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『暮色に包まれた中で四季咲きのような恋をした』第3話

【2004年】     
  

 街路樹の葉先が色づき始め、季節は暑苦しさの記憶だけを残して移り変わる。



 相変わらずの不景気が続いて、慢性的な活気づかない不動産市場に苛立ちを覚えて、四苦八苦しながら営業活動を続ける日々だった。



「ごめんください、失礼します」



 店でパソコンと睨めっこしていると野太い声が聞こえてきた。濃い紺色の上下ストライプのスーツを来た男性が店の入口に立っている。



 長髪オールバックの武装髭を生やした三十代半ばくらいの清潔感より野暮ったい印象を覚えたが、この男は同業者だと直感が働いた。自社で取り扱っている物件の客付を依頼しに物件の紹介に来た、そんな所だろうと脳内で完結したので、再びパソコンに向き直った。



 俺が日々行なっている事なだけに、あの男と自分を重ねてしまう。こんな田舎の不動産会社に一般客は決して多くはない。だからそんな営業をかけられても無用だと、あの男に伝えたい。事務員の吉江さんがデスクからそそくさと立って男性の元に駆け寄った。



「買取のご相談がありまして。弊社で取り扱っている物件があるのですが」



 俺が座っているデスクから十メートルくらいしか離れていないから、二人の会話は丸聞こえだった。今は俺と吉江さんしかいないから必然的に俺が対応するしかいない。吉江さんが応接間に男を案内すると、デスクの引き出しから名刺を取り出して、男の元に向かった。



「初めまして。営業の山本と申します」



 名刺交換をすると受け取った名刺をまじまじと見る。社名は株式会社エスタファ。住所は東京都杉並区。聞いたことがない社名だった。



「珍しい苗字ですね……親父祖京介さん?」



「合っています。おやふそきょうすけと申します」



 柔和な笑顔を見せながら、激しい身振り手振りで答えた親父祖の第一印象があまり好きになれなかった。



 恐らく、これがいつもの掴みのトークなのだろう。話の口火を切るには、自分の珍しい苗字をネタにするには最適だと思う。ただ嫌な印象に拍車をかけるのは、粘着質な関西弁混じりの話し方。これが妙に鼻につく。



「社名から推察すると山本さんは、社長の息子さんとかですか? お若いのにしっかりされておりますね」



「えぇ。社長は父ですが今は不在なので、私がお話を聞いて社長に相談します。買取案件があると先ほど伺いましたが」



 さっさと本題に入ってもらいたいので、話を促した。



「あぁ、そうでしたそうでした。すっかり話が弾みましてすんませんでした」



 親父祖は思い出したように鞄の中を漁り出してクリアファイルを取り出すと、いくつかの物件資料を見せた。



「御社のすぐ近くで今、土地区画整理事業をやっておりますでしょ? そこの何区画かを御社で買ってもらえないかと思いまして」



 見せて来た物件の場所は俺も知っている場所だった。現在、大規模に造成工事を行なっている場所。区画は知っている限り数百、いや数千を超えて、工事が完成すれば様々なハウスメーカーが参入してくるだろう。


  

 一般的に土地区画整理事業の事業者は法人が多い。換地処分と言われる土地の切り売りが終わってからでないと、これだけの規模は現実的に話は進められない。相談を受けた区画は、事業地内でも換地処分が終わっている区画で約二千平米。一区画が約五十坪の合計二十区画分だった。



「ここは個人が持っているんですか? 法人ではなくて?」



 すると、土地登記簿謄本や換地図などの資料を差し出して来た親父祖。見れば同一名義の個人が持っていた。所有者の住所は杉並区。これで少しは話が見えてきた。



「所有者は弊社の代表と懇意にしているんですが、温情をかけて売買契約をしたんです。あっ、ちなみにまだ決済はしておりませんので、中間省略で買ってもらえる会社をこうして探してるんです」



 決済、つまり代金支払いや所有権移転する前に第三者に売って手放そうとする中間省略は業者間では多い。要は中間省略が出来れば登記費用など諸費用は経費として浮く訳で、その分、実入りも多くなる。



「御社が売主と交わした契約書は確認できますか?」



「……ええ、もちろん」



 契約書には先月交わした日付が記載されていた。契約金額などは黒く塗り潰されている。当然、いくらで買ったのかは隠されていた。



 要は親父祖側が行いたい事は、この二十区画を付き合いで買ったはいいけど、さっさと転売して楽になりたいっていうのが本音なのだろう。不動産業者間ではよく聞く話だった。



「それで、いくらが希望なんですか?」



 俺が核心を突いた事を尋ねると、一瞬だけ親父祖の口元が吊り上がったのを俺は見逃さなかった。



「五億です」



 一区画が坪五十万。それが二十区画あるから合計五億。いくらで買ったかは知らないが、随分と吹っかけてきやがった。やはり俺は、この男が苦手だ。



「随分、高いですね。流石にその規模だと、うちみたいな小さな会社では難しいかと。それにいくらで買ったか知りませんが、坪五十は流石に無理ですよ。うちが仮に買ったとして、いくらで転売する事になるんですか? 買い手がつく訳がないですよ」



「そうですか? あれだけの規模の分譲地はなかなかないですよね? 内房線が出来て新しく駅が出来ればそれだけ価値も上がるかと。それに東京湾アクアラインが出来て、都内や近郊から移住者はこれから増えるはず。これから商業施設が出来て学校も出来る話は聞いております。そうすれば市場はもっと活性化されますよね? それなら五億は決して高くはないかと思いますよ」



「でしたら御社が売らずに販売すればいいじゃないですか?」



 わかりきった事を淡々と話しやがる。この親父祖の甲高い声が耳障りになってきた。



「いやいや、流石に杉並で会社を構えている私達としては、販売するにはあまりにも遠いです。それに営業は私しかいませんから、これだけの区画を私一人では捌ききれませんよ」



 これもよく聞く話だった。薄利でもさっさと消化して回転よくしたいのが本音なのだろう。県外の自社物件が売れずに塩漬けになる事が一番怖い。



「流石に即決は出来ませんので、社長と相談して後日ご連絡でよろしいでしょうか?」



「ええ、構いません。ただ、こうした事情がありますので御社以外にも数社に声はかけております。その中で良い回答を頂いた会社様に売りたいと考えておりますので、お早めに回答を頂ければと」



 また気味の悪い笑顔を向けてきた。この余裕が垣間見える不敵な笑み。きな臭さが抜けないまま、親父祖を見送った。



 夕方に外出から帰ってきた父親であり社長の健一郎に買取案件が来た事を相談した。事の経緯と親父祖から写しをもらった物件資料を見せながら社長室で報告する。



「……お前はどう思った?」



 向かいのソファーに足を組みながら物件資料片手に紙タバコを吹かしていた。仕事中は父親と息子との関係ではなく社長と従業員との関係で過ごすようにときつく言われている。尤も仕事以外の時間で会うことはほとんどなく、住まいも別々。俺はアパートを借りて一人暮らし。社長はこの会社の上に住んでいる。



