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『暮色に包まれた中で四季咲きのような恋をした』第4話

【2006年】


「まさか本当にコンペに勝つなんて思いもよらなかったな。たった二年でよく頑張ったよ、お前は」



 向かいに座る宮田さんが何度目かの賛辞を私に送ってくれた。この人は相変わらず人を褒めるのが上手だった。



「だから何度も言っているじゃないですか。私だけの力じゃなくて宮田さん初め、他のスタッフみんなの力だって」



 先日、スペインのカタルーニャ州の公共事業である保育園のコンペを勝ち取った。未来をテーマにした円形や四角のみならず様々な形を随所に取り入れ、園児達の知的好奇心を刺激して考える力を作るきっかけを与える。



 もちろん、緩衝材を用いた安全面や防犯面を考慮した作りにしてある。さらに食の体験を行えるように敷地内に畑を設けて、野菜作りが出来るスペースを設けた。土と触れ合い、食育をテーマにした地域の人達との交流が出来るようにすれば、地域活性化にも繋がると考えた。来月からスペインに旅立ち、現地スタッフや職員の方々と挨拶を含めた打ち合わせが始まる。



 今日は宮田さんやスタッフと打ち合わせが終わった後に、宮田さんに誘われて浅草近くの高層階にあるフレンチレストランに来ていた。どうやら宮田さんは事前に予約していたらしく、窓際の席に案内された。眼前に広がる東京タワーなど光り輝いていて夜景が綺麗だった。



「まぁ、それでも沙耶が二年前に事務所を辞めたいと言った時は、どうしようかと思ったけれど。今になって思うのは、あの時本当に引き止めて正解だったよ」



 苦笑しながら赤ワインを口に運ぶ宮田さん。もうこの話は何回目だろう。この話をされると本当に恥ずかしいし、情けない。



「その節は大変お世話になりました……ってもうその話はいいじゃないですか」



 翔平くんから突然の別れを切り出された時の私は自分を見失っていた。泣いて喚いてを繰り返す日々で大学を休み、事務所のアルバイトも無断欠勤の繰り返し。その時に理由も聞かずに励ましてくれたのが宮田さんと里香だった。無気力で怠惰な生活から、なんとか気持ちを立て直すと大学を卒業する間際に、宮田さんは正社員として私を雇ってくれた。全く本当に頭が上がらない。



 そこから私は全ての時間を仕事に注いだ。その結果が、スペインのコンペだった。だから本当に結果が出て嬉しいし、何より宮田さんを初め、スタッフの方々に恩返しが出来て安心した。まだ途中だけれど、ようやく夢の第一歩を踏み出せた気がする。



 食事を終えて私がタクシーを拾おうとすると宮田さんが「少し歩かないか?」と言ってきた。お酒も入って火照った体に乾いた心地よい夜風を受けて確かに気持ちが良い。一先ず、隅田川に沿って浅草駅まで歩くと、隅田公園の川沿いで潮の香りが強くなった。



「ここ、花火が一望出来る絶景スポットなんだよ。毎年八月に開催だから俺達はスペインに行っていて当日は見れないだろうな」



「そうですね、二ヶ月先ですから」



 足を止めて、隅田川と二人向き合った。その時、ふと花火大会の思い出が全くない事に気がついた。里香達と一緒に高二の時から行ってないし、浴衣を着た事もない。



「宮田さんは海外での仕事は?」



「十回、あるかないかだな。殆どアジア圏内だけど」



 流石、先輩。私は初めての経験だから期待とやる気、不安と焦りが日々強くなっている。



「ただ、こんなにワクワクするのは初めてかな」



 街灯に照らされた宮田さんの柔和な笑顔を見て一瞬、心臓が縮み上がった。頬が熱くなり焦った私は顔を背けて夜風で冷まそうとする。



「俺らの仕事のやりがいって、頭の中で描いていた通りの建築物が完成した時だって思うんだ。図面を描いて、描いた通りに建つ。その中でクライアントからの要望を受け入れたり、図面を描き直して期日までに間に合わせたり、いろいろ大変な事はあるけどさ。手を抜かずに妥協しないで、それが完成してクライアントに喜んでもらえたりすると、やってて良かったなって純粋に思えるんだよね」



 この人はつくづく仕事が好きなんだなと感心する。最初に出会った時からそうだった。子供のように無邪気な一面もあれば、周りに気を遣える優しさもあって、時には厳しい言葉が飛ぶ時もあるけれど、あとから思えばそれは正しい意見であり、私達スタッフを想うからこその言葉だと気付かされる。



「なんか、今の俺ってアツいな。恥っずかしい」



 両手を内輪のように仰ぐ宮田さん。こんなに熱く語り出すのも珍しい。



「まぁ、これからもさ、俺達一緒にやって行こうよ」



 私は大きく頷いて応えると、止まっていた足を浅草駅に歩み始めた。



「あっ、あのさ。スペインから帰ってきたら俺達、結婚しないか?」



 突然の背後からの言葉に足が止まった。恐る恐る振り返ると、宮田さんが真剣な眼差しで私を見ていた。



「……それって、まさかプロポーズですか?」



 私の問いに大きく頷く宮田さん。人生初めてのプロポーズを受けた。認識した途端に、初めて得体の知れない感情と感覚が全身を駆け巡る。加えて赤ワインが入っているから思考速度は鈍くて、言葉が思うように出てこなかった。



「まっ、まずは仕事を優先しましょ? スペインから帰ってきたら、ゆっくり話し合いましょうよ?」



 これが正解なのか、不正解なのかわからない。私の必死の返答に「そっ、そうだな。ごめん、ごめん。酒の勢いで言うもんじゃないよな」と宮田さんは少し残念そうだった。



 その姿を見て、さっき抱いた感情が少しだけ大きくなった事を実感した。きっと私はこの瞬間から、宮田さんの事を好きになりかけている。



 以前にも似たような状況があった気がした。私は、こういう時に答えを先延ばしにする癖がある。優柔不断な性格は少しは改善されたと自覚があるけれど、このままでは単に私だけがアドバンテージがあるだけで、相互関係の観点からはこのままでは何の意味を成さない事を経験上、知っていた。だからこれまで幾度も後悔してきた。



「でも、前向きに考えたいです」



 もう少し一歩踏み込んだ言葉を与えないと相手はまるで餌を吊るされたまま、何時間も辛い時間を過ごす事になる。だから私の素直な気持ちを伝えると宮田さんの表情が明るくなった。



 私の知る男性は顔に感情が出て単純だなとつくづく思う。それから互いに止めていた足を浅草駅に進めながら、スペインでの仕事について話し合いながら帰って行った。


 後日、里香からお茶のお誘いがあった。待ち合わせ場所はお決まりの杉並区内にある喫茶店。お洒落で落ち着いた店内は、日曜日だから混んでいた。



 この店は犬も同伴して店内に入れるお店であり、雑種の看板犬であるヤマトくんがお客をもてなしてくれる。看板メニューの黒糖チーズケーキとアイスコーヒーに舌鼓を打ちながら、互いの現状報告をした。



「そういえば里香、結婚式の準備とか打ち合わせは大丈夫なの?」


 

「まぁ、何とか大丈夫かな」

 


 里香は少し疲れた様子を見せた。里香と司くんの結婚式が来月控えている。先日里香と会った時に招待状を渡されて、私は自分の事のように喜んだが、大親友の結婚式がスペインに旅立つ十日前だと知った途端、慌てて宮田さんや関係者に相談して打ち合わせの日程調整をした。



 会場は幕張のタワーホテル。招待状に同封されていた写真を見ると、本格的な石造りのチャペルで幻想的なキャンドルの灯りが綺麗だった。披露宴会場は最上階のガラス張りから東京湾を一望出来る所だし、素敵な時間を過ごせそうだった。



「良かったよ。沙耶がスペインに行く前に私の花嫁姿を見てくれるから。あと友人代表スピーチ、よろしくね」



「緊張するなー、里香と司くんを褒めちぎってあげるから」 



 親友が一足先に結婚する事は心から嬉しい。幸せな家庭を築いて欲しいし、何より司くんのような明るくて思いやりに溢れた人なら、里香の笑顔を絶やす事はないだろう。



 そんな里香のおめでたい式なのに私は心のどこかで、結婚式に出席する事が憂鬱になっていた。友人代表スピーチが嫌だとかそういう事ではなくて、もっと他の要因が大きかった。



「翔平くんは……もちろん来るよね?」



 私の一言に里香の目が一瞬、険しくなった。私が心配している事を見抜いたのだろう。



「まぁ、新郎の親友だからね。呼ばなきゃおかしいでしょ?」



 翔平くんの事は司くんから里香。里香から私の流れで聞いていた。別れてから二年の間に結婚した事。会社の社長になった事。里香は小さな溜息をこぼした後に「まぁ、別れて気不味いのはわかるけどさ。私の為と思ってお願いよ?」と諭すように言った。私は頷いたけれど、なんだか気分が晴れなかった。里香には申し訳ない気持ち。



「沙耶はもっと恋愛の勉強したらどう? 韓流ドラマでもみてさ。韓流ドラマはいいよ。恋愛ホルモンがバシバシ出てくるから。こう、内側から出てきてさ。胸キュンするし、もうとにかく観てよ? おすすめのドラマ、紹介してあげようか?」



 そこから里香の韓流ドラマ講義が始まった。昨今の韓流ブームに乗った里香はすっかりハマっていた。里香が言うには大人の男性の魅力をストレートに感じる事が出来るのが良いらしく、私はまだ手をつけていなかった。



 テレビなどのメディアに度々取り上げられるようになって、主役の韓国俳優が来日した時は、その優しい笑顔と知的なメガネをかけた色気に空港で出迎えたマダムを中心とした女性達は大きな歓声をあげていた。



