見出し画像

『暮色に包まれた中で四季咲きのような恋をした』第2話

【2002年】

 年が明けての一月に大学入試センター試験と一般入試をやり切った直後の私は、燃え尽き症候群になっていた。



 私史上、全神経を注いで挑んだ、大一番の勝負であり最大のイベントだった。何とかやり切る事が出来たが、結果が伴わなかったとしても胸を張る事が出来るくらい、充実した時間を過ごしましただなんて、そんな綺麗事は言いたくないくらい、気が立っていた。



 試験直後の数日は、惰眠を貪る暴飲暴食を繰り返した日もあったが、お母さんは小言の一つも口にしなかった。それは今でも変わりはないけれど、次第に日が進むについては不安は大きくなっていった。



 何より怖い事はお母さんを悲しませる事。自分が傷つくよりも私の行いによって他人が傷つく事が一番怖い。



 それだけに今日という日がどれだけ私にとって大事な日なのか。私の人生、大一番の結果がはっきりとする日。そう、合否の発表だった。



 手応えがないと言えば嘘になるけれど、微妙な感覚だった。大学入試センター試験は毎年五十万人以上が受験するし、一般入試の合格率も決して高くはない。合否の結果は、郵便で届く。私のこれからの人生が大きく左右する日だ。



 受験した大学はたった一校だけ。それを周りに言うとなんて勿体無いと笑われたけれど、お母さんだけはあなたらしいと微笑んでくれた。私が夢を抱き、進路を決めた時から進むべき大学は決まっていたから。



 その大学は設計デザインから計画、構造や環境まであらゆる分野を学べて、三年生になれば研究室に所属する事になり、専門分野を学べる。さらに社会に出ている卒業生達との繋がりもあって、そこでイベントによる交流を深めて知見を広げる事が出来る。



 何より国内外で研究業績関係の部門で芸術や設備に関する賞を受賞している講師陣が多いのは、いずれ世界で活躍したいという私の夢を叶える事にとって魅力的だった。



 重い足取りで高校から自宅に戻り、何気なくポストを開くと郵便物が届いていた。茶封筒の差出人は、待ち望んでいた大学から。



 もしかしてという期待を抱いたお目当ての大学からの郵便物。一呼吸してから中身をその場で開いて目に飛び込んできたもの。それを手に私は戻ってきた道を駆け足で戻って駅に向かった。



 努力が実を結び、激しい受験戦争に生き残った嬉しさは、すぐに胸が満たされたが、ぽっかり空き続けていた、小さな穴まで埋まる事はなく、むしろ一瞬で大きくなった。



 嬉しさと少しばかりの悲しさを抱えたまま向かった先は、翔平くんが勤めている不動産会社。初めて来たけれど翔平くんから聞いていた通り、お世辞にも綺麗な外観とは言い難い。昔からある古びた建物。会社の看板は陽で焼けてしまい、色褪せているし、二階建ての間口が狭い木造の家。翔平くんから聞いていた情報では一階が店舗で二階が住居部分になっていてお父さんが住んでいるらしい。



 さぁ、翔平くんに報告しようと足を一歩踏み出した瞬間、我に返った。翔平くんに電話もせずに無我夢中で来てしまった事に気付くと同時に、自宅にお母さんがいるのに報告しないで翔平くんの会社まで来てしまったのかと後悔が襲った。



「あれ、沙耶じゃん? どうした?」



 そんな事を思っていた所に呼ばれた方向を振り返ると、翔平くんが不思議そうに立っていた。



 翔平くんの視線が私の顔から右手に持っている封筒に移った時、少しだけ眉間に皺が寄って険しい表情をしたのを見逃さなかった。翔平くんはきっと私が何故ここにいるのか、きっと一瞬で察したに違いない。



 翔平くんが優しそうに見つめながら、私の返答を待ってくれている。私が答えた瞬間から、翔平くんと離れるカウントダウンが始まるんだ。



 あれだけ待ち焦がれていた結果が一緒に連れてきたのは、寂しさ募る未来だった。それでも今まで私の事を応援してくれて、いの一番に報告したかった翔平くんに伝えなくてはいけない。



 だから私は満面の笑みで伝えることにした。



「あっ、あのね。私、受かったんだ。受かったんだよ」



 誰が見ても今の私は動揺を隠せていない。辿々しい言葉となって現れた私の言葉を受けて翔平くんがどんな言葉を投げてくれるのだろうか。



 私は今、どんな顔をしているのだろうか。満面の笑顔を向けたつもりでも、強張った表情をしているのだろうと鏡を見なくてもはっきりわかる。



 きっと強張った、ぎこちない表情で言葉と表情は裏腹に違いない。翔平くんは私の言葉を受けてゆっくりと近づいてきた。その一歩一歩の翔平くんの歩みが胸の鼓動を加速させる。



