に罰を与えている様な気がする。私の心情と同じように、人生のクライマックスを演出してくれているようだった。この雨が私の心を洗い流してくれるのなら、どれだけ救われるだろう。



 一気に走り続けて息を切らすと、足を止めた。足を止めた途端に全身で寒さを感じた。無我夢中に走っていたから気付かなかったけれど、こんな雨が降り続ける真冬の寒空を傘もささずに走り続ければ当然の症状。



 大きな溜息を溢せば、吐息が湯気となって漂う。さっきまで熱を帯びていた心身が冷め出すと、重い足取りで駅に向かって歩き出した。



「勝手に降りるなよ?」



 見上げると、少し先で翔平くんが立っていた。車を歩道の端に寄せている。視界に入った情報で翔平くんが来た道を戻ってきた事が理解出来た。



 理解は出来たけど、次の疑問が生まれる。どうして翔平くんが戻ってきたのか、理解が出来ない。



「……どうして?」



 翔平くんが傘を片手に小走りで向かってくる。私が理解出来ずに棒立ちしていると「バカやろう。風邪引いたらどうすんだよ?」と言って私の肩に手を伸ばして車に私を押し込んだ。



 車内は暖かった。翔平くんは車を走らせて、さっきまでいた最寄駅のロータリーを旋回していつもの帰り道に戻った。翔平くんは何も言葉を発さなかった。ただ前だけ見て運転していて、無機質にワイパーが左右に動いている。



 ほんの数分前にいた空間とは明らかに違った。別にこの車内に流れている空気が嫌じゃなかった。音楽やラジオが流れている訳でもない。まるで別空間のように感じるけれど、それはきっと私の捉え方が違うだけ。



 憑き物が落ちたかのように落ち着いた気持ちでいる状態だから、そう感じるのかもしれない。すごく自然な空気が流れていて今度は居心地が良かった。



「……さっきはごめんね、言い過ぎた」



 恐る恐る翔平くんの横顔を覗くと、翔平くんは照れ臭そうに鼻を触っていた。



「俺も悪かった。もっと沙耶の事に気を遣ってあげていれば──」と翔平くんが言い切る前に「そんな事ない、翔平くんは悪くないの」と気持ちが前のめりになって口から溢れた。



「あのね、模試の結果が良くなくて。それで急に現実を突きつけられたっていうか、最初からわかっていた事なんだけど。もう時間がないのに焦りが出てきてイライラしていたっていうか」



 纏まらない考えを拙く話していると涙が溢れてきて止まらなかった。こんな弱音はお母さんの前では出来ない。塾のお金だって色々出してくれているのに、今更弱音を吐ける訳がない。


  

 みんなの期待に応えたい。期待に応えてお母さんや翔平くんに褒められたい。それなのに実力が現実に追いつかない。



 大袈裟に言えば、叶えたい夢と実力が伴わない現実の狭間で苦しんでいる状態。薄靄のかかった道を手探りで出口に向かって歩き続けているような感じ。



「俺にはわからない世界なんだろうな。でも模試の結果が良くなかっただけだろう? って事はまだ沙耶には伸びしろがあるって事じゃないか?」



「だっ、だけどさ。そんな簡単に言わないでよ?」



「最後まで諦めなかったやつだけが、夢を叶えられるんだろう? 大袈裟に言えば死ぬ訳じゃないし、長い人生で考えたら大学受験はほんの一場面だろう? だったらやり切る方がずっと良いに決まってるって」 



 何故だろう。恐らく、さっきまでの私ならば、またドアを開けて逃げ出したくなる気持ちが加速していたけれど、今は違う。頭も痛くならないし、怒りや悲しみだって込み上げてこない。翔平くんの言葉が、今度はちゃんと耳に入ってきて、素直に受け入れる事が出来た。



 一度吐き出した感情が入れ替わるように、今度は翔平くんの優しさで満たされていった。翔平くんが、また私の背中を押してくれる。翔平くんはいつも私を応援してくれる。それを実感した私は流した涙を拭うと、翔平んに対して大きく頷いた。



 受験に対して前向きな気持ちになった私は、早く家に帰って勉強をしたかった。逸る気持ちを抱えながら翔平くんが運転する車に乗っているけれども、ほんの小さな穴のように胸の奥底に居座る黒い斑点だけは、上塗る事が出来なかった。



 それは翔平くんから大学の一般受験を勧められて、私が決意をした時から少しずつ大きくなっている。



 私がさっき流した涙の理由は、単に受験に対する不安を吐露しただけではなかった。それは悲しみや寂しさなどの有り触れた感情ではなく、もっと複雑な感情。



 私が東京の大学に合格すれば、きっと都内で一人暮らしになる。今の家から通える事は出来なくはないけれど、片道数時間はかかるし、負担が大きい。そんな生活になれば翔平くんとこうして過ごす時間は少なくなるのは間違いない。



 夢を追いかければ追いかけるだけ、翔平くんとの距離が遠くなる。翔平くんだって、それはきっとわかっているはずなのに、こうして私の夢を応援してくれている。



 翔平くんはどう思っているのだろうと知りたい気持ちはあるのに、怖くて聞けない自分がいる。



 今はとにかく、翔平くんと離れる事が怖くて悲しかった。




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