「だから里香も今度は、歳上の男性と付き合った方がいいよ」



 里香の韓流ドラマ講義が一段落すると提案してきた。そろそろ言ってもいいかなと思い里香には伝える事にした。



「大丈夫。私、プロポーズ受けたから」



 私の言葉を受けた里香が一瞬、固まった。口を開けて目も大きくなって本当に驚いた様子。少し心配になった頃に動き出した里香が「えっ、嘘? そうなの? えっ、相手誰よ? 誰なの?」と捲し立ててきた。



 興奮した様子の里香に私は順を追って説明した。宮田さんとの関係や先日プロポーズを受けた事。スペインから帰ってきて話し合いをしてから返事をする事。



 すると里香は「沙耶の事を大切にしてくれる人なら私も嬉しいな」と今度は自分の事のように喜んでくれた。



 こうして誰かに自分の事を想ってくれる事が、こんなに胸が暖かくなる事の大切さを改めて知った。やっぱり里香が親友でいてくれて本当に良かった。



 里香の結婚式当日は快晴だった。明るい日差しと澄んだ空気が、これから愛を誓い合う二人を祝福するように会場を包み込んでいる。



 純白のウェディングドレスを纏った里香は本当に綺麗で幸せそうな表情だった。一方で司くんは緊張していたのか、顔は強張っていて額に汗を滲ませていた。



 チャペル内の幻想的なキャンドルの灯りに包まれた二人が神々しく見えて、心が穏やかになる優しい空間を演出していた。最後に二人がバージンロードを歩いて退場した後にフラワーシャワーを浴びている、穏やかで幸せそうな表情を見て私は涙が止まらなかった。



 挙式を終えて披露宴会場に移動すると、招待状に同封されていた写真で見た通り、開放的な空間だった。自然の光が二面の大きな窓から差し込み、東京湾の水面が輝く青い海が一望出来る。ここはまるで天空のステージのようだった。



 新郎新婦が入場するまでの間、懐かしい高校の同級生達と再会を果たしながら、近況の報告や昔話に華を咲かせながらも、視線は辺りを見渡していた。先程の挙式では姿を確認出来なかったので、披露宴には顔を出しているはずだと思っていた。 



 ふと視線を上げて会場入口に目を向けると翔平くんの姿を捉えた。捉えた瞬間に沸き起こる感情は懐かしさや嬉しさよりも、気不味さだった。黒のスーツにシルバーのドット柄のネクタイ。私の記憶にある姿より少し痩せたように見える。



 ただそれより気になったのは翔平くんの隣に腕を組んで歩いている女性。遠い記憶から手繰り寄せると、一人の女性に思い当たった。いつか会った菜々子さんだった。それにしても遠目からでもわかる、なんて派手なドレス。全身白いドレスに両肩の肌が見えるくらい露出が激しい。



 せめて羽織物くらいするのが通例で、花嫁の里香より目立つ衣装ってマナー違反。バッグだって何かの動物の革だし、イヤリングだって黄色い派手な生花。



 案の定、周囲の視線を浴びている菜々子さん。だけど本人はそれを何とも思っていない様子の堂々とした表情を浮かべている。私のようにグレーのドレスで落ち着いた色を着ているのが大半なのに。親友の披露宴の空気を悪くするような存在に加えて、前の一件もあるし、仲良く翔平くんと歩いているのが、気に食わなかった。



 翔平くん達が歩みを進めていると自然に視線が重なった。翔平くんは私を見て気不味そうに伏目がちになると、それに気付いた隣を歩いている菜々子さんと今度は目が合った。菜々子さんはどこか勝ち誇ったように胸を張りながら翔平くんを引き連れて近づいてきた。やっぱり私はこの人が苦手だ。



「お久しぶりね。確か、沙耶さんでしたっけ?」



 この粘着質な話し方は健在だった。私を値踏みするようなまとわりつく視線。新婦より目立った衣装のくせに、髪色や化粧も落ち着いていて、大人の雰囲気を醸し出している。この女、わざとやっている気がする。新郎新婦と付き合いがなく、翔平くんの友人という格好だけで来ているんだ。



「えぇ。ご無沙汰しております。伺いましたよ、お二人が結婚されたと。おめでとうございます」



 軽く頭を下げてから上げる時に翔平くんの左手の薬指の指輪が目に入った。光輝く大きめのダイヤモンドにプラチナのリング。本当に結婚してしまったんだと落胆した。翔平くんの顔を見ると、私の視線を逸らして困ったような表情を浮かべている。そんな顔をするなんて卑怯だと思った。



「そういえば、私達の結婚式に招待出来ずごめんなさいね。なんだか手違いで送っていなかったって、あとから気付いたのよ」



 何、この時間。この人、前より嫌味に磨きがかかっている。翔平くんはこんな女と結婚して大丈夫なのかと不安になってきた。こんな悪目立ちして、金がかかりそうな女が本当に翔平くんを傍で支えているのだろうか。



 どうしてこんな嫌な女と結婚してしまったのだろう。本当に翔平くんは幸せなのか。さっきから浮かない顔をしているのは、今のこの状況に対してなのか、それとも日々の生活の不満の現れなのか。



「おーい、菜々子。鈴木が来たから余興の打ち合わせするぞ」



 遠くから菜々子さんを呼ぶ男性が手招きしている。菜々子さんは「それでは、お二人は仲良く昔話でもしていてください。翔平、じゃあまた後で」と言い残しながらも、嫌な視線は去る直前まで私に向けられていた。



 翔平くんとこうして会うのは二年振りだった。あの日、突然別れを電話で切り出されてからの再会。だからいざ対面しても気不味くて仕方がない。きっとこうなるから、里香には悪いけれど気乗りしていなかった。



 互いに口火を切れず、華やかでめでたい場所なのに、この場所だけ空気が重い気がする。テーブルに敷き詰められた料理やお酒に舌鼓を打っていると「もうすぐスペイン行くんだってな」と口をもぐもぐさせながら翔平くんが話しかけてきた。



「そっ、そうなの。もしかして里香から?」と少し声が裏返ってしまった。



「あぁ、聞いた。沙耶はすごいな」



 どこか遠くを見つめながら感傷に浸っている翔平くんは、あの頃と変わっていなかった。容姿は少し痩せたように思ったけれど、近くで見れば少しお腹周りが太ったような気がする。それに隣から見ると横顔は疲れているようだった。目元の隈が気になる。



「仕事はどう? 上手くいっているの?」



「全然。親父が亡くなって菜々子の力を借りて、なんとか最初は軌道修正が出来たんだけどな。最近はもう、お手上げだよ」と言っておどけて見せた。



 無理をして見栄を張っているのか、謙遜しているだけで本当は上手くいっているのか。付き合っている時ならわかっているのかもしれないけれど、今の翔平くんはもうそれがどちらなのかわからなかった。



 すると会場のアナウンスが始まり照明が暗転すると新郎新婦が入場した。披露宴が始まり、新郎新婦の紹介が始まると司会者のアナウンスで私は友人代表スピーチをした。



 二人の出会いは私が高校三年生に『当時』付き合っていた彼氏や友人達と五人でドイツ村に行った時が出会いで、その当時付き合っていた私の彼氏である翔平くんを指刺すと会場が沸いた。



 話の掴みが功を奏して、そこから里香との思い出話をしていると涙が溢れてきた。里香も私を見ながら涙を拭っていて、スピーチを終えると盛大な拍手を私に送られた。



 その後も滞りなく進んで披露宴が終わると、私は足早に会場を出た。この後に二次会があるらしいが菜々子さんが主催の二次会にだなんて、どうしても参加する気持ちになれない。建物を出る前に新郎新婦の控え室に行って里香と司くんに頭を下げた。後日、二人には個別にお祝いの品を何かプレゼントしようと心に決めて。



 外に出ると小雨が降っていた。始まる前はあれだけ快晴だったのに、終わった途端に小雨が降るだなんて。それに少し肌寒くて、まるで今の私の心境のようだった。最寄り駅の海浜幕張駅まで歩き、実家に向かって電車に乗る。窓際に立っていると車窓からはいつか翔平くんと行った稲毛海岸が見えてきた。



「あの頃が懐かしいな」



 あれはもう五年前の出来事。私が大学の校内選抜試験に落ちて、お母さんに報告出来ずくよくよしていた時に翔平くんに連れて行ってもらって励ましてくれた。一般受験して大学に進んで今の私がある。あの頃に見た夕焼けと潮風が懐かしい。



 互いに歳を重ねて今より成長しただろうか。私は翔平くんに夢の後押しをしてくれて、ようやく夢への一歩が踏み出せた状況。翔平くんは菜々子さんと結婚して、お父さんの跡を継いで会社を経営している社長になった。



 互いに進む道は異なり、交わる事なく平行線を歩いてきた。私が当時抱いた感情は、一緒に手を繋いで未来に進んでいくものだと当然のように思っていた。だから大学受験だって、その先の夢を叶える為に頑張って来れた。



 勝負には勝ったけれど、試合には負けた。誰かが口にした言葉が身に染みる。そんな気分だから、これ以上翔平くんと同じ空間にいられなかった。だから翔平くんに何も言わずに会場を出ていった。もうあの時の感情を思い出したくなかったから。私はそんな器用に元彼と仲良く気軽に接する事が出来ない。



 蘇我駅で内房線に乗り換えて五井駅まで着くと実家に向かった。実家に帰ってきたのは去年の正月振りだった。変わらないお母さんの元気な姿と実家の匂いに安心した私は、帰る場所がある事の大切さが身に沁みた。