 六十を過ぎた昔ながらの古い人間。頑固で意固地。言葉遣いも荒く、ヘビースモーカー。さらに酒癖が悪い、短気な男。それもあってかいつも血色が悪く、目に覇気がない。中肉中背で髪も若々しくない。これらは日頃の不摂生が影響しているのは間違いない。だから父親としても社長としても好きではなかった。



「悪くはないと思います。将来性がある物件だし、ハウスメーカーや建売業者に転売してもいいし、仲介でも売り切れるかと。ただちょっと気がかりな点が二つほど」



「……何だ?」



 鋭い視線が向けられる。いつもこうだ。相手を見下す下品な目。俺は前からこの目が嫌いだった。ふんぞり返った横柄な態度に嫌気が差す。



「一つは価格について。五億は高過ぎです。坪五十万は買取価格ではなくて、一般売りの価格だと思います。もう一つは先方の担当者です」



「……あぁ、こいつの事か?」



 親父祖の名刺を手に取って眺める社長。



「はい。どうもきな臭いと言いますか、怪しくて。果たしてこの案件に乗っていいのかどうか」



 親父祖の甘ったるい香水の匂いが、鼻腔に染み付いている気がする。それに社長とは違う、蛇のような嫌らしさを感じる目が気になっていた。



 あれは人の足元を見ている、そういう目だった。他社を訪問した際に時々見る、腹の底が見えないタヌキのような人間。あの男はその類の人間だと直感が働く。これは経験則からの判断だった。



 それでも、この不景気の時代に買取相談があれば、社長に相談しない訳にはいかない。だから仕方無く報告した。



「……全く、お前はそういう思い込みが強い所があるのがいけないな。この業界にはいくらでもいるだろう、そんなやつ。狸のくそジジイ。すっとぼけのババア。言う事を聞かない客。融通が効かない役所の人間。そんなやつを相手に俺がどれだけやってきたと思っているんだ?」



 あんたもその中のくそジジイの一人だよと腹の中で呟いた。それから俺の嫌いな過去の自慢話が始まった。何百回は聞いた、土地を安く仕入れて儲かった話。その金で高級車を買って乗り回した話。誇張話に尾ひれが付いて、誰もその話が真実なのかわからない、無駄に長い昔話を聞く度に、過去の誇らしかった自分を見せることでしか、強く見せられない父親。



 どうしてこの年代の大人達は足並み揃えて同じ話しかしないのだろう。話した事を忘れ、何度も初めて話すような口振りで語り出す厄介で面倒な存在。



「金については俺が何とかする。明日、朝一で佐野さんに会いに行ってくるぞ」



 佐野さんは会社が懇意にしている地方銀行の融資担当者。社長は話は終わりだと言わんばかりに立ち上がって立ち去ろうとする。このままでは本当にまずい。胸騒ぎしかしない。かといって自分がこの案件を相談してしまった責任もある。



「あの、本当にいいんですか、話を進めても。まだ詳細の確認や調査はしていないですよ?」



 立ち去ろうとする社長の背中に向かって、念を押した。これだけでは止まらないのが、俺の知っている社長。どうせ何を言っても無駄だとわかっているのに、良心が痛み出して、つい口が滑る。



「俺はこんな美味しい話はないと思うがな。それに、こういう話は早く結論を出した方がいいんだ。まぁ、お前はまだ経験が浅いからわからないだろうがな」



 一蹴するように豪快に笑い飛ばして出ていく社長。だったら初めから俺の意見なんて聞く必要がないじゃないか。いつも俺を試すような上から目線と過去の栄光や自慢話ばかり。



 そっちがそういう動きをするなら、この案件は社長に丸投げしようと思った。好き勝手にすればいい。俺は念を押したし、何があっても悪くはない。



 それから社長は銀行からの借入が何とか上手くいったようで、親父祖としきりに連絡を取っていた。俺には報告の話をしてこないが、電話の内容から推察すると他の会社から買い上げの話があったらしい。要はオークション形式に突入したという事だ。どっちが五億からどれだけ高い金額を親父祖に提示出来るかが勝負となってくる。



 ただ結局、この話すら本当かどうか確かめようがない。売主側の匙加減でいくらでも話は作れる。俺も似たような事はやった事があるが、それはせいぜい数十万、いって百万だ。あと少しの色をつけるなり、例えば家具家電を撤去する費用を負担するなど、決め手となる材料をちらつかせる駆け引きをする程度。それが間に入っている仲介会社にとって売主へのパフォーマンスとなって良い顔が出来るからだ。ただ今回の場合、価格が価格だけにその程度では済まないだろう。



「ごっ、五千万だと?」



 社長は電話の向こうで、恐らくほくそ笑んでいるだろう親父祖の言葉に驚いていた。察するに五億ではなく五億五千万で話を終わりにしようじゃないかと提案が親父祖からあったのだろう。その後もああでもないこうでもないの押問答があって引くに引けなくなった社長は少し時間をくれと言って電話を切った。



「社長、いい加減にこの案件から手を引くべきです。あまりにもリスクが大き過ぎます」



 言葉には出さずとも事務員の吉江さんだって不穏な空気を感じているはずだ。横目で吉江さんを見ると浮かない表情だった。社長だってそれはわかっているはずだ。だからそんな険しい顔をしている。



「この物件を仕入れる事が出来れば、会社だって景気が良くなるはずだ。商品さえ出来ちまえば、あとは高く売っちまえばいい。それだけの事じゃねぇか」



 まるで自分に言い聞かせているように聞こえた。確かに二十区画完売すればいいが、果たしてそれが可能かどうか。あまりにも原価が高過ぎて売り出し価格が相場と異なり過ぎて物件が塩漬けになりかねない。ここは頭を冷やして冷静に判断をするべきだ。このままではただ大きな借金を背負う事になる。



「だからそれが、リスクが大きいって言っているんです。ハイリスク、ローリターンです」



「じゃあお前に聞くが、これに勝る物件情報が他にあるか、ないだろう? だったらお前はこの件に関して口を出すな。さっさと業者訪問でもして、他の案件を持って来い」



 そう言って社長室に入って行った。駄目だ、完全に頭に血が上っている。周りが見えていない。どうしてこんなに意固地なのだ、この社長は。聞く耳を持たない状態。



 きっとプライドが邪魔をして、引くに引けないんだ。自分のデスクに戻る最中、吉江さんと目が合うと軽く謝罪の意味を込めて会釈した。この日は帰るまで吉江さんの顔が晴れる事はなかった。



 翌日、何をどうしたのかわからないけれど、社長は佐野さんと追加融資の五千万円をまとめたようで嬉しそうに親父祖に連絡していた。それに応えるかのように後日、売買契約書などの書類が親父祖から郵送された。話がまとまった事に満足した社長は契約書類には興味がないようで俺に契約書類の中身を確認するよう丸投げしてきた。



 どこか怪しい点がないか血眼になって契約書の中身を確認したが、怪しい点は全くなかった。本当に俺の杞憂だったのではないのか。もしかしたら本当にあの親父祖は、ただ買取の相談に来ただけだったのか。書類の確認を終えて社長に報告に行った。



