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『暮色に包まれた中で四季咲きのような恋をした』第6話

【2011年】

 やはり日本という国が、如何に世界各国と比べて恵まれているかを帰国する度に感じざるを得ない。



 アドバンテージとして祖国という点を鑑みても、それらは食事や治安、文化など様々な要因はあるにせよ、はっきり言える事は祖国の土を踏んで空を見上げて大きく深呼吸すれば、それだけで帰ってきて良かったと思える。



 父親の兄、つまり叔父にあたる親戚の会社に身を置いて約五年が経つ。会社を潰して借金だけが残り、生きる意味を見失いかけていた時に手を差し伸べてくれた叔父の会社に身を置いて世界を回っている。



 日本の精巧技術と独自の文化を世界に発信しながら各地を回る謂わば、職人の集団であり、俺はその中で彫刻家として身を置いていた。その道を十代から歩き続けている四十代の先輩との師弟関係を築きながらの時間は、新鮮で退屈ではなかった。



 最近になって思う事は、手に職を持つ事の大切さが身に染みる。今までの社長業の経験や不動産の知識など何も通用しない世界に飛び込み、ただ叔父との縁と手先が少しばかり器用なだけの男には、日々の仕事で恥をかいて、出来ない事に苛立ちを募らせ、先輩から叱咤激励を受ける日々が充実していた。それだけで俺が当面生きる意味を見出す事が出来る。



 毎年、日本が春を迎える頃に二週間だけ帰国する事になっている。各々、家族があり帰国すれば家族の元に帰っていく。日本にいる間は叔父の家に居候するのだが、家では叔父と叔母とは仕事の話しかしない。だから、時には気が滅入る事さえある。そんな時は日本の各地を旅するのが好きだった。特にこの時期になると、観光地は桜が満開の時期になり、優雅な姿を見せてくれる。


 

 記憶だけでなく水彩画に風景を残す事もあれば、書き溜め過ぎた絵画を行きつけのスペインのレストラン店主に売って食事代が浮く事もあるから一石二鳥にもなる。なんとなく描き始めたものをプレゼントして喜んでくれる事は俺としても嬉しい。



 こうした生活を始めて約五年の月日が経ち、つくづく人の有り難みを以前より肌で感じるようになった。何も持っていなかった俺に手を差し伸べてくれた叔父を始め、迎えてくれた会社の先輩達。言葉の壁はあるにせよ、気楽に迎えてくれて指導してくれた各国の職人達。俺の過去を知らない人達とはニュートラルに接する事が出来て、余計な詮索さえしてこない。それがとても楽で居心地が良く、ただ仕事さえこなしていれば互いに干渉しない。



 だから日本に帰国する事が時々怖くなる時がある。俺の素性を知っている人達に会う事が怖くなっていった。孝や司を始め、彼らとは長い付き合いだったから、今の俺を見たらどう思われるだろうと不安を覚える。格好つけて彼らの付き合いを断ち、住所不定の状況を作り、一から人生を再出発したこの俺を、今の彼らが迎えてくれるのだろうか。会ったらどんな顔をして会えばいいのか、それとも俺の存在を忘れてしまっているだろうか。何ならこのまま俺の事を忘れてくれても良いとさえ思う。


 

 彼らだけじゃない。同級生や今まで付き合いのあった同業他社からすれば、俺は父親が残した会社を潰したレッテルが記憶に新しいだろう。だから俺の存在なんて忘れてくれていい。その方が都合が良いかも知れない。余計な感情や考え方が湧いてこなくて楽だから。



 それでもずっと頭の片隅に残っている女性がいる。沙耶だった。沙耶の笑った顔だけは、いつまで経っても色褪せる事がない。俺には沙耶の進むべき道の背中を押した責任と自分本位な行為で彼女を傷つけて勝手に去ってしまった罪がある。ずっと心が痛かった。ずっと後悔が襲っていた。何度もあの時の出来事を忘れようとしても、沙耶の笑顔が脳裏に張り付いていた。



 あれから五年の月日が経つが、沙耶の事だからもう自分の夢が叶って、以前言っていた相手と結婚して幸せな生活を築いているのかも知れない。もしかしたら子供だって産まれていてもおかしくない月日の経過だ。それならそれでいい。今の俺に出来る事は遠くから少しでも沙耶の力になって応援する事だけ。それが今の俺に出来る罪滅しであり、願いだった。