「送られてきた荷物は沙耶の部屋に運んであるからね」



 都内の賃貸は解約したので、荷物の殆どを実家に送っていた。里香達の結婚式を終えたのでスペインに旅立つまでは実家に泊まるつもりだった。部屋に戻って堅苦しい服装を脱ぎ払い、お母さんが温めてくれていたお風呂に入って疲れを癒し、風呂から出てリビングに行くとお母さんの手作り料理に舌鼓を打ちながら、今まで行ってきた仕事の話に華を咲かせた。当然、お母さんにはスペインの旅立ちと宮田さんからプロポーズを受けた事は話している。



「ついにあなたがお父さんと同じ道を進んで、しかも結婚するとはね」



「ほら、まだ結婚すると決まった訳じゃないから。返事だってしていないし」



「てっきり私は翔平くんと一緒になるって思っていたんだけどね。まぁ、人生いろいろあるわよね」



 缶ビール片手に感傷に浸っているお母さん。娘としてはお母さんに花嫁姿を見せて親孝行をしたいって気持ちはある。でもそれは夢を叶えた後だと決めていた。



 それと久しぶりに実家に帰ってきて、少しだけこの空間に変化を感じていた。それは要所要所に花瓶が飾られていた事。添えられているのは赤いカーネーシションなど様々だった。私の記憶ではお母さんの趣味にはなかった事。



「お母さんってお花の趣味なんてあったっけ?」



 キッチン横のカウンターに飾られているカーネーションを指差して尋ねると振り返ったお母さんは「あぁ、気付いた?」と微笑んだ。



 新しく趣味を始めたなら素敵な事だし、一人で家にいるより何かに夢中なってくれた方が私としても嬉しい限りだ。



「最近ね、お花屋さんと仲良くしているの。それでいくつかお花をもらってね」



 聞くと以前から面識があった近所のお花屋さんらしい。私もその花屋と主人と面識があるらしいがうろ覚えだった。お母さんはたまたま買い物帰りに足が止まって、そこから足繁く通うようになったらしい。



「なんだか飾っていると部屋が明るくなるでしょ? 子育ての手が離れて、私一人でこの家に住んでいると時々、寂しくなってね。こうして水やりをしたり、土を入れ替えたりするのが、なんだか子供を育てているように感じるのよ」



 お母さんが花に触れている仕草や見つめている目が、何か特別な意味を持っているのではと直感が働いた。だから「お母さん、その店の人に恋しているでしょ?」と鎌をかけてみた。



「なっ、何を言ってるのよ。そういうのじゃないから」



 動揺ぶりが真実を物語っていた。お母さんの反応は乙女のように顔を赤らませている。本当はお酒のせいかもしれないけれど、なんだか微笑ましかった。



「素敵だと思うよ、そういう関係性。お父さんも喜んでいると思うよ」



「だっ、だからそういうのじゃないーーー」



「お母さん……寂しいんでしょ?」



 私の言葉を受けてお母さんの視線はリビングのカウンターに飾られている写真に目を寄せた。動物園にお父さんとお母さんの三人で行った時の写真。あの当時は私が小学生三年生の時だと思う。



「沙耶には話した事ないかも知れないけれど、私とお父さんが最初に出会ったのはスペインのバルセロナだったのよ」



 ゆっくりと噛み締めるように話し出したお母さんの言葉に「えっ、そうなの?」と初耳の内容に驚きを隠せなかった。



「当時私はまだ大学生。二十歳を過ぎたくらいだったかな。美術のコンテストで負けが続いていてね。他人の才能に嫉妬して苦しんでいたの。なんとなく気分転換というか、自分探しをしてみたくなってスペインに行ったのよ。それにサグラダファミリアもね、終わりのない人生みたいな感じで一度見て見たかったしね」



 当時から元気で少しだけヤンチャな感じを醸し出しているお母さんが想像出来た。私は母親の体験談や過去の話を聞くのが好きだった。こうして自分は当時こう思った、こう考えたという話を信頼している人から聞くと、自身の体に溶け込むように話が入ってくる。



「いろいろ観光しながら、なんとなく自分のこれからを見つめ直している時に立ち寄ったレストランがあってね。そこのレストランのオーナーは日本にいた頃から知り合いだったの。だから来る事があったら来てって言われてたから、日本に帰る前に立ち寄ってね。そこでお父さんと出会ったの。同じ日本人ってこともあって意気投合してね」



 それからお父さんとお母さんの馴れ初めを聞いた。日本に帰ってからも連絡を取り合い、交際が始まって結婚に至ったという。



「だからあなたがスペインに行くって聞いた時は、なんだか運命みたいなものを感じてね」



「それじゃあ、そこのレストランがお母さんにとって運命の場所って事?」



 照れ臭そうにするお母さん。なんだか思いもよらない話に新鮮さがあって、微笑ましくなった。



「だから沙耶がスペインに行った時は立ち寄ってあげて? もう二十年以上前の話だから今でもあるかわからないけど。あとで場所教えるから」



 その日の夜は遅くまでガールズトークをして盛り上がった。翌日、昼過ぎに起きた私は完全な二日酔いだった。お母さんが娘と二人でお酒が飲めるのは楽しいと酒が進んでいたのを微かに覚えている。頭痛と気怠さが悩ましい。



 リビングに降りるとテーブルに『仕事に行ってくるね。冷蔵庫にチャーハン作ったから温めて食べて』と書き置きされていた。あんなに飲んだのにパワフルなお母さんに感心した。今すぐに食べられる体調ではないので冷蔵庫からお茶を取り出してガブ飲みした後、再び部屋に戻ってベッドにダイブした。



 特にやる事もない。久しぶりにゆっくり時間が流れる日を過ごす事に多少の戸惑いを感じる。スペインに行けば、きっと大忙しの日々を過ごす事になるだろう。だから今はゆっくりと体を休めて備えたいって気持ちもある。



 けれども気持ちと体の意見は噛み合わないらしく、ふと起き上がって部屋を見渡した時に部屋の片隅に山積みになっている段ボール箱に目が止まった途端、大きな溜息が溢れた。



「……やりますか」



 都内で一人暮らしをしていた時の荷物の塊。このまま荷解きをせずにスペインに行って、帰ってくるまでこのままではあまりにも忍びない。もしかしたら数年帰って来れないかもしれない。荷解きをするなら今しかないと思った。二日酔いの体に鞭を打って、重い体を起こす。



 段ボール箱の中身を一つ一つ見れば、どれも大した事ないものばかり。衣類関係から参考書など大学生時代の四年間を中心に彩ったものばかりだったが、ある物を箱から見つけた途端に手が止まった。



 それを箱から取り出すと、まるで時間が止まったように当時の記憶が脳内を駆け巡り、今の自分が、あの頃から目を背けていた事を改めて感じた。極力思い出したくない、あんな思いはもうしたくない。そんな負の感情が今では大半を占めている。私はこれをどう処理するべきか、大いに悩んだ。



 一つの結論に辿り着くと携帯を取り出して翔平くんに『仕事終わりに会えない?』とメールを送った。翔平くんに連絡を取ったのは別れて以来の二年振り。連絡先が変わっているかもしれないと思ったが、エラー送信になることはなかった。



 翔平くんから返信があるまで根気よく荷解きをしているとメール着信が鳴った。この着信音も翔平くん専用の着信音だった。設定はあれから変えていない。これも私の中であの頃から時間が止まっている証拠なのかもしれない。



『いいけど、どこに行けばいい?』



 すぐに思いついた場所は、あそこしかなかった。昨日の結婚式の帰りに見た場所。返信すると今度はすぐに翔平くんから了承の返事が届いた。そこから荷解き作業を止めて支度に入った。



 この散らかった状態から着ていく服を選ぼうとすると、さほど選択肢がない。今更着飾った服を選んで何を期待しているのだろう。荷解きからどんどん、私の悪い所が出ている気がする。結局、デニムパンツに白のミニワンピのカジュアルスタイルに決めると、酔い覚まし的にシャワーを浴びて、髪を整えて服を着込んでから薄くファンデーションだけ塗った。



 翔平くんが何時に仕事が終わるかわからないけれど、早めに家を出た。最寄駅から電車を乗って到着した稲毛海岸。ここでかつて虹を見て、私が大学進学に迷っていた時に翔平くんが勇気づけてくれた場所であり、初めてキスをした場所。その海岸で腰を下ろして薄明かりに灯った夜景を眺める。昼間よりも少し肌寒く潮風が漂ってきた。そこでもう少しカーディガンなど羽織るものを持ってくれば良かったと後悔した。



 十八時を過ぎた頃に翔平くんから『今、会社を出た』とメールが届いて、思った以上に早く着きそう。道が混んでなければあと三十分くらいだろう。次第にもうすぐ翔平くんがここに来ると思うと、妙な緊張を覚え始めた。深呼吸をして呼吸を整える。



 これから私は終止符を打って、けじめをつける。スペインに行って夢を叶える前に翔平くんと対峙しなければならない事だと考えた。



 私と翔平くんとの付き合いは、確かに別れて終わった。翔平くんも私と別れた後に菜々子さんと結婚した。それで良いけれど、私の中では本当の意味で翔平くんと別れていなかったような気がした。



 ある日、突然別れを告げられて、その時は翔平くんのお父さんが亡くなって、会社の事とかいろいろ大変な事があっただろうから、感情に身を任せるような決断をしたのかも知れない。



 だから私から翔平くんに連絡を取ったり会いに行く事は控えていた。もちろん、翔平くんに小言の一つや二つ、言いたい気持ちをグッと押し潰して。そういえば、翔平くんの口から別れを切り出した理由を聞いていなかった。



 気持ちが前向きになれない、気分が落ち込んだ日々をそれから過ごした。どうすればこの気持ちを消せる事が出来るのだろう。私は器用な性格ではないし、簡単に切り替える事が出来ないまま、悶々と日々を過ごしていた。それだけ翔平くんの事が好きだったから。



 それから宮田さんや周囲に支えられ、暖かい励ましを受けてから仕事に神経を注いだ。大学を卒業して社会人になってから宮田さん達と過ごした日々が、かつて抱いていた感情や想いを少しずつ薄れさせた。