「問題なかったんだな?」



「……はい、特に何も」



「契約書に印鑑押して、これを一緒に返送しといてくれ」



 渡されたのは会社の印鑑証明書や会社謄本などの書類だった。同封されていた返信用の封筒が二つあった。一つは親父祖側。親父祖には契約書類に社印を押印した一部を返送。



 もう一つは親父祖が指定してきた司法書士事務所。会社の登記手続きに必要な書類を郵送する為の分であり、司法書士事務所用の返信用封筒に印鑑証明書等を入れた。これで契約完了。社印を押して書類を揃えると二つの封筒を吉江さんに渡して投函するように伝えた。



「……本当に大丈夫なんですか?」



 受け取った封筒をまじまじと見て心配そうに尋ねてきた。俺だってどう転ぶかわからない。俺の思い過ごしと言ってしまえばそれまでだし、何も確証がある訳ではない。



「わかりません。ただ、もう引き返せないですよ」



 何も起きないことを祈る日々が続いた結果、代金の振り込みや所有権移転をする決済を終えた。支払いを終えて銀行から帰ってきた社長は上機嫌だった。



「さて、翔平? 早速、販売準備に取り掛かってくれ。一区画、三割乗せで業者訪問してこい。未公開物件だからな、さっさとう売っちまえ」



 いくら仕入れの諸費用があるからといって、相場が坪五十万なのに販売価格を三割乗せしたら坪七十万を超える。つまり日当たり等の道路付けを考慮しても一区画、三千七百五十万は高過ぎだ、売れる訳がない。ハウスメーカーで一般的な三十坪の建坪を建てたら土地と建物合わせて七千万は超える。



 案の定、販売図面を作成してハウスメーカーや同業他社に飛び込み訪問しても、見向きもしてくれなかった。最初は未公開という言葉に興味を持ってくれたが、いざ販売価格を伝えると急に相手にされない。そんな日々を過ごしながら決済を終えて一ヶ月が経った頃にある疑問が湧いてきた。



「吉江さん、この前仕入れた土地の権利証って司法書士から届きました?」



 通常、不動産売買契約を終えて、決済つまり代金支払いを終えた後に契約書に基づき司法書士が法務局に所有権移転登記申請を行う。その間、登記簿は閉鎖、つまり登記簿の内容を書き換える作業に入り、その登記手続きを終えると、新しい所有者の名前が登記簿に記載されて司法書士から権利証が郵送される。それを以って不動産売買契約は完了となるのが通例だが、権利証がまだ届いていなかった。



「いえ、私は知りませんけど。社長が持っているんじゃないですか?」



 この胸騒ぎを感じたのは、親父祖に会った以来だった。結局、一人で最後までやった訳だから社長が持っている可能性はある。社長は外出中だから直ぐに電話をして確認すればいいだけの事。電話で権利証は俺が持っている、くだらない電話をしてくるんじゃねぇとど怒鳴なれれば、それで済む話。



 だけどもし、社長が権利証を持っていないと言ったらどうなるのか。司法書士事務所の連絡先を知らないから俺が確かめようがない。



 一つの最悪な結末が脳裏を過ぎった。それは考えられる中で、最も悲惨なシナリオ。バッドエンドは映画の中だけにしてほしい。時刻は十六時を回っている。今から出ればギリギリ間に合いそうだった。



「ちょっ、ちょっと吉江さん。俺、法務局行ってくる」



 俺の思い過ごしならそれでいい。概ね、一件の登記手続き完了には、二週間くらいかかる。二十件の登記手続きがある訳だから通常より時間がかかっていて、まだ登記が完了していないから、権利証が司法書士から送られてこない可能性はある。



 だけれども最悪のシナリオが脳内に貼り付けられていて頭から離れない。脳内の警鐘は法務局に近づくにつれて大きくなっていった。



 営業時間ギリギリに最寄りの法務局出張所に着いて、登記閲覧申請書に契約した住所、地番を二十件分書くと窓口に持って行く。受付の中年女性は、営業終了時間ギリギリに来た俺に対してあからさまに面倒臭そうな対応をした。番号札を渡されて、椅子に座り手続き完了を待った。



 通常、登記手続き中ならば閉鎖されていて登記簿謄本は取得出来ないはず。だから登記閲覧申請書を二十件分書いて申請しても、閉鎖されていて取得出来ませんと受付の女性の塩対応が望んでいる結果だった。



 普段より長く時間を待たされて貧乏揺すりが止まらない。二十件分の確認をする訳だから時間を要するのは当然だが、閉鎖されていて取得出来ないなら、もっと早く番号が呼ばれてもいいのではないかと思った時、俺しかこの場にはいないのにご丁寧に番号を呼ばれた。



「……お待たせしました。こちらをご確認下さい」



 目の前に出されたのは二十件分の土地登記簿謄本だった。



「……嘘だろ」



 襲ってきたのは、強大な絶望と落胆だった。土地登記簿謄本取得出来てしまったって事は登記簿の内容が変わっていないという事。現に、親父祖から最初に見せられた登記簿の内容と全く同じだった。所有者欄にうちの会社名は記載されていない。



 通常の流れでは不動産売買契約に基づき決済、つまり代金等を支払った後に司法書士が売買契約書に基づいて、登記簿謄本の内容を旧所有者から新所有者に所有者変更手続きを行う。



 登記簿というのは所謂、第三者に対してその不動産を持っている事の証明書のようなものだから、これでは売買契約が成立しておらず土地の引き渡しは完了していない事になり、ただ親父祖に五億五千万を振り込んだだけ。



 急いで社長に電話をしたが繋がらず、怒りが込み上げてきた。当然、この事実を社長は知らないだろう。なんて事をしやがったんだ、あのくそ親父は。



 息つく暇もないまま会社に戻って社長室に飛び込んだ。すると呑気に煙草を吹かしてテレビに釘付けになっている社長が目に飛び込み、さらに頭に血が登った。突然、飛び込んだ俺に珍しく親父は驚いた様子を見せた。



「あんた、この事実に気付いているか?」



 これまでの経緯を焦らず落ち着いて説明すると、事の大きさを理解したようで直ぐに親父は司法書士事務所に電話をすると、無機質な、この電話番号は現在使われておりませんのアナウンス。慌てて親父祖の名刺を探し出して電話をしても同様だった。完全に詐欺だということが確信に変わった瞬間だった。



 普段の親父ならば物に八つ当たりをしてゴミ箱やら何やらを蹴り飛ばすのに、今回ばかりは肩を落として事の重大さを噛み締めているようだった。こんなに落ち込んだ親父を見ていると、重苦しい空気が張り詰めて、互いに言葉を発せない。



 何から手をつければいいのか、頭と気持ちの整理が出来ずにいる、そんな感じだった。次第にこの状況を客観的に考えるようになり、直ぐに警察に相談をするべきだと思ったが、無様な姿の親父を見て何とかしたい、何かしなくちゃいけないと思えてきた。