 日本に帰国して一番初めに向かう場所がある。市原市内の八幡神社には俺が小さい頃から家族で新年の参拝に訪れていた。両親と三人で訪れて、夏祭りになれば屋台などの出店も立ち並んでいた記憶がある。ここを訪れれば、まだ懐かしさと日本の風情を感じる事が出来る。


 

 ただ地元なだけに周囲の視線が気になる事が懸念だった。目的だけを済ませて長居をしない事が最善の方法。いつものように鳥居を潜って本殿に向かい、賽銭箱に賽銭を済ませて拝礼をする。社務所に向かって絵馬を買って願い事を書く。



『中村沙耶の夢が叶いますように 山本翔平』



 幾度書いた俺の願い事。果たして沙耶に届いているのだろうか。神様を疑う訳ではないけれど、沙耶に届いている事を切に願わざるを得ない。この願い事が叶っているのかどうか俺には知る術と権利はないのだから。絵馬を持って絵馬掛所に足を進めて絵馬を掛けようと手を伸ばした。



「私の夢、もう叶ったよ」



 一瞬、耳を疑った。その声が俺に向けられたものなのかどうか。思考と呼吸が止まり、脳内で木霊のように繰り返される言葉が判断を鈍らせる。まるで時間が止まったように。



 それでも本能は許さなかった。恐る恐る振り返ると、一人の女性が立っていて俺を見つめていた。その目は優しさと哀れみを滲ませているのが一瞬で分かった。真実なんてどうでも良かった。これが夢なのか現実なのか、どうだっていい。俺はその女性から目を離せなかった。  



 その女性はゆっくりと一歩ずつ近づいてくる。歩き始めてすぐに唇を尖らせながら俯き出した。その仕草だけで近づいてくる女性が沙耶だと認識した途端に言葉に出来ない感情が込み上げてくる。



 沙耶が手の届く距離まで近づいてくると、俺の中で止まっていた沙耶の見た目と異なり過ぎて戸惑いを隠せない。随分、大人の女性になって端正な顔立ちになっていた。



「どっ、どうしてここに?」



 ようやく絞り出した言葉だった。喉が乾いて思うように言葉が発せられない。



「これ、返してもらったから」



 沙耶が鞄から取り出したのはステンドグラスのコップだった。



 目の前にコップの底を突き出されて「こんな仕掛けがあるだなんて知る訳ないじゃん。菊地さんに教えてもらわなかったら気付かなかったよ」と口を尖らせながら、事の経緯を話してくれた。



 どうやら毎年スペインから日本に帰国している事を菊地さんが沙耶に教えたようで、沙耶はここで俺が来るのを待ち伏せしていたらしい。だとしても理解が出来ない事がある。



「だとしても、この場所がどうしてわかった? 誰にも言っていないし」



 そこから沙耶の説明が続いた。説明を聞いても理解が追い付かない。偶然の再会にしては出来過ぎている。



「去年の今頃に絵馬を書いたの。来年、翔平くんにこの場所で会えますようにって。それのおかげかも知れないね」



 少なくとも神様は俺と沙耶の願いを叶えてくれたって事か。だとしたら俺の心残りはもう何もない。今まで積み重ねた分、肩の荷が急に降りて安心する一方、寂しさが尽きない。



「だからね、翔平くんが今まで私の事を応援してくれていたのは嬉しかったし、感謝している。おかげでスペインで幼稚園を建てる事が出来たし」



 その報告は素直に嬉しかった。高校生だった時から聞いていた沙耶の夢。だったら俺はもう用済みだった。それに既に叶っていた沙耶の夢を誰にも知られずに絵馬に願っていた事が、突然恥ずかしく思えてきた。



「そっ、そうか。良かったな、おめでとう。それじゃ俺、行くとこあるから」



 俯きながら逃げるように去った。なんて惨めで無様な男なのだろう。情けない、本当に情けない。恥ずかしさと申し訳なさが綯い交ぜとなって、複雑な気持ちになる。



 階段を下り鳥居を抜けて大通りに出ると「ちょっ、ちょっと待ってよ」と呼び止められた。足を止めて振り返ると沙耶が近づいてきた。 



「はぁ、はぁ。ちょっとまだ、話終わってないから」



 こういう所も何だか男として情けない。すっかり変わってしまった俺の性格は、同年代の女性とまともに会話も出来なくなっていた。これじゃあまるで中学生の恋愛と一緒じゃないか。