 これでいい、このまま過ごしていければきっとあの辛かった日々と翔平くんに対する気持ちを忘れていけるんだって思っていた。だけどそれから二年経っても身体と心が乖離しているような感覚を抱え続ける事になった。



 どうすればいい、何をすればこの気持ちが消えて無くなるのだろう。そもそもの原因を私はさっき気付いた。それは私の中であの時から時間が止まっているような感覚が根底にある事。



 私の中でちゃんと翔平くんと決別が出来ていなかった。だから私は二年間、靄がかかったように心の奥底で決して消え去る事のない気持ちを抱え続けていたんだ。



 翔平くんはあれから社長として会社を背負い、結婚して新たな家庭を築いて新たな人生のステージに進んでいる。私もこれからスペインに旅立ち、夢を叶える為の新たなステージに進む。



 このままこの気持ちを抱き続けてスペインに行ったって、心の底から全身全霊で夢を叶える事は出来ない気がする。それなら私だって旅立つ前にちゃんと翔平くんと別れたかった。私のエゴなのかも知れない。でも、それはお互い様。翔平くんだって一方的に私を振ったのだから。



 少し離れた場所の駐車場に一台の車がヘッドライトを点けて入ってきた。やがて薄暗がりの中で人影が降りて近づいてくると翔平くんが小走りに駆け寄ってきた。



「ごめん、待ったか?」



 少し息が上がっている翔平くんに「ううん、私もさっき来たばかり」と答えた。今の私は顔が強張っているのかもしれない。もう一度深く深呼吸をする。あの時とは違って今度は私が一方的な別れを告げるだけ。



 互いにベンチに腰を下ろす。昨日の結婚式の時のようなぎこちなさはなく、あの頃の時のような自然な空気が二人の間に流れているようだった。人気もまばらでジョギングしたり、犬の散歩をしているなど長閑な光景。辺りはすっかり暗くなり始めて、点在した街灯だけが薄暗くなった翔平くんの顔を照らしていた。



「それで何? 急に会いたいって?」



 いよいよかと覚悟を決めた。翔平くんから切り出された私は、持ってきた鞄から中身を取り出して翔平くんに差し出した。それは翔平くんからクリスマスプレゼントにもらったステンドグラスのコップだった。



「けじめみたいなものかな。ちゃんと別れる為にね」



 捨てるのは違う。持ち続けているのも違う。悩んだ末の決断だった。翔平くんは受け取った瞬間、全てを察してくれたようで余計な言葉を添えずに「……了解」とだけ言って応えてくれた。その瞬間、昂っていた感情や熱がゆっくりと冷め始めて安堵感を覚えた。



「ごめんね、せっかく作ってくれたのに」と私が頭を下げると「どうせならスペインの現地のステンドグラスの造りと比較してくれてもよかったのにな。結構、自信作だったんだけど」と言って、コップを手に取って掲げながらコップの底を覗いていた。



 そこで意を決して「私ね、プロポーズを受けているの」と話すと、あからさまに翔平くんは驚いた様子を見せて息を飲んでいた。こんなに驚いている翔平くんに続けて「でっ、でもまだ返事をしていないんだ。スペインに行って仕事を終えて日本に帰ってからというか」と言葉を添えた。



「そっ、その人はさ。どんな人なんだ? ちゃんと沙耶を幸せにしてくれる人なのか?」



 俯いたまま低く真剣味を帯びた言葉を放つ翔平くんに私は簡単に経緯を話した。すると翔平くんは「そうか、良かったな」と安心した様子を見せた。



「沙耶はすごいよな、ちゃんと自分の夢を叶える為に頑張っているんだな」



 あの時、この場所で翔平くんが背中を押してくれた事が始まりだったのはわかっている。翔平くんがいたから今がある訳で、怖くて踏み出せずに立ち止まっていた私の背中を押してくれたのが翔平くんだって事は事実。



「ありがとう、今まで本当に。翔平くんには本当に今まで助けられた」



 言葉にした途端、自分の中で憑き物が落ちたように体が軽くなった気がした。これで翔平くんとちゃんと別れる事が出来たのかもしれない。



「スペインに行く前に翔平くんと会えて良かった。こうして話す事が出来て。里香の結婚に感謝だよ」



「……そうだな」



 すると突然、前方の空に特大の花火が色鮮やかに上がった。空気の振動や火薬の匂いが伝わってくる。呆気に取られながら二人して目を奪われた。



「今日ってどこか花火大会でもやっているの?」



 花火の音で声をかき消されるので必然と翔平くんとの距離が近くなる。翔平くんは「いや、時期にしては早くないか? どこかのイベントが何かだろう?」と顔を近づけてきた。



「そういえばさ、付き合っている時に今までいろんな季節を一緒に過ごしてきたけれど、こうして花火を一緒に見たことなかったね」



 偶然見れたこの花火は、私達の新しい旅立ちへの花向けのように感じ取れた。花火の光で薄明かりに照らされた翔平くんの表情は空を見上げながら「……そうだな」と少し寂しそう目をしていた。



 それから翔平くんが家まで送ってくれると言ってくれたので、翔平くんの車に乗った。この道をこうして翔平くんの車に乗るのも久しぶりだった。あの時もそうだった。私が大学入学を機に東京に引っ越しをする時も駅まで送ってくれた。



 以前と変わらない景色。車内では二人とも会話はなかった。付き合っている時にはなかった空気感。今では少し重苦しい。途端に他人行儀な気分になる。好きだった人と別れるとこんな気持ちになるんだと、初めて知った。



 そんな車内だったから長いようで短いドライブだった。家まで数軒手前で車を停めてもらった。なんだかお母さんには翔平くんと二人でいる所を見られたくなかったから。翔平くんが空地の脇に車を停めてエンジンを切る。



「……ありがとう。元気でね」



 シートベルトを外しながら静寂を断ち切るように別れの言葉をした途端、この言葉が翔平くんと最後の別れになるかもしれないと思った。だってもう、こうして会う事はきっとないのだから。



「沙耶も元気でな。気をつけてスペインに行ってこいよ?」



 翔平くんに振り返ると、翔平くんの目は以前のように私の背中を押してくれていた優しい目だった。翔平くんはいつも私を応援してくれる。これ以上、翔平くんに甘える事は出来ない。さっき別れたばかりなのに、どうしてこんなに胸を締め付けられるのだろう。



 翔平くんの言葉を受けて大きく頷いた後に助手席の扉を開いて外に出た。車内にいる翔平くんに手を振って足を進めた。



 もう振り返らない。もう後悔しない。これからは前を進むだけ。自分の夢を叶える為に。それなのにもう一度だけ。もう一度だけ、翔平くんの顔を見たい。だから進めていた足を止めて振り返った。



 翔平くんは車内から私に手を振っていた。街灯に照らされた車内は暗くて翔平くんの顔を鮮明に見る事は出来なかったけれど、私が手を振ると今度は大きく手を振り返してくれた。



 きっと翔平くんは私が家に入るまで見届けてくれるに違いない。私の背中が小さくなるまで、こうして今までも私の背中を見守ってくれていた。



 翔平くんの優しさが私の決意を鈍らせる。



 だから私は足を進めた。もう十分じゃないか。いつまでも翔平くんに頼っていてはいけない。そう決意して歩いていると背後から扉が閉まる音がした。



 何気なく足を止めて振り返ると翔平くんが車から降りていた。翔平くんの足が私に向かってくる。翔平くんの歩く速度が次第に早まるのと同時に私の胸の中の鼓動も早く鳴り出した。



 この気持ちを抑える事が出来ない。今まで幾度も込み上げてきた、この気持ちは冷静さを失う。私の決意はあっさり消え去り、本能の赴くままに身を任せた。



 口から想いが溢れ出しそうになると、駆け寄ってくる翔平くんに反応して私も翔平くんに駆け寄った。勢い良くぶつかった私の体を翔平くんは優しく抱き締めた。



「……沙耶」



 耳元で囁く翔平くんの声は、今まで聞いた事ない類の落ち着いた低い声色だった。囁かれた瞬間、体が驚いて身震いする。構わず力強く私の体を抱き締める翔平くん。私も応えるように翔平くんの体を抱き締めた。



 もうどうなってもいい、もう全ての事なんかどうだっていいとさえ思えた。翔平くんの口から、私が求めている言葉をもらえるなら、例え積み上げてきた全ての物事を犠牲にしてもいい。



 世間の目から好奇な目を向けられたとしても厭わない。翔平くんから伝わる温もりや匂いなど、翔平くんと一緒にいなければ感じる事の出来ない全てが手に入るなら。



「……幸せにな」



 絞り出した翔平くんのか細い言葉を受けると、私の体の中で込み上げていた熱が急激に冷めていった。熱が冷め始めると今度は体が瞬時に反応したように涙が溢れてきた。



 翔平くんの体に抱きついていた私の両腕の力が抜けると、翔平くんは私の体を優しくゆっくりと突き放した。抜け殻となった私の体が一歩、二歩と後退りすると、逃げるように翔平くんは車に飛び乗って私の横を急発進で去っていった。



 何が起きたのか、思考が追いつかない。何をされたのか、何をしたかったのか。何を期待して、何が駄目だったのか。



 ゆっくりとパズルのように事実と想いを繋ぎ合わせると、真実が襲ってきた。数分前の出来事が再生されると、私は膝から崩れ落ちて抜け殻になった。



 初めからわかっていた事だった。私はとことん甘い性格。今まで何度も傷ついて苦しい思いを味わっているのに憧れを描いてしまった。憧れを抱いたから、こんな苦しみを味わうんだ。