「今から奴らの所に行ってくる」



 親父祖の会社と司法書士事務所の住所は同じ杉並区内。本当に奴らの拠点があるのかどうか、この目で確かめてみたい。



「止めとけ、時間の無駄だ」



 いつものような力強い声ではなく、弱々しい声に親父のダメージ具合が測りとれた。声に覇気を全く感じられない。



「もしかしたら俺達の壮大な勘違いかもしれないだろう? 電話が繋がらない事だって何かの間違いかもしれないし」



 自分で言っていて情けないくらいだった。一縷の望みを抱いてもいいと思える状況。もしかしたら余計に衝撃を父親に与える状況になるだけなのかもしれない。それでもこのまま何もしないでいるのは耐えられなかった。



「……行ってくる」



 父親の制止を振り切って社用車に飛び込むと車を走り出せた。京葉道路から東関東自動車道を進み、首都高速に乗る。道中、これから先、俺の人生はどうなるのだろうと漠然とした不安が襲った。


  

 父親の前では明るく言葉を発したが、恐らく警察に被害届などを出しても五億五千万は返ってこないだろう。返ってこない金の支払いを融資担当者の佐野さんに相談した所で、支払いが止まることはないに違いない。ただでさえ余裕のない経営に返済の見通しが立たない状況に再び、別の最悪な結末が脳裏を過ぎると大きな溜息が溢れた。



 幡ヶ谷出口を降りて、一般道を進むと親父祖の名刺に書かれた住所に到着した。そこは三階建の古いアパートだった。部屋番号は一〇二号室。集合ポストには会社名も書かれていない。インターフォンを何度か鳴らしても出てこないので隣室を尋ねると、ドラマに出てきそうな世話好きそうな年配の女性が出てきた。簡単に事情を伝えると、一○二号室は二年間は空室という事がわかって、何となく予想していた事が明確になった。



 次に司法書士事務所に向かおうとしてナビを入力すると、ここから十分ほどの距離だった。到着して早々にはっきりした。そこは、空地だった。住宅街の中の一角。百坪はあるだろう空地で街灯に照らされても分かるほど、草が生い茂っていて、月日の経過を感じた。親父祖の事務所と一緒で恐らく俺が送った郵送物は転送届けをしていたのだろう。 



 完全に詰んだ状況になった。高まる親父祖に対する疑惑と怒り。並行して俺達が置かれている状況は絶望が強まった。それでも道中で思い立った事を行う為、登記簿に書かれた所有者欄の住所に向かった。ナビを入れると、ここから車で十分程度。



 住宅街から離れて田畑が目立ち始め、舗装されていない道を進み、幾つかの交差点を曲がると、前方に武家屋敷のような大きな邸宅が見えてきた。少し離れた所に車を停めて歩いて向かう。表札には登記簿の所有者欄と同じ苗字、塩ノ谷と書かれていた。今度は間違いなさそうだった。



 ここまで来たのは一つの可能性を見出したからだった。親父祖達に騙された事は法の手続きに則ってやるにしても、まだ金銭的な問題がある。それは五億五千万の借金の件だ。もし仮に所有者である塩ノ谷が今回の件に関与していなくて、塩ノ谷が全くの身に覚えのない話だとすると、一つの案が生まれる。



 それは塩ノ谷と土地を売り出す事だ。恐らく、親父祖が最初に見せた塩ノ谷との契約書は俺達を騙す為の偽物なのだろう。それならば本当に今回の二十件の土地を売却する事が出来れば、例え坪七十万で売れなかったとしても佐野さんから借りたお金の返済に充てる事が出来る。塩ノ谷に事情を話して売却の合意をもらえる事が出来れば、少しは希望が見えてくるのではないかと考えた。



 建物には灯りが灯っているので、誰かはいそうだった。大きく深呼吸をしてインターフォンを鳴らす。暫くすると遠くの玄関から女性の明るい声が聞こえてきた。出てきたのは四十代くらいの膨よかな白いジャージ姿の女性だった。俺は頭を下げて簡単な経緯を伝えた。途中、登記簿謄本を見せながら説明をすると話を理解してくれたのかどうかはわからないが同情の言葉を向けられた。



「それで突然で大変恐縮ですが塩ノ谷太郎さんは、ご在宅でしょうか?」



 本題に切り込むと、その女性は頭を触りながら苦笑いを浮かべた。その瞬間、嫌な予感が働いた。



「塩ノ谷太郎は私の父親だけど……一年前に癌で他界しましたよ」



「……えっ?」



 衝撃で次の言葉が出てこない。流石に予想していなかった事実。続けて「あれでしょ? 相続登記って言うんでしたっけ? あれをやっていないからまだ父親の名前が残っているんですかね?」と女性は俺の事情はお構い無しに、まるで他人事のように話し始めた。



「えっと、失礼ですが娘様は他にご兄弟や姉妹はいらっしゃいますか?」



「えぇ。私入れて六人。私は三番目の娘で上に長男と長女、それで私が次女で、下は次男と三女と四女がいますけど」



「それで亡くなられたお父さんの遺産についてお話しとかはされているんですか?」



 すると女性は大きな溜息をあからさまに溢した。まるで面倒臭い業者に捕まったと言わんばかりの態度を隠そうともしない。こっちの事情を理解しているなら、もう少し大人の対応をとって欲しい。込み上げる怒りを腹底に押し潰していた。



「みんなバラバラに住んでいて結婚して子供がいるから、なかなか会わないのよね。だから全然話していないのよ。遺言状だっけ? お父さん残していないしさ」



 少なくとも六人も推定相続人がいれば司法書士を交えて遺産分割協議書を作成するのも時間を要するだろう。次第に俺が抱いていた希望の灯火が徐々に小さくなっていく。



「あと、私こう見えてバツ二なのよ。それでこうして実家に戻って来ちゃっているのよ、これが。あっはっは」



 聞いてもいない事をペラペラと喋り出す。妙にその喋り方が鼻についた。加えて塩ノ谷太郎の妻は施設に入っていて、認知症らしい。そうなると塩ノ谷の相続手続きはさらに困難を極めそうだ。



 通常、遺言書などがない場合は、司法書士が間に入って遺産分割協議書を作成して塩ノ谷太郎の財産分割を話し合い、それに従って相続登記を行う事が通例だ。



 俺が頭を悩まして黙り込んでいると「あの、もういい? 夕飯時で子供もいるからさ」と家の中に帰って行った。



 車に戻ると八方塞がりの状態に大きな溜息が溢れた。塩ノ谷太郎の相続登記は恐らく、長い月日を要するだろう。相続登記が完了しなければ、売却は困難だ。それが塩ノ谷太郎が亡くなって一年以上経っていて、子供が六人いて皆バラバラの場所に住んでいるのであれば、遺産分割の話し合いが円滑に進むとは思えない。



 恐らく、あの二十区画の土地以外にも財産を持っているだろう。概ね、遺産分割協議書を作成するのに数ヶ月は要する。そんな状況であれば、俺が必死で考えていた事は全て水の泡となった。



「くそったれぇぇぇーーー」



 車内に響き渡る自分の声が無常にも反響した。



 この塩ノ谷太郎の事実は、単に絶望的な状況を強めただけだった。


※※※


 バブル崩壊後の就職氷河期と呼ばれている私達世代にとって、苦難の日々が続いていた。


  