「さっきの話の続きだけど……今度は私が翔平くんの事を支えていきたいの」



 沙耶の言葉が胸に突き刺さる。胸に刺さっても痛みや想いまでは、今の俺に届かない。きっと以前の俺なら泣いて喜ぶ言葉だと思うが、今の俺は違った。



 俺は歳を重ねてしまった。歳を重ねて理性や倫理観が成長して、現実を見てしまう。きっと沙耶は久々の再会に気持ちが昂っているのだろう。



 一時の感情で決断してしまったら、また沙耶を傷つけてしまう。もう二度と沙耶を傷つけてはいけないから。



「もう俺はあの時とは違うし、今の俺と沙耶では釣り合わないだろう? 沙耶の方が圧倒的に社会的にも成功しているんだから。それに他に男だって──」



 一瞬、目を離した隙に乾いた音が大気を切り裂いて響き渡ると同時に、左頬に衝撃と痛みが走った。



 目の前に立っている沙耶の顔は、歯を食いしばり苦悶に満ちた表情を浮かべながら、潤んだ目で俺を睨みつけている。振り下ろした右腕から沙耶に平手打ちをされたと認識した。



 呆気にとられている俺に「もっと自分の事を大切にしなよ? いつも人の事ばっかりでさ。そうだよ、初めて会った時からそうだったじゃん。いつも私のことばかり心配したり励ましたりしてさ」と口を尖らせながら愚痴り出した。



「かっ、勘違いするなよ? 俺はお前の事を想っているだけで自分の事を大切にしていない訳じゃ──」



「だったら私だって同じ事していいでしょ? どうして翔平くんだけ許される訳? おかしいじゃない?」



 開いた口が塞がらない。呆気に取られてしまった。それは余りにも俺の知っている沙耶とかけ離れていたから。



 ここまで自分の意思を主張する女性だっただろうか。初めて沙耶に会った時、沙耶は精神が弱くて、まるでリスのような可愛いさを持っていた。



 周囲の意見に流されやすくて、本音を上手く他人に伝えられない不器用な女性。だから俺は出来るだけ沙耶が進みやすい様に客観的な事実を基に、沙耶が進むべき道を後押ししていたつもりだった。それが沙耶にとって必要だと思ったから。



 会わない間に強くなったんだ、沙耶は。俺を見つめている瞳には、まるで今まで経験して得た様々な感情が滲んでいる気がした。



 今までいくつもの理不尽な要求、不条理な対応を強いられてきたのだろう。少しだけ沙耶の成長に寂しい気持ちと安堵な気持ちが胸の奥で混ざりあい、複雑な感情になっていた。



「私は翔平くんと一緒にいたいの。これは私の我儘だし、決定事項だから……いい?」



「ふっふっふ。あっはっはっはぁ」



 心の底から笑みが溢れた。勝手に沙耶の人生の一部を担っていた気になっていた。ここまで言われるのであれば、もういいのかも知れない。沙耶は充分、今まで頑張ってきたんだ。



 こんなに晴れやかな気分はいつ振りだろうか。清々しい気持ちと一緒に風が吹き抜ける。空を見上げれば、まるで俺の気持ちを表現するような雲一つ無い青空が広がっていた。



 今度こそ、この決断を間違えずに沙耶を傷つける事をしない事を誓おう。 



「……わかったよ、わかった。お願いするよ」


 

 お手上げ状態な俺の答えに明らかに沙耶の表情が一変して晴れやかになった。そうだ、沙耶はこんなに明るくて煌びやかな笑顔が似合う女性だったんだ。



「よかった。やっと私が知っている翔平くんの顔に戻った。さっきまで酷い顔だったよ?」



「沙耶は前よりも逞しくなったよな」



「そう? 翔平くんが弱くなっただけじゃないの?」



 俺はずっとこんな時間を過ごしたかったのかも知れない。互いに冗談を言い合って笑い合う時間を沙耶ともう一度、過ごしたかったんだ。



「おかえり、翔平くん」



 沙耶が右手を差し出した。この手を掴めば、俺はもう一度人生をやり直す。沙耶と一緒ならきっと出来るはずだ。



「ただいま」



 沙耶の手を握り締めた。この手を離さないと心に誓って。



 その瞬間、俺達を包み込むように再び風が吹き抜ける。沙耶の前髪が乱れると、俺は握っていた右手を解いて沙耶の前髪を掻き上げる。



 少しだけ不安そうな表情を浮かべる沙耶に、そっと顔を近づけて九年振りにキスをした。

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