 もうこんな思いをしたくない。こんなに苦しいなら会わなきゃ良かった。



 だからもう会わない。もう会いたくない。



 私の初恋は涙と一緒に流れ去った。


※※※          


 込み上げてくる怒りと後悔、どうする事も出来ない現実に打ち拉がれる思いを抱き続けながら車を走らせていたが、犯した行為の罪の重さに耐え切れずに車を停めた。大きく息を吐いて冷静さが戻ってくると、先程の出来事が鮮明に蘇ってきた。



 いったい、俺は何をしているんだ。車の背もたれを大きく下げて車の天井を見上げる。衝動に駆られた時の俺は、俺であって俺じゃない、そんな感覚だった。



 あの時、沙耶が遠くに行ってしまう。俺の知らない男と結婚してスペインに行ってしまえば、もう二度と沙耶と会う事はないかもしれない。



 それに気付いた途端に怖くなり、沙耶を抱き締めた。離したくない、離れたくない。自分の欲望が掻き立てられて、素直に従った行動。なんて無様で、自分本位で、無責任な行動だったのだろう。今思い返せば、俺の行動に対して驚きもせず、受け入れた沙耶の真意を知りたかった。



「……あの時が楽しかったな」



 様々な思い出と光景が脳内を駆け巡る。過去に行った行動と決断を悔いては悩み、悔いては悩みを繰り返した。何も出来ない現実と責任が重く伸し掛かり、再び大きな溜息をつく。



 あの時の俺は、自暴自棄に陥っていた。親父が亡くなって、気分は落ち込み、会社を背負う責任が重く伸し掛かった。二兎追うものは一兎も得ずが、怖かった。だから俺は天秤にかけてしまった。沙耶と会社を。



 失ってから気付いた大切な存在。想定していた以上の深い悲しみと後悔。一度、自分から手放したくせに、悔やんでも悔やみきれない。日常の彩りが消えた灰色の世界。あれから俺の世界が一変した事は言うまでもなかった。



 味のしなくなったガムを噛み続けるような日々。平凡な日常に戻り、一時のイベント事に心が踊ったが、変わらない現実と向き合う事になる。



 親父が亡くなってから会社の経営状態を菜々子に見直してもらい、それに倣うように事務員の吉江さんと三人で協力し合ったが、一時的に純利益は伸びたものの、また下降を辿っていた。



 むしろ二年前よりも現在は悪くなっている。考えられる原因が複数あり過ぎて、根本的な原因に辿り着けない状況。結局、今まで一兎さえ得る事が出来なかった。



 例の詐欺事件は解決したが、借りていた金の返済は滞っている状況に変わりはない。銀行からの催促も続いている。金がない状況なのに、来店促進の為に菜々子は、店舗リフォームをすると言い出して、俺や吉江さんが反論しても、どこから金を借りてきたのか、ある日から店内の工事が始まっていた。出来上がった店内は、木目を活かしたカフェ風のテイストになっても、客足が伸びる事はなかった。


 

 次にインターネット広告費を増加して反響収集をしようと言い出して、大手広告サイトの掲載件数を増加したものの、これも不発に終わる。



 最近になってようやく自分が提案した改革案に結果が伴わない事に気付いて、あからさまに苛立ちを見せ始めた。最初は精力的に会社を見直してくれていたが、最近では愚痴やダメ出しばかり。



 吉江さんからも不評で吉江さんいわく、会社を乗っ取ろうとしているんじゃないかと呟くほどだった。単に社長夫人という肩書に興味を持っているだけなのではないかと疑問を呈する吉江さんに、俺はこんな借金だらけの会社を乗っ取る方がおかしいですよと笑って答えた。



 ただ一抹の不安を拭い切れないのも事実だった。最近では帰宅しない事も多くなってきた。俺が外出している間に会社に戻ってきては、いつの間にかいなくなっている。何をしているか、また何か考えがあっての行動なのか。尋ねた所で口を割ろうとせず、最近の菜々子の行動が見えなかった。



 そんな事を考えていると、菜々子が店の入口から入ってきた。声をかけようと立ち上がったものの、菜々子の思い詰めた表情と甲高いヒール音が威圧を助長させて、一直線に俺に歩いてくる菜々子に声を発する事が出来なかった。



 眼前に立ち塞がった菜々子は、何も言わず鞄から何やら紙を取り出して、俺のデスクに叩きつけた。それを恐る恐る手に取って見ると離婚届だった。ご丁寧に菜々子の署名と印鑑が既に押されている。



「おっ、お前これって?」



「書いて届けておいて」



 踵を返して帰ろうとする菜々子に詰め寄って肩に手を伸ばした。



「おい、こんな時に離婚って何を考えている──」



「こんな時じゃない」



 俺の手を振り払うと、菜々子の甲高い声が店内に響き渡り、空気を引き裂いた。



「私が……私が今までどれだけこの店の為に労力を費やしたと思っているの? 店のリフォーム費用も広告費も。全部私のお金よ?」



 それは寝耳に水だった。思わず後ろにいる吉江さんに振り返ると、吉江さんも息を飲んでいた。



「それに比べて最近のあなたは何もしようとしなかった。口ではああだこうだ言うくせに行動に移さず、いつも否定的な言葉ばかりで目の前の問題から目を背けて問題を先延ばしにしているだけ」



「そっ、そんな事はない。俺だって親父が亡くなって跡を引き継いでから、いろいろ画策していた」



「よく言うわよ。現を抜かしてばかりいたくせに」



「なっ、何を根拠に──」



「結婚した当初のあなたは格好良かった」



 菜々子は目の前のカウンターの席に座り、想起するように遠い目をしている。



「会社の莫大な借金と一緒に会社を背負う覚悟を決めて、なんとか会社を立て直したいというあなたの熱意と決意に心を打たれて私は付いていくと決めた。正直無謀だと思いながらも、あなたの傍で支えたいという気持ちが強かったから、なんとか両親を説得した事を今でもはっきり覚えている」



 当時、菜々子の力は不可欠だった。身近に頼れる存在がいなかったのも事実。気負っていた当時の自分を思い出した。



「補足すると、翔平の事が好きだったからってのもあるんだけどね。ようやく私を頼ってくれたのかって嬉しかった」



 久しぶりに向けられた菜々子の笑顔。互いに会社の事で時間を一緒に過ごすようになってから、幼馴染の存在でしかなかった二つ歳上の菜々子に好意を抱き始めるには、あまり時間を要さなかった。



「だけど、あなたは変わってしまった」



 切れ味鋭い重低音な言葉が、俺の胸を切り裂いた。辺りの空気が一瞬で重くなった気がする。



「最初こそ上手くいったものの、その後の経営状況が改善されなかったのは私の力不足だった事は認めるわ。だから懇意にしている大学の先輩や関係者に意見を求めた。それを以って相談しても、あなたは聞く耳を持とうとしなかった。プライドが邪魔をしているのかもしれない。最初はそう思ったけれど、私は根気よくあなたを説得したわ。だけどあなたは何も変わらなかった」



 プライドだなんてそんな物を持ってはいない。あの時の俺は、父さんから引き継いだだけのお飾り社長に過ぎないのに、周りが俺を持て囃し、いい気になっていた。社長という肩書きに囚われ過ぎて、周囲の意見に耳を傾けなくなった。今になって実感している。



 何をすれば良いのか、何が悪いのか。時間が経つに連れて、気力は下降していった。何とかなる、何かあると漠然とした期待と不明瞭な希望を抱いて、ただ時間を過ごすだけの日々だった。



「あなたに本当の笑顔が戻ったのは、あの時だけだった。あの披露宴であの女を見つけた時だけよ?」



 菜々子が言っている意味がわからなかった。心当たりがなくて黙っていると菜々子は苛立った様子を見せて俺を睨んだ。



「見たのよ、あなたの隣で。あなたは当日の朝から機嫌が良かった。だから何かある、そう思った。思考を繰り返すと、気付いたの。あの女がまた私の前に立ち塞がるのかって。だから壊したかったの、あなたが楽しみにしている披露宴を」



 菜々子のあの時の行動に全て納得した。菜々子が沙耶の事を言っていると認識した途端に。衣装から沙耶への悪態、全てが腑に落ちた。


 

 ただ菜々子の口から今になって沙耶の事が話に出る事に驚きを隠せなかった。あまりにも菜々子と沙耶の存在が離れ過ぎてて、結びつかなかったから。



「私、言ったわよね? 結婚する時に浮気は許さないって」



 天を見上げた後、何かを決心したように鋭い目つきで俺を睨む菜々子。気のせいか、その鋭い目付きは悲哀に満ちていた。薄らと潤んでいるように見える。



「あの日……里香達の結婚式の翌日、あなたは急な仕事が出来たと私とのディナーをキャンセルした。あなた、覚えている?」



「……あぁ、もちろん。あの日は──」



「あの日はね、私の誕生日だったのよ?」



「あぁ、知っているよ。だから──」



「あなた、あの女に会いに行ったわよね?」



 思いも寄らない角度からの攻撃に言葉を失った。それが明らかだっただけに、もはや菜々子の前で白状したようなものだった。この女は間違いなく見逃してないだろう。



「……お前、まさか尾けていたのか?」



 俺の問いに急に吹き出して笑う菜々子。それがもう正解だった。



「えぇ。だってあなたはわかりやすい人だから」と目尻に溜まった涙を拭うと続けて「女の勘、舐めんなよ?」と凄んできた。



 それから菜々子は本当に俺を尾行していたようで、稲毛海岸に向かって沙耶に会いに行った事や沙耶を家まで送った事。俺が沙耶を抱き締めた事など、その場を見ていないと解り得ない事まで話し出した。



「ねぇ、翔平? これは私への裏切り行為よ」



「……わかっている。すまなかった」



 俺は菜々子に頭を下げると「元カノが忘れられないの? あなたから別れを切り出したんでしょ?」と吐き捨てたが、俺が話していない事をどうしてそこまで知っているのか、菜々子が少し怖くなった。