 不景気を理由に企業側は新卒採用を絞り、求人倍率が下がっている。企業側にとっては銀行から十分な融資を得られなくなった事が大きな原因だと聞くが、それが理由となって社会全体が常に曇り空のような曇天となっている気がする。



 最近では正規雇用、非正規雇用などの言葉を耳にする事が増えてきた。大学の友人達は正社員で働ける所なら別にどこでも構わないと言うけれど、就職活動を始めた当初は、私の価値観にそんな考え方はなかった。



 夢を叶える為に建築学科に入って建築を学んできたのだから、多少譲歩しても建築関連の会社には就職したいと考えている。最初の数年は会社で基礎知識と経験を学んで、いずれ独立する。



 それが夢を叶える最短ルート。だから大手建設会社から設計を中心に仕事が出来るハウスメーカー、様々な会社の試験を受けてきたけれど、全て全滅の結果。狭き門を潜るライバルに負けて、改めて上には上がいると痛感した。



 慣れないリクルートスーツとパンプスを履いて足や肩、腰に疲労が溜まった状態で帰宅する。そのまま、ベッドにダイブして全身を預けて、気の抜ける吐息を大きく吐く。漠然とした将来に対する大きな不安と焦り。何のために母親に無理を言って東京の大学まで来て、翔平くんを始め周囲の期待を背負って、頑張ってきたのだろう。



 自分は悪くない、悪いのは日本という今の社会全体が悪いんだ。私は悪くないと正当化出来るほど力はないし、そんな主張をするほどの気力も無くなった。そうでも考えないと自分自身が押し潰されそうで怖かった。



 確かな事は、このまま不貞腐れて、今まで頑張ってきた事が無駄になって、下がった自分の存在価値を嘆きながら惰眠を貪る生活だけは送りたくなかった。



 そんな答えの出ない堂々巡りが脳内を駆け回っていると、携帯が鳴った。この着信音は翔平くんからだった。いくら翔平くんからの電話でも今の私にはベッドから立ち上がってすぐに机まで駆け寄る気力がない。



「ごめんね、翔平くん。折り返しするから、ちょっと待ってて」



 そう呟いてもう一度、枕に顔を埋めたけれど、着信が切れる事はなく鳴り続ける。ちょっと珍しいなと思ったので、気力を振り絞って携帯が置いてある机まで辿り着いて携帯に手を伸ばした途端に着信が止まった。まるでどこかで翔平くんが私を見ているかのようなタイミングで。



 画面を確認するとやっぱり翔平くんだった。最近は電話よりメールで連絡を取り合うことが多いから、こんな夜に電話がくるのは珍しい。直ぐに折り返しをすると翔平くんは電話に出た。



『ごめんな、遅くに』



「ううん、大丈夫。どうしたの、何かあった?」



 翔平くんの声は沈んでいた。翔平くんの吐息が漏れて伝わってくる。机の上に置いてある、クリスマスに翔平くんからもらった木箱に収まったステンドグラスのコップが視界に入る。せっかくもらったけれど使えずにいて、今では蓋をせずにこうして飾って置いてある。



『……ちょっと沙耶の声が聴きたくなってさ』



 言葉に詰まりながら話す翔平くんに、確信を持って何か翔平くんの身にあったと思い始めた。無理やり言葉を探して、私の問いかけに言葉を返したような気がする。



 翔平くんは前から愚痴を溢そうとしない。いつも自分より私の心配ばかりしている。そんな翔平くんが私に、こんな電話をしてくるのは相当な悩みや出来事があったに違いない。私は様子を見る事にした。



『そっちの調子はどうだ? 今、就職活動中だろう?』



「全然、上手くいってないよ。どこも全滅」



 そこから他愛もない報告をした。次第に話していたら話に熱を帯び始めて、愚痴を翔平くんに溢した。先日ハウスメーカーの集団就職面接に行った時に面接官にいやらしい目で見られた事や夢について質問されたので正直に話したら、それなら弊社じゃなくて海外に行ってみたらどうですかと鼻で笑われた事を話すと翔平くんは大笑いした。



『まぁ、色々ありそうだけど、沙耶なら何とかなるんじゃないか?』



「そうかな。そうだといいんだけどね」



 私一人が苦労している訳じゃなくて、同世代のみんなが苦労している事。狭き門を潜り抜けて、熾烈な戦いをする競争心を強く持っていない私が、果たして勝ち抜く事が出来るのだろうか。



 連日の精神を擦り減らした就職活動のせいで、自分の夢を叶える為に、果たしてこの戦いは本当に必要なのかと考えるようになった。もしかしたら他に方法があるんじゃないか。じゃあ、その方法は具体的にあるのか。そう尋ねられたら、すぐに答えを出せない自分が辛くて悲しかった。



「それじゃあ、今度は翔平くんの番だよ。何かあったんでしょ?」



 気を取り直して翔平くんに尋ねた。そろそろ話してくれても良いような気がしたから。



『……沙耶には敵わないな』



 翔平くんは言葉を詰まらせた。きっと電話の向こうで気持ちの調整をしているんだと思う。翔平くんの顔が容易に浮かんだ。



『俺、そっちに行っていいかな?』



「……えっ?」



 それは流石に予想出来なかった。翔平くんの提案はそれだけ衝撃だった。



『俺さ、そっちに行って転職して沙耶と一緒に暮らしたいんだ』



『会社は? 翔平くんの会社はどうするの?』



 私の問いに翔平くんは再び、言葉を詰まらせた。あれだけお父さんと切磋琢磨してきた会社を翔平くんが簡単に離れるとは思えない。



『……暫くは親父に任せようと思う。ほら、こっちは客が集まらないから景気がずっと悪いんだ。それにこっちより、そっちの方が不動産の単価は高いし、稼げるだろう? そっちで働いている司に連絡して司の叔父さんに会って一緒に働くのも考えているんだ」



 突然の提案に私の脳内はぐちゃぐちゃだった。翔平くんと一緒に暮らせるのはすごく嬉しい。でも今の私には心の余裕がなかった。就職活動が上手く行っていない事や将来に対する不安が、翔平くんに対する答えにブレーキをかけている。



『……駄目か、沙耶?』



 翔平くんの優しい声。いつもならこの声に安心や安らぎを抱くのに、今はそう感じない。



「ごめんね。即答は難しい……かな?」



 今の自分にとって精一杯出した答えだった。目の前の机に置かれている木箱に手を伸ばしてステンドグラスのコップを手に取る。翔平くんの想いや熱がコップから伝わってきている気がした。



 あのクリスマスの翌朝、いつかと夢見た事が、現実として叶いそうなのに、今は心が惹かれない。今の私には翔平くんの提案が魅力的に思えない。理由は明白で、今の私が正常じゃないから。



 発した言葉を反芻した途端、壮大な勘違いを与えているかもしれないと焦った私は「勘違いしないでよ? 翔平くんと一緒に暮らすのが嫌とかじゃなくて。ただ、今は自分に余裕がなくて。そんな大事なこと、直ぐには決められないってだけだから」と早口に弁明した。