「私はね、寂しかったのよ。結婚した当初のあなたは私が何をしても喜んでくれたし、疲れている私を気遣って体を心配してくれた。でも途中で気付いたの。それらはいつも心がなかった事に。あなたは私を通してあの女を見ていたのよ。私を見ようとすらしていなかった。あなたは決して私を愛してくれていなかった。こんなに私が愛して、尽くしていたのに」



 頭を上げると、菜々子は目元を拭っていた。すると席から立ち上がり「……さようなら」と言い残して店を出て行った。俺は菜々子の背中を見つめるだけで追いかける事は出来なかった。



「……翔平さん」



 吉江さんが近づいてきて心配そうに声をかけてきた。従業員に不信感を抱かせて心配をかける社長は失格だ。



「……フラれてしまいました」



 菜々子が置いていった離婚届を吉江さんに見せて、明るく努めたが吉江さんは笑ってくれなかった。



「彼女、菜々子さん──」



「えぇ、泣いていましたね」



 菜々子が泣いた姿を今まで見た事がなかった。いつも気丈で頭が切れて芯を持った強いイメージを持っていただけに、自分が犯した罪深さに苦しんだ。



「私達は、彼女の事を勘違いしていたのかもしれないですね」



 吉江さんの言葉が全てだった。見た目の派手さと言動、全て憶測で判断していた。最初から思い違いをしていて、月日が経つ事に徐々に歯車が狂い始めて、今日ついに歯車が外れてしまった。



「今思い返せば、一生懸命に会社の事を思って頑張ってくれていました。業者に営業電話をしたり、店頭の販売図面を作成してくれたり、収支報告書と遅くまで睨めっこしていた。あいつが一番悔しかったのかもしれない。しかも俺の裏切り行為があったら、この結末は当然の行動です。全部、俺が悪いんです」



 肩を落としていた時に店の扉が開いた。一瞬、菜々子が戻ってきたのではないかと思ったが、視線を向けた先の人物はそうではなかった。懇意にしている銀行担当者の佐野さんと隣に立っている初老の男性は見覚えはあるが、すぐに名前が出てこなかった。視線が合うと目礼してきたので倣って返す。



「今、奥様とそこですれ違ったのですが、泣いていたようなんですけど……何かあったんですか?」



 不穏な空気を感じ取ったのだろう。佐野さんが尋ねてきたが、隠していても仕方がない。先程菜々子に叩きつけられた離婚届を二人に見せながら「まぁ、こういう事です」と戯けて見せると、二人は気不味そうに互いを見合った。



 俺としては一笑に付してもらった方が救われるのだが、銀行員の立場、顧客との関係ならそうはいかないのだろうか。



「そんな時に重ね重ね恐縮ですが、混み入った話がありまして」



 佐野さんの顔は一向に晴れなかった。それに混みいった話には心当たりがある。返済の事だろう。現に返済は半年出来ていなかった。だから二人を応接間に案内して腰を据えて話を聞いた。



 佐野さんの隣に座っているのは佐野さんが勤めている銀行の支店長だった。生前に親父が懇意にしていた方だと以前聞いたことがある。今回訪ねて来たのも、当時支店長自らが親父に五億五千万の融資をした件があるからなのだろう。



「御社とは生前のお父様から息子であられる社長も大変懇意にして頂いた御恩があります。今回の事件のご事情も重々承知しておりますが、ついに本部が動きまして。それで私達の手を離れる事になりました」



 流石、支店長ともいうべき流暢な言葉が並べられながら、恐縮そうに苦悶の表情を浮かべている。握り締めた紺色のハンカチで額や目元を拭いながら。



「大変申し上げにくいのですが、今後は当行の債権回収業者から連絡がいくかと思います」



 佐野さんも同様に苦悶な表情を浮かべている。佐野さんとは付き合いが長いだけに支店長よりも、本当に心の底から心苦しそうにしているように見えた。



「失礼ですが、お支払いの目処は──」



「全然ですよ、全くです」



 支店長の問いに間髪入れず両手を挙げてお手上げ状態で答えると、支店長の目から呆れた様子が垣間見えた。借りている立場なのはわかっているし、申し訳ない気持ちもあるが、このタイミングで尋ねて来るのもどうかと思う。俺はさっき妻から離婚を叩きつけられたばかりなのだから。



「……左様ですか。それでは互いに話す事はもうないですね。失礼させて頂きます」



 支店長の態度の急変には驚かされた。視線も合わさず、もう借金まみれの人間には用がないと言わんばかりにそそくさと店を後にした。佐野さんは最後に店を出る前に一礼して帰って行った。



 佐野さんの性格なら俺の預かり知らない所で頑張ってくれたんだと思う。佐野さんには何度も今まで助けてもらったし、今回の返済の件でも相談に乗ってくれた。



 それでも返済は出来なかった事が佐野さんには申し訳ない。きっと債権回収業者からの催促に応じなかった場合、弁護士が間に入って会社の任意売却や差押の手続きに入り、会社は倒産の道を辿る。



 社長室のデスクの引き出しから紙煙草とライターを取り出して火を点けた。半年前に決意を改める為に止めていた煙草。



 今はもうどうだっていい。そんな決意は無意味だったんだ。いつかの親父のようにリクライニングソファにふんぞり返って紫煙を燻らせながら天を仰ぐ。



 始まりがあれば終わりがあるのはわかるが、あまりにも突然、終わりがやってきた。言い訳も議論の余地もなく、あまりにも呆気なさすぎて幕を閉じた。



「あれ? 煙草止めたんじゃないんですか?」



 佐野さん達に出していたお茶を洗って給湯室から戻ってきた吉江さんが開けていた社長室の扉から顔を覗かせた。恐らく佐野さん達と話していた会話は聞こえていたはずなのに、平然を装ったようにいつもの調子で話しかけてくる。



 吉江さんの気遣いには今まで本当に助けてもらった。母さんが亡くなった後の俺にとっては第二のお母さんのような存在だった。



 時には高校生の娘さん用に作った弁当と一緒に俺用にも作ってくれた事だってある。そんな優しさに溢れた吉江さんにはもうこれ以上、心配をかけたくなかった。



「吉江さーーーん」



 ソファの背凭れに上半身を預けながら、入口に向かって叫んだ。俺の呼ぶ声に再び顔を覗かせる吉江さん。



「吉江さん、お世話になりました」



 煙草の火を灰皿に押し潰して消すと、立ち上がって吉江さんに深く頭を下げた。顔を上げると吉江さんは鳩が豆鉄砲を喰らったように驚いている。



「退職金と今月の給料はなんとか払いますから、次の転職先を探してください」



 神様はちゃんと見ていたんだ。公平、平等に罰を与える。俺だけに例外があるなんて事はない。



 この結末は俺の罰なんだ。



※※※



 郷に入れば郷に従えという言葉があるように、スペインに渡る前にスペインという国を私なりに調べた。



 スペインは南ヨーロッパのイベリア半島に位置していて、成田空港からチューリッヒを経由してバルセロナまで約十四時間程度で到着する。人口は約四千四百万人で国土面積は日本の約一.三倍大きい。



 スペインではいろいろなスポーツが盛んだが、その中でも別格なのがサッカー。サッカーに疎い私でも強豪国なのは知っている。今年はワールドカップもあるから,国中が沸いて応援するだろう。



 食文化としてはオリーブオイルの生産量は世界一で、一説には世界のオリーブオイルの約半分を生産しているらしい。アサリの酒蒸しパスタやアヒージョなど想像するだけで食欲が止まらない。そこにサングリアと呼ばれる赤ワインベースのお酒を流し込んだら、どれだけ幸せなのだろう。



 著名な文学としてあげられるのは、スペインの作家であるミゲルでセルバンデスの小説,ドンキホーテ。詳しい内容は勉強不足だけど、名前くらいは聞いた事がある。



 小学生の時に使ったカスタネットは元々、スペインの民族楽器が発祥らしいなど様々な事を私なりに調べたが、出発前にそれらを宮田さんやスタッフに話しても、さほど興味を持ってくれなかったのは悲しかった。聞けば彼等は私が鼻高々に話した内容を既に知っていたらしい。



 私の考えとして、その土地に根付く建物をこれから建てるにあたり、スペインの文化や風土を学んでおいた方が、より良い仕事に取り組めるのではないかと思った。



 現にこの知識は通訳スタッフである日本人のモニカさんに褒められた。モニカさんは外資系の会社に勤める夫と一緒にバルセロナに五年前から移住してきたようで私より三歳年上だった。しっかりものの印象で段取り良く街を案内してくれた。細身で背が高くモデルのような体系で現地スタッフとの交渉事もスムーズに介してくれて頼もしい存在だった。



 スペインに到着してから最初の三日は観光と時差ボケ直し、クライアントと簡単な打ち合わせ、工事現場の確認だった。初日はバルセロナ市内のホテルで旅の疲れを癒し、二日目に現場の確認を車で往路二時間超の道のりを終えて戻ってくると、三日目は自由行動となった。私はモニカさんの案内で宮田さんと一緒にガウディの建築物に触れた。



 世界遺産であるグエル公園。童話のようなカラフルの建物と美しいタイルと曲線美に触れて、改めて偉大な建築家の創造力に圧倒された。グリム童話のヘンゼルとグレーテルに出てくるお菓子をイメージした小屋。写真スポットとして有名なタイル張りのドラゴンの噴水。



 次にガウディの建築物の中で完成度が高いと言われているカサ・バトリョ。バルセロナ市内のメインストリートに建っていて海をイメージしたと言われている。建物は五階建に地下室を加えた集合住宅で約百三十年前に建てられたにも関わらず、綺麗に保存されている世界遺産。



 外壁は海をモチーフにしていて、波打った窓枠は羽を広げた蝙蝠のように見え、その窓の間の特徴的な柱は通行人から骨のように見えると言われているらしい。



 美しさに見惚れていた私にモニカさんが話してくれた衝撃だった内容として、この外観に貼られている破砕タイルやガラスは地元の会社から廃棄物として譲り受けたものを使っているらしい。そういった独創的でエコな使い方をしている事も尊敬の念を抱いてしまう。



 内部がさらに驚いた。光が入りにくい部分に鏡やガラス窓を付けて反射した光を入れたり、曲線美やここでも水玉模様の丸いステンドグラスを利用して海水の飛沫を表現。建物内部の吹き抜けは海底洞窟をイメージをして作られたようで、青の市松模様タイルが四面に貼られている。



 これは強い光を受ける上階には光を吸収しやすい濃い色調を、逆に光が届きにくい下層には光の反射率が高い白いタイルを貼って合計五段階に色を変化させている。



 これにはもう脱帽だった。大満足してホテルに帰ってきた私。バルコニーに出て夜風に当たりながら念願のサングリア片手に想いに耽けていた。



 上には上がいると重々承知していたが、ここまで圧倒されるとは思っていなかった。写真や本では見ていたが、本物は違う。偉大な建築家の脳内はいったい、どこまで計算やイメージをしているのだろう。今ほど文明の利器は当然ないだろうし、これほど多くの人達から感銘を受けて、愛されて、自分が設計した建物が長く残る事の重要さを肌で感じると自分の夢と重ね合わせてしまった。



 憧れが遠くに感じた。どれだけ月日を重ねて、どれだけセンスを磨き、どれだけ研鑽を積んだ所で、偉大な建築家達の背中に追いつける訳がない。追いつこうとしている事すら烏滸がましい。



 いつか近い将来、自分の夢と重ねた時に世間は彼等の建物と比較するのかと想像するだけで怖くなった。彼らの弛まぬ努力と飽くなき精神を注ぎ込んだ傑作は神の所業と言っても過言ではない。



 以前に書籍でガウディが通っていた建築学校の校長がガウディの事を『彼が狂人なのか天才なのかはわからない。時が明らかにするだろう』と言ったようだ。それはまさに時が明らかにした。既存のルールやスタイルに捉われず、独自の道を開拓した。



 私はいたって凡人だ。狂人でもなければ、天才でもない。才能よりも建築が好きって気持ちは誰にも負けたくない。彼等のような偉人や天才と讃えられるような人物になりたいとは思っていなくて、平凡で月並みな生活に少しだけ刺激と自由があればそれで十分だった。



 まるで眠らない街、スペインのバルセロナ。二十時を過ぎても明るい。例えば夏至の時期なら日没は夜の二十一時半。太陽が沈んだ後も薄明るい夕方のような空が二十二時過ぎまで続く。ここからでも賑わった声や明かりが届いて、居心地が良かった。



「なに、ぼーっとしているんだ?」



 隣のバルコニーからひょっと顔を出して来たのは宮田さんだった。聞けば宮田さんも私と同様、この明るさからの時差ボケ解消に苦労しているらしい。



「そっちに行っていいかな?」



 宮田さんの問いに応じた。玄関で出迎えをすると宮田さんはサングリア片手に入ってきた。話は自然とガウディの話になった。あれだけの建築物を目の前にして、同じ志の人間なら刺激を受けない訳がない。



「あんまり気負わなくていいと思うぞ?」



 窓際のテーブルの向かいに座る宮田さん。さっき私がバルコニーで物思いに耽けていた事を気にしているのだろうか。



「誰だって最初から巨匠や偉人と呼ばれる人間がいない事は歴史が証明している。そう呼ばれている人達は積み重ねて出来た努力と尽きる事のない好奇心が彼らを動かして、振り返ったらそう呼ばれていた。きっとそういうものだと俺は思っている」



 宮田さんもガウディの作品を見て少なからず刺激を受けたに違いない。宮田さんはお酒が入ると熱く仕事を語りがちになる。それから自身が思う建築の向き合い方を流暢に語り出した。私はそれが嫌いではなかった。



「私、スペインに来る前までは純粋にお父さんのような世界で活躍出来る建築家になりたいと思っていました。でも来た途端、憧れが憧れじゃなくなったというか、自分の夢や目標が小さく感じて。このままでいいのか、私は最後まで仕事を全う出来るのか。漠然とした不安でいっぱいになっちゃって」



 宮田さんは組んでいた足を下ろしながら、グラスをテーブルに置いた。



「先輩として少し生意気な事を言っていいか?」



 頷く私を見て、一息吸った宮田さん。何を言われるのだろうと内心ドキドキした。



「それは沙耶が成長したって事なんじゃないか?」



「……えっ?」



「ガウディの作品を見て圧倒されて、お父さんの背中を追ってきたけれど、自分がいるステージが変わってお父さんの背中が見えてきて戸惑っているんだよ」



「いや、流石にそれは──」



「それでいいと思う。やっと掴んだ切符を手にして、こうしてこの場にいる事が何よりの証明だろう? 俺の所に飛び込んできた大学生の時から考えてみろよ? 同じ道を目指して頑張っているやつがそう簡単に掴めない切符を、たった数年で掴んでいるんだぜ?」 



 俯いて沈黙している私に続けて「そうやって誰もが一歩一歩上がって成長していくんじゃないのか? そうやって成長して続けて行けば、やがて沙耶の中で価値観が変わり、拘りが生まれていくと思う。それが沙耶の個性となって、いつか沙耶の名前が後世に残るかもしれない。そうすれば彼らのように尊敬の眼差しを向けられるようになるんだと思う」と語り出した宮田さんの顔を見上げると真剣な眼差しが向けられていた。



 こんなに胸が熱くなると思わなかった。ほんの数分前までの自分と明らかに心境の変化があった。それを体の芯から込み上げてきて早く吐き出したい衝動に駆られる。吐き出せば、それが活力となって仕事に注力出来る事を経験上、私は知っていた。



「ありがとうございます。本当、私ってくよくよ考え過ぎな所が駄目なんですよね。一人で考え込んだって何一つ解決しないのに」



「そういう性格なら、尚更俺みたいな存在が近くにいた方がいいと思うけどな」



 そう言って宮田さんはズボンのポケットから小さな箱を取り出して、目の前のテーブルに置いた。私にはその箱が意味する事を理解出来なかったので、話を促そうと宮田さんの顔をまじまじと見つめていると、宮田さんが苦笑した。照れ臭そうにその箱に手を伸ばして開いた方を私に向けると、ダイヤの指輪が入っていた。



「別にこの前の話を急かしている訳じゃない事は誤解しないで欲しい。これは沙耶に対する感謝の気持ちだよ」



「……どういう事ですか?」



「さっき俺は沙耶に偉そうに話したけれど、沙耶が俺の事務所に来てから今まで以上に仕事が楽しくなったんだ。クライアントが喜ぶ顔や感謝される事の大切さを改めて知る事が出来た。それは沙耶が一生懸命に仕事に取り組む姿勢を客観的に見る事が出来たから改めて気付けたんだ。だからこれからもビジネスパートナーとしてやっていきたい」



 宮田さんの真意がわからない。感謝の意味を込めて指輪をプレゼントされる事はあまりにも申し訳ない。



「そして願わくば仕事だけじゃなくて、プライベートも一緒になってくれたらと思うけど、それは日本に帰ってからゆっくり話し合いたい」



 最後に宮田さんの本音が溢れた。その事は浅草で食事をした帰りに私が言った言葉。今、この状況でその返事をする事は出来ない。出来ないけれど私の気持ちは無碍に断る事が出来ないと言っている。



「……ずるいですよ、それは」



「あっはっは。そうだよな、突然ごめん」と言って指輪が入っている箱を引き下げようとする宮田さんの腕を掴んだ。すると宮田さんは私の顔を不思議そうに見つめている。



「この前も言いましたけど、今すぐにプロポーズをお受けする事は出来ませんから。私だって気持ちの整理が出来ていませんし」 



「……そうだよな、そう言っていたもんな」



「ただ、今はありがたくこの指輪は頂戴します」



 宮田さんの手から箱を取り上げてもう一度指輪を見つめた。プラチナ色の細身で丸みがある、滑らかな形状の指輪。手に取って指輪を嵌めようとすると、宮田さんが代わりに私の薬指に嵌めてくれた。何だか胸の奥に籠っていた空気が一気に吐き出されて涙が溢れそうになった。



 ベッド横の机に置いてあるティッシュを取ろうと立ち上がろうとした時、宮田さんが察してティッシュ箱を取りに行って持ってきてくれた。



 差し出されたティッシュに手を伸ばした時、宮田さんの顔が横から急に目の前に現れた途端、宮田さんの唇が私の唇に触れた。触れた途端にキスをされたと認識したけれど、私はそれを目を閉じて受け入れた。



 それは胸が熱くなって興奮したり、頭が真っ白になるようなキスではなかった。両肩の荷が降りて胸を撫で下ろすような安心感があって落ち着かせてくれる。今はそれがとても心地良くて、目元に溜まっていた涙が自然と溢れ落ちた。



 翌日になって打ち合わせを終えてホテルに戻ろうとした時、現地の内装コーディネーターの女性スタッフ三人が飲もうと誘ってきた。せっかくの事だしと思い、宮田さんに声をかけたが女性同士で親睦を深めた方がいいと先に帰ると言って、モニカさん含めた五人で飲む事になった。



 勧められた店はバーに近い居酒屋のような店だった。店内の雰囲気は日本のお洒落なカフェに近い落ち着いた雰囲気。日本で言う居酒屋のような店をこっちではバルと呼ぶらしい。