『……そうだよな。急にそんな話されたって困るよな』



 明らかに落ち込んでいる翔平くん。言葉が見つからなかった私は「本当にごめんね」とその言葉の後に被せるしかなかった。今の私には精一杯の返答だったけれど、心が苦しい。



『悪かったな、また連絡する』



 そう言って翔平くんは一方的に電話を切ってしまった。切れた瞬間に襲ってくる虚しさと悲しさに潰されそうだった。

 


「……あぁ、もう」



 頭を掻きむしって苛立ちを発散させる。こんな気持ちになるのなら、私の答えは間違っていたのだろうか。それじゃあ、何が正解だったのか。翔平くんに嫌われてしまったんじゃんないか。愛想尽かされてしまったんじゃないか。そんな考えが襲ってくると、頭が破裂しそうだった。



「もうー、突然そんな事言われても無理だよ」



 私は小さい頃から器用に何事もこなせるタイプではない。選択を迫られた時だって、その場で決断するんじゃなくて、本来なら時間をかけて考えてから答えを出したいタイプ。



 だから翔平くんからの申し出だって、気持ちとしては嬉しいけれど、今の私は正常に判断出来る状態じゃないし、中途半端な気持ちで答えたくない気持ちもあった。



 だとしても、他にもっと翔平くんを気遣った言い方があったんじゃないかって後悔も湧いてきた。



 悶々とした気持ちを抱えながら、携帯片手に翔平くんに弁明のメールを送ろうかどうかベッドに横たわりながら悩んでいると、いつの間にか眠りについていた。


※※※

         

 日付が変わった頃に杉並区から会社に帰ってきた俺は、親父に全て報告した。



 親父祖と司法書士事務所の場所は出鱈目だった事。登記簿謄本に記載されていた所有者の住所に行くと所有者である塩ノ谷太郎は亡くなっていて、相続登記には時間を要する事。その話を聞いた親父は何も言わず、肩を落として二階の部屋に帰って行った。



 翌日になって意気消沈した親父と一緒に警察に被害届けを提出して、加盟している保証協会に報告した。今後の事態の展開を考慮して親父、美江さんと俺は話し合いを重ねると会社の営業を自粛する事にした。直近の仕事だけを処理して、今後の営業については衛生的に良くないと判断したからだ。



 それから二週間後に親父が倒れて入院した。



 俺が外出している時にデスクの整理で会社に来ていた吉江さんがた倒れた父親を見つけて救急車を手配してくれた。駆けつけた先は孝の父親が理事長をしている、千葉市中央区内の大学附属病院。孝はそこの医学生をしている。



 緊急手術を行い、俺が駆けつけた時に手術を見守っていた吉江さんの顔は崩れていた。跡を引き継いで吉江さんには帰ってもらい、深夜まで続いた手術が終わった。孝の父親で病院の理事長をしている荻野良則と親父が古い仲だと知ったのは、親父の病状について孝から呼び出されて診察室に通され、孝のお父さんから説明を受けた時だった。



「お父さんが薬を飲んでいる所を見た事はあったかい?」



 孝のお父さんは物腰柔らかく、語りかけるように尋ねてきた。何度か孝と遊んでいる時に会った事はあるが、以前の抱いていた厳格な印象より優しい印象を覚えた。恐らく親父と同年代くらいなのだろうが、俺の親父より髪や肌が若々しい。



「……そういえば、食後に飲んでいたような」



 断片的な記憶で鮮明には覚えていないが、会社で出前の蕎麦を食した後に飲んでいたような気がする。



「お父さんは五年前から通院していてね。最初に会ったのは孝が中学校の時に参加した中学校の父親会でね。ゴルフを一緒に回っている時に相談を受けたんだ。最近、眩暈や立ち眩み、耳鳴りがするってね。それから検査を受けてもらうと病名がわかった。エストレア動脈炎と呼ばれる難病だ」



「……エストレア動脈炎?」



「血管に炎症が生じて脳や心臓などの臓器に障害を与える病気だ。初期症状は発熱や倦怠感、目眩や立ち眩み。酷い場合は脳梗塞や失明を引き起こす怖い病気でもある。何らかの感染やストレスを契機に発症すると言われていて、原因ははっきりわかっていない」



 お父さんの横に座る孝が暗い面持ちで俺に説明をした。そんな病気を患っているとは思えない程、日々元気で軽やかに仕事をしている親父だったから困惑を隠せない。



「当時、お父さんに説明をすると治療法がわからないなら入院なんてしないで働かせてくれって仰ってね。医師の立場としては勧められる事ではないけれど、炎症を抑える薬を投与する事にした。一ヶ月前くらいに来られた時は症状が強く出ていたから気にはなっていたんだが」



 苦虫を噛み締めるように苦悶の表情を浮かべている孝のお父さん。治療方法が確立していない病気に医師としての悔しさを抱いているのだろうか。



 俺は二人の説明を聞いているうちに、どこか他人事のような感覚に陥っていた。抱えていた熱が急に冷め始めてきて現実味を帯びず、二人の説明を正面から聞いても頭に入ってこなかった。



「急に倒れられたって事は、最近過度なストレスを受けた事が原因だと考えられるんだ。何か心当たりはないかい?」



 心当たりは、はっきりある。親父祖達の詐欺の件だ。それが症状を悪化させたに違いない。きっと親父は罪悪感から体に負担がかかったんだ。



「幸い、意識ははっきりされているから会話は出来る。ただ、いつ異変が起きてもおかしくない状況だ」



 孝のお父さんの悲しみに満ちた目が親父の容体の深刻さを物語っていた。言葉にせずとも孝のお父さんが言わんとする事を俺は察した。



「今夜は付き添ってあげなさい、いいね?」



「……はい」 



 便宜を図ってもらい、孝に個室を案内された。道中、孝と会話は一切なくて孝の見た事ない浮かない顔に父親の容体の深刻さが伝わってくる。孝は部屋の扉を開けると「じゃあな」と一言だけ言って部屋を出ていった。



 親父はベッドに横たわり目を閉じていた。テレビでよく見るが、よくわからない機械がベッド横にあって恐らく心拍数を測っているモニターがある。壁時計の時刻は深夜の十二時を過ぎていた。窓際に立ってカーテンを開けると遠くに満月が見えて夜光が室内に降り注いだ。



「……あいつから聞いたのか?」



 親父は起きていた。その目からは日頃の鋭い目つきではなくて、五年前に見た優しかった頃の親父の目。顔色は色白く、皺は増えているものの、五年前の面影が辛うじて残っていた。あの頃はまだ母さんと一緒に生活をしていた時だ。



「えぇ、全て。社長もよく黙っていたもんですね」



 あいつが孝のお父さんの事なのだろうと推測して言葉を返した。窓際のベッド横の椅子に腰掛けながら話すと「ふっ、社長は止めろ。ここではお前と俺の二人だけだ」と一笑に付した親父。



「それに……俺はもうすぐ死ぬだろうな」



 返す言葉が見つからなかった。さっきまでは他人事のように思っていたにも関わらず、親父の言葉を受けて急に実感が湧いてきた。



「大きくなったな、翔平」



 弱々しい声だったが、はっきりと聞こえた。俯いていた顔を上げると親父は潤んだ目で俺の顔を見ていた。その目には親が子を見るような優しく温かみを帯びている。まるで時間が止まって過去にタイムスリップしたように時間が流れる。