 昼間はレストランをやっていて夜になると立ち食いするスタイルでお酒を交えたコミュニケーションを取る場に変わるようだ。日本でいうお通しのように主食のパンが出てきたり、薄く切ったパンやクラッカーにチーズや魚、肉を乗せて食べるカナッペが前菜として出てくるなど現地スタイルを満喫した。



 内装コーディネーターの内の一人、フリダという鼻筋が綺麗で肉付きの良い二十三歳の女性は、日本に建築を学びに短期留学をした事もあるほど日本が好きらしくて、日本語も多少話せる女性だった。



 そんな彼女には幼馴染の彼氏がいて同棲しているらしいが、定職につかず、いつも家でダラダラと過ごしているらしいと彼女の愚痴は止まらなかった。フリダが興奮して日本語で喋っていたのに、途中から流暢なスペイン語を話し出してから何を言っているのかわからなくなり、適当に相槌を打っていると、察したモニカさんが通訳と解説をしてくれたが、結局は月並みな女性の彼氏に対する不平不満だった。



 内容は不景気による就職求人倍率が日本より悪い事情があるにしても、もっと勉強やパートでもいいから働いて欲しい。私が休みの日にデートに行きたいのに家でゲームばっかりしている彼氏に対する願い。そこに国や文化の違いはないらしいが、そんな悩みを聞いていると、いつかの私と重なって微笑ましくなった。



「サヤさんはどうしていましたか?」



「わっ、私?」



 フリダからいきなりの質問に戸惑った。思い返すと翔平くんの顔が脳裏に浮かぶ。フリダと同い年くらいの時はもう別れていた時だと思ったが、思えばもう二年以上前の事だった。



「そんな時もあったよ。私の場合は遠距離恋愛って言って──」



 そこからモニカさんの通訳を交えて当時の恋愛状況を話した。お酒も入っていたので気が大きくなり、勢い余ってペラペラと話すと、モニカさんは通訳しながら苦笑していた。



 急に別れを告げられた事、友人の結婚式で再会したけれど、元彼は結婚していてその結婚相手がすごく嫌いだった事。ここには知り合いもいないし、日本人はいないから実名を出して愚痴や当時抱いていた不満をぶちまけてやった。それをモニカさんや他の三人も笑ってくれたから私は救われた。



「そのリング、彼氏からもらったんですか?」



 フリダが私の薬指を指差して尋ねてきた。そっと左手の指先で触れると宮田さんの顔が脳裏に浮かんだ。



「これはね、私が今大切に想っている人からもらったの」



 モニカさんが通訳すると目の前の三人が興奮してはしゃぎだした。このリアクションも日本の女性と変わらない、可愛い反応だった。どこの女子も恋愛が大好きで、そこから恋愛話に華を咲かせると遅くまで飲み明かした。



 酔っ払いながらも意識ははっきりとしていた。コーディネーター三人は家が近いからと店前で別れて、モニカさんと電車で帰ろうと駅まで歩いたが、電車が走っておらずタクシーを拾ってホテルまで戻った。ホテルに帰ってきた私はシャワーだけ浴びて重い身体をベッドに預けて眠りについた。



 翌朝、ひどい頭痛で目が覚めたのはホテルの内線電話と激しいドアのノック音だった。先ず電話に出ると簡単な英語でモーニングコールをされた。どうやら私が昨夜にホテルに帰ってきた時にフロントで頼んでいたらしい。電話を切って今度は激しくノックをしている相手と対峙すると酷く焦った様子を見せたモニカさんだった。



「携帯にかけても電話に出ないから起こしに来ました」



 昨夜の酒の席がなかったように、すっきりした表情のモニカさん。プロ意識の高さを感じた。そこから急いで支度を済ませてフロント前のソファーに座って他のスタッフを待っていると、宮田さん以外は全員揃っていた。



 宮田さんらしくない、珍しいと思って携帯に電話をかけると電話は繋がらない。フロントスタッフから部屋に電話をかけてもらっても繋がらず、話を聞くと昨夜も部屋に戻っていないようだった。万が一の可能性もあるため、宮田さんの部屋をノックしたが反応はない。昨日の飲み会の前に宮田さんに誘いの言葉をかけた時には、ホテルに戻ると言っていた。



 何か事情があったのかもしれないと私達は一先ず、昨日打ち合わせをしたコーディネーターの人達が勤めている会社に向かったが、最寄駅は終日運転停止になっていた。



「昨日、脱線事故があったらしいわね」



 モニカさんが電光掲示板を読み上げた。どうやらここから五つ駅先を行った区間で車両の脱線転覆があったらしい。妙な胸騒ぎが襲ってきたが、一先ずタクシーで目的地まで向かった。会社に到着しても宮田さんはいなかった。打ち合わせが始まる直前に再度携帯に電話をしても繋がらない。胸騒ぎが大きくなり始めた頃にモニカさんに相談すると警察に相談する話になった。



 私は事が大きくなり過ぎるのではないかと不安になったが、盗難などは比較的多い地域でも事件性に発展した可能性がないとは言い切れないとバルセロナに在住しているモニカさんの意見を尊重した。知り合いに警察関係の人間がいるらしく、私も同席すると言ったが、すぐに打ち合わせに同席する代わりの通訳を呼ぶと言ってモニカさんは警察に向かった。



 会社に到着してフリダを始めとした内装コーディネーターと昨夜の飲み会の出来事を互いに称えていると、すぐにモニカさんの代わりのエンマと言うモニカさんと同年代の女性が到着して打ち合わせが始まった。打ち合わせの最中、もしかしたら宮田さんから折り返しがかかってくるのではないかと思っていたが結局、連絡はなかった。



 ホテルに戻り、モニカさんからも連絡がないまま時間が過ぎていく。途中、事情を話して私の部屋の隣の宮田さんの部屋をホテルスタッフに開けてもらい、部屋を確認した。宮田さんと付き合いの長い事務所スタッフ達も宮田さんの身に何かあったのではないかと心配になっていた。



 自室に戻るとベッドに全身を預けて指輪を掲げると、一昨日に私の事を励ましてくれた宮田さんの顔を想起する。



 私の答えがいけなかったのか。もしかして私が煮え切らない思わせ振りな答えをしてしまった事が彼を傷つけてしまい、自暴自棄になって行方をくらましている。そんな奇想天外で思い上がった事さえ妄想してしまったが、常識人であり誠実な宮田さんがそんな子供地味た事をするとは思えない。



 それに私は日本に戻ったら、宮田さんと前向きに結婚を考えたいと思い始めていた。



 宮田さんに好意を覚え始めたのは二年前。私が腐りに腐り、自暴自棄に陥っていた私に救いの手を差し伸べてくれて、宮田さんの優しさに触れた。学生の身分から会社員として勤務するようになって、より宮田さんの事を知れば知るほど、彼の仕事に対する誠実や真面目、卓越した知識と経験に感銘を受けて、二年の月日が宮田さんに対する憧れから好意に変わっていった。



 一年前くらいから宮田さんの言動から私に好意を持ってくれている事に気付き始めた。それは単に職場の後輩に接する言動ではなく、私を一人の女性として見てくれる事に。



 私は恋愛を暫くするつもりはなかった。あれだけの事があって私は傷付き、自暴自棄になって苦しい思いを味わいたくない気持ちでいっぱいだった。それは宮田さんに正社員として働く時に伝えている。だから暫く宮田さんから具体的なアプローチはなかった。



 それからコンペを勝ち取った後、浅草でのプロポーズがあった。私は薄々、それを感じ取っていた。きっと宮田さんは私に好意を伝えてくれるのだろうって。でも私はそれを受け取らなかった。



 それが私の弱さだった。優柔不断で決断が出来ず、目の前の課題や問題点を先延ばしにしてしまう。目の前の事を一個一個処理してからでないと次の事に手がつけられない。



 だから宮田さんのような細かくて視野が広く、同時進行に何でも器用にこなせる存在が、側で支えてくれたからスペインまで来れた。それはきっと、仕事だけじゃなくて一緒になれば日々の生活が楽しくなるだろう。



 お互いがお互いを支え合う存在。それを意識し始めてから次第に宮田さんの存在が一昨日から大きくなっていった。宮田さんはきっとその優しさで私を包み込んでくれるのだろう。



 私は宮田さんに欠けている、ずぼらな一面を知っている。詳しく聞いたことはないが、宮田さんは家事全般が苦手らしい。現にさっき隣の部屋を覗いたら、部屋中散らかっていた。それに日本にいた時から二日に一回は同じ服を着ているし、髪や髭にも清潔感がない。私は家事全般が嫌いではない。



 だったら生活を共にする事になったら私が宮田さんを支えようじゃないか。この光輝く指輪を婚約指輪と受け取って、日本に戻ったら宮田さんに今の気持ちを伝えようと思った。



 ベッドに横になって想いに耽ていると突然、携帯が鳴り始めた。体を起こしてベッド横の机に置かれていた携帯に手を伸ばす。モニカさんからだった。モニカさんの声は普段と違って興奮した様子だった。それに雑音が入り混じって上手く聞き取れない。



「モニカさん、ちょっと聞こえないの。なに?」



 モニカさんは場所を移動したようで、今度はモニカさんの声がはっきり聞き取れた。それでも興奮した様子で吐息が漏れて聞こえてくる。緊張感が伝わってくると私は身構えた。



『沙耶? 落ち着いて聞いて? 宮田さん……宮田さんが亡くなったわ』



 一瞬で頭の中が真っ白になった。息を飲み、呼吸を忘れ、携帯から漏れてくるモニカさんの声が上手く耳に入ってこない。



『電車の脱線事故があったでしょ? それに宮田さん乗っていたの。今、警察署にいるんだけどこれから大使館に一緒に──』



 先程まで描いていた未来の絵が、ゆっくりと湾曲を描いて崩壊していく。



 突然の目眩に襲われると視界が暗転して、私は意識を失った。

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