「お前がまだ中学三年生だった時、母親の景子が亡くなって男二人の家族になった。泣き喚いて駄々をこねるかと思ったが、そうはならなかった。仕事ばかりをしていた俺は、お前に家事全般を任せてしまった。それにも愚痴を溢さなかったお前に、随分自立した子供だなとつくづく思ったもんだ」



 母さんが亡くなって親戚の吉江さんが会社に事務員として働くようになってから吉江さんに家事全般を習った事を親父は知らないだろう。



 まだ子供ながらに親父に迷惑をかけたらいけないという気持ち一心でやっていた事を。子供ながらに母さんが亡くなって、自分が置かれている状況は変わってしまった。何かしなくちゃいけないと漠然とした不安と焦りがあったから。



「その頃になって自分の体の異変に気づいた。それからあいつに余命宣告的な事を受けてな。自分の死期が迫った時に自分がやり残している事の多さに気付いたんだ」



 天井を見上げながら過去に想いを馳せている親父。人に歴史ありと言うが、俺の知らない所で父親として戦ってきた場面がいくつもあるのだろう。



「俺の体の事を翔平に伝える事は到底出来なかった。あの時は景子が亡くなって直後だったからな」



 まるで昨日の事のように天井を見上げながら思い出すように話す親父。もしその事実を告げられていたら、俺はきっと不貞腐れていたに違いない。



「一人息子の翔平には強くなってもらいたかった。学歴がどんなに優れていようが、社会に適合する人間が育つとは限らない。だから俺は、高校を退学させて跡取りにさせる為にお前に不動産を叩き込んだ。日に日にお前への想いが強くなってきてな。翔平には俺が死んだ後に多くの財産を残してやりたい。会社が安定した収入を得るまで見守ってやらなきゃいけない。お前にそれらを守れるだけの力を持てるまで育てなければいけない。例え一人でも勝ち残れるくらいの力をってな。だから仕事中は厳しく育ててしまった」



 高校を辞める事に対して抵抗はなかった。特にやりたい事があった訳じゃないし、漠然とした気持ちで通っていたに過ぎない。



 辞める前に孝と司には伝えたけれど、二人とも辞める事を止めなかった。それで二人の付き合いが終わる訳じゃない事を確認するとそれが救いになったし、その事が高校を辞める決断の後押しになったと思う。



「今思い返すと、あの頃から親と子の関係性ではなかったな。お前には色々と辛い思いをさせてしまった」



「まぁ、流石に厳しいとは思っていたよ」



 傍若舞人という言葉がぴったり合う振る舞いの背景に、この真実があるならば納得いった。だとしても、それは言葉にしてもらわなければわかりようがない。最初こそ戸惑いは多くあった。仕事の一面をあまり見た事がなかっただけに、そんな振る舞いを受ければ意固地で頑固な父親という印象しか抱かない。



「そんな焦りからあんな事に……。とんでもない借金を背負わせてしまった」



 警察に被害届を出したものの、音沙汰ない状況だった。これから先の不安が消える事は当面ないだろう。



「すまない……。本当に申し訳なかった」



 親父は俺に深く頭を下げた。俺があの時にもっと進言したら、こんな事にはならなかったかもしれない。親父祖からの話をもっと慎重に調査していれば防げたかもしれない。そもそも親父に案件の相談をしなければ、会社や親父、吉江さんが苦しむ事はなかった。タラレバな後悔が今になって襲ってくる。



「翔平、お前が責任を感じる必要は何もなんだ。むしろ、お前は最初から怪しいと気付いていた。あれは俺の責任だ」



「いっ、いや俺だって──」



「迷惑をかけるが……あとは頼んだ」



 頭を下げる親父。その姿を見て何も言えなかった。何も言葉に出来なかった。



「……おっ、親父」



「頼んだ」  



 頭を下げ続ける親父。親父のこんな姿を見たのは初めてだった。沸々と込み上げてくる感情を抑える事は到底出来そうにない。



 次第に涙が溢れ、様々な想いが脳内を駆け巡る。今際の親父から託されたバトン。近い将来襲ってくるであろう親父との別れ。深い悲しみが再び湧き上がってきた。




「さぁ、湿っぽい話は終わりだ」と突然、顔を上げる親父。その顔はさっきより晴れやかだった。



「そんな事より俺の心配はお前の将来だ」



「いっ、今更かよ?」



「お前は昔から手先が器用だからな。親戚の家に行って伯父さんの世話にでもなって世界を回ればいい。何だかんだ、手に職を持っている人間は強い」



 何の話をしているのか、一瞬わからなかったけれど会社の事だろうと推測した。



「そんな無責任な事を言うなよ。まだ会社が残っているんだ。なんとか立て直してやるさ」



 どこまで出来るかわからない。それでも守らなくちゃいけない事くらいはわかっている。それに今まで体感した事のない想いが駆け巡り、自身の価値観や倫理観が変わった瞬間がはっきりとわかった。



「親父の息子で良かったよ。それは感謝してる。不動産も嫌いじゃないし、仕事も面白いと思う。だから、あんまり気にするなよ」



 こんな言葉を親父に言うのは正直、照れ臭い。親父を安心させたい、強くなった俺を見て欲しい。何より今、伝えなければ俺は死ぬまで後悔する、そう思った。



「……そうか、そうか」



 久しぶりに親父が笑った顔を見た。こんな子供が笑った時のような顔だったかと忘れてしまっていたほどに、親子の時間を過ごしていなかった。



 親子三人で最後に出かけた記憶は、俺が中学二年生の時に鴨川に行った時が最後だった。高校を辞めてから親父と出かけた事もないし、食事を一緒にした事もない。



「ただ無理はするなよ? 例え会社を潰したとしても俺や母さんは天国に行っても文句は言わないからな」



 その後は朝方まで失っていた親子の時間を取り戻すように、他愛のない話をした。小学生の時に遊園地に行った時の事。運動会で親父が徒競走で一位を獲った事。俺の誕生日プレゼントにゲームを買い忘れて、母さんに親父が叱られていた事。絶え間ない話題に時間を忘れてしまった程に語り合った。



 翌日の夜、容体が急変して親父は亡くなった。



 失っていた親子の時間を十分に取り戻せたと思う。親父は苦しむ事なく最後まで穏やかに笑っていたから。 


※※※


 今日も無意味な一日を過ごしてしまった。例に洩れず、帰宅するなり慣れた手つきでパンプスを脱いで、一直線にリクルートスーツを着たままベッドにダイブした。



 もうすぐ大学を卒業するのに卒業後の定職が見つからない。千葉に戻ってお母さんの絵画の手伝いをする事になるのか、フリーターになるのか。はたまた、宮田さんの事務所にお世話になりながら修行を重ねるか。様々なシチュエーションを空想したけれど、どれもしっくりくる事はなかった。



 仮にそうなった場合でも、アルバイトだけでは生活出来ないから他の仕事を見つけなければならない。考える事は多く、道のりは険しかった。



 そんな人生の岐路に立って不安な中、昨日の里香からの電話はあまりにも衝撃的だった。翔平くんのお父さんが亡くなった。里香は同棲している司くんから聞いて私が知っているのかどうか、確認の連絡だった。私は寝耳に水だったし、それに関する翔平くんからの連絡はなかった。



 里香にいつ亡くなったのか、お葬式はいつなのか尋ねたが、詳しくは知らないようだった。そこでふと思い出した事は、もしかしたら翔平くんから電話があった事が関係しているのではないかと直ぐに紐付けた。あの時にはもしかしたら既に不幸があったのかもしれない。



 だとしたらどうして翔平くんの側にいてあげられなかったのだろう。どうして気付いてあげられなかったのだろう。思い返せば、あの時の翔平くんの様子はおかしかった。



 いつもの調子じゃなかったし、声色も酷く落ち込んでいた。同棲の話も翔平くんがこっちに来て仕事を探すと言った事も、会社を閉めてこっちで心機一転、働くつもりだったのかもしれない。



 理由を正直に言って欲しかった気持ちもある。就職活動が上手くいっていなくて、気持ちに余裕がなかったことが言い訳にあったとしても、もしそうだったとしたら、もっと寄り添った返事が言えたかもしれない。どうして翔平くんは私に話してくれなかったのだろう。なんだか寂しい気持ちになった。



 こういう時は私から連絡した方が良いのか。それとも今は、そっとしておいて折りを見て連絡した方がいいのか。物思いに耽っていると、携帯が鳴った。この着信音は翔平くんからだった。ベッドから立ち上がってすぐに机に置いてある携帯に駆け寄る。



「もしもし、翔平くん?」



 鼻を啜ったような音が聞こえてきた後に、電話の後ろから喧騒音が聞こえてきた。賑やかな話し声が聞こえてくるから、もしかしたら自宅からではないのかもしれない。



『……沙耶? 元気か?』



 無理して声の調子を上げているのが見え見えだった。今日は嘘が下手な翔平くん。お父さんの事情を知っているだけに「うん、元気だよ」とだけ返して、翔平くんの話に合わせる事にした。



『おっ、親父がさ……死んだんだ』



「……うん。昨日、里香から聞いたよ。大変だったね」



 どうして私に教えてくれなかったのか、理由を尋ねるのは野暮過ぎる。それから翔平くんは言葉を詰まらせながら話してくれた。既にお葬式は終えたようで、慌ただしい日々が一段落したから私に電話をしてくれた事など、ゆっくりと噛み締めるように伝えてくれた。



 最後に私が就職活動で大変な時期だから、心配をかけたくなかったから連絡しなかったと話した。正直、そんな優しさをくれるよりも私にはもっと早く教えて欲しかった。私が翔平くんに出来る事は、きっと限られていると思う。側で話を聞いたり、お手伝いは出来る。その僅かな時間だけは、今の私が置かれている状況を全てかなぐり捨ててでも良かった。



『泣くつもりなんてさぁ……最初からなかったんだ。どうしてこんな親父の為に……莫大なさぁ、借金残して死んでさ。勝手に死にやがってって恨みの気持ちだって正直あるんだ』



「……うん」



『でも……いざ、弔辞を読んだり、親父が懇意にしていた会社の人とか関係者の人達から話を聞くとさ、俺の為に色々考えてくれていたみたいなんだ。そんな話を聞くとさ……親父が死ぬ直前に病室で話した事を思い出してさ」



「……翔平くん」



 何も出来ない事が歯痒くて仕方がない。今すぐにでも翔平くんの所に駆けつけたい衝動に駆られる。私もお父さんを亡くしたから気持ちが痛い程にわかる。翔平くんの場合は両親を失った。私の気持ちよりもっと痛いに決まっている。胸が締め付けられる。翔平くんを抱き締めたい。抱き締めて一緒に隣で泣いていたい。



『俺さ、今日まで沙耶に言えなかった事があるんだ」



「うん? なに?」



 鼻を啜り、意を決したような強い口調になった翔平くん。次の言葉を聞く為に、少しだけ背筋を伸ばして言葉を待った。



『俺、これから会社の社長として親父の意思を継いで行こうと思う。だからこの前に話した、そっちに行く話はなかった事にしてくれないか?」



 どんな言葉が続くのかと構えていただけに、正していた背筋が崩れて肩を落とした。



「うん、そうだよね。お父さんが残してくれた、大切な会社だもん。翔平くんはこれからもっと頑張らなくちゃいけないんだから」



 私は翔平くんの決断に全肯定した。翔平くんの覚悟を全力で応援するし、背中を押す。それが今の翔平くんにとって必要な事だと思ったから。



『そうだよな。だから沙耶……俺達、別れよう』



 突然過ぎて理解が追いつかない。一瞬、時が止まったような感覚に陥った。だから互いの時間に沈黙が流れても、言葉が直ぐに出てこなかった。



「えっ……えっ? どうして?」



『始めからさ、沙耶の大きな夢の隣に俺はいなかったと思うんだ』



 翔平くんの言葉には疲れと諦めのようなものを感じた。それから翔平くんが一方的に話しているけれど、私の思考は止まったまま。



 だから翔平くんの言葉が頭に入ってこない。頭に入ってこなくても、悲しくて辛い事を言われている事を本能で理解したのか、涙が溢れ出して止まらなくなった。



 嗚咽は止まらず、返す言葉も出てこない。胸が苦しくて痛い。呼吸が荒々しい。息を吸って吐き出す単純な事なのに、息を吸う事が上手く出来ない。



『きっと沙耶との関係は、沙耶が東京に旅立つと決めた時に終わっていたと思うんだ』



 今度は、はっきりと言葉が聞き取れた。だから余計に残酷で容赦のない言葉だった。そうだとしたら今まで私達が築いてきた時間は、一体何の意味があるのだろう。



 小さなすれ違いがあったとしても、築いてきた時間と形が無意味とは到底思えない。きっと今の翔平くんはお父さんが亡くなって、まともな精神状態じゃない。自暴自棄になって冷静な状態じゃないんだ。



『沙耶は学生で、俺は社会人。生活しているサイクルや世界も違い過ぎるんだよ』



「そっ、それだって今までやってきたじゃない? どうして、どうして突然そんな事を──」



『沙耶は自分の夢を叶えるんだぞ?』



「しょ、翔平くん? ちょっ、ちょっとまって──」 



『さよなら、沙耶。元気でな』



 一方的な突然の別れを宣言された後に、無情な機械音が繰り返された。一縷の望みを抱いたけれど、最後の翔平くんの無慈悲な言葉は、想像以上の大打撃で呆気なく崩れ落ちた。



 これを現実と捉えたくない気持ちに駆られた時、携帯に貼られたプリクラに触れて翔平くんの顔をなぞる。二年前に里香達と一緒にドイツ村に行った時に翔平くんと二人っきりで撮った写真。



 この時には私達の関係が終わっていただなんて思いたくなかった。何度も触れたから、すっかりシールは色褪せて薄くなっている。



 涙を拭ってもう一度見ると、プリクラの中の翔平くんはなんだが悲しそうだった。

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