「やったじゃないか、おめでとう」



 翔平くんが私の体を力強く抱き締めた。抱き締められた瞬間、私の緊張は一気に解かれて安心した途端、涙が滝のように溢れてきた。



 嗚咽混じりに泣いている私に翔平くんは「頑張ったな、すごい。すごいよ」と宥めるように私の頭を撫でてくれた。



 その日の夜、翔平くんが私の自宅に来てお母さんと三人で私のお祝い会を開催してくれた。お母さんが贔屓にしているお寿司屋さんから握り寿司の出前をとって、お手製のロールキャベツやら、食卓を埋め尽くす程の食事に舌鼓を打った。



「そっか、あんたも四月からはシティガールになるんだね」とお母さんはシャンパンを空けていい感じに酔っている。



 しきりにお母さんは翔平くんに酒を勧めていたが、未成年だし車で来ているし、申し訳なさそうに断っている翔平くんの表情が新鮮で、場の空気は和やかに包まれた。



 こうして三人の食事は初めてだったから、不思議な感覚だった。いつものお母さんとの食事の場所に翔平くんがいる違和感。



 出会ったのは約半年前の出来事。せっかく深まった翔平くんとの関係は、私の大学進学に伴う東京での一人暮らしでどうなっていくのか、まだ翔平くんと話していなかった。



 こうして大学受験を何とか終えて、両肩の荷が下りたとはいえ、以前から抱いていた黒い斑点の様なものが今日一日で大きくなってきた気がする。



 これ以上、私は翔平くんに何を求めるのか、何を期待しているのか。試験前までは目先のやらなければならない課題に気が持っていかれていたけれど、近いうちに翔平くんとちゃんと話さなければいけない。



 引っ越し先は大学が近い場所で賃貸を借りようと決めていたけれど、お母さんの仲の良い友人が千代田区に住んでいて、早速動いてくれている事をお母さんから聞いた。お勧めの部屋が二つあるらしいから、それを聞いて迷っている所だった。特に拘りもなかったし、土地勘がないだけに不安は尽きないけれど、取り寄せた資料を見てどちらでも良かった。ただタイミング見て都内に下見に行こうと考えている。



「東京には、いつ引越し?」



「卒業式終わったら早めに行こうかなって。ただ手続きとか引越しが間に合うかどうか。もしかしたら四月入ってからになるかも」



「それなら卒業する前に、みんなで遊びに行って来なさいよ」



 お母さんの突然の提案を受けると翔平くんと目が合った。面食らっていると「ほら、あんたがいつも仲良くしている子。里香ちゃんも誘って」と気を利かしたわよ的な笑みを向けてくるお母さん。



 里香は私が中学、高校と仲良くしている同級生。里香は進学しないで自分の人生を一年間見極めるらしい。如何にも、里香らしい決断だった。翔平くんが里香について尋ねてきたので説明した。



「里香はきっと誘えば来るだろうけど。そっ、それならさ翔平くんもお友達、連れてきてよ」



 私の提案に考え込む翔平くん。翔平くんの友達がどんな人を連れてくるのか気になる。



「まぁ、声かければついてくるやつはいるだろうけど」と言って、翔平くんは携帯を取り出してメールを打ち始めた。



 高校生活最後の卒業デート。最後の思い出は二人っきりのデートも良いけど、派手にみんなと楽しく過ごしてみたいって気持ちもある。私も里香にお誘いのメールを送った。



「青春ってやっぱりいいわね」



 私達二人の会話を肴にして、シャンパンを口に運ぶお母さん。それを見て翔平くんと目が合おうと互いに苦笑した。



 三月に入り、卒業式を来週に控えた週末に翔平くんのお父さんが貸してくれたハイラックスサーフで東京ドイツ村に向かった。天気は快晴。気温も過ごしやすい。まさにデート日和だった。



 運転はもちろん、翔平くん。助手席に私。後部座席に里香と翔平くんの友達の荻野孝くん、山本司くん。二人とも翔平くんとは幼馴染で私達と同い年だった。



 孝くんは春から医学生でお父さんが理事をしている大学附属病院に通うらしい。銀縁眼鏡がよく似合う、如何にも医者が似合う風貌だった。人見知りなのか、それほど口数は多くない。寡黙で私と違って頭が良さそうな印象。



 司くんは里香と同じで進学せず、これからの人生を見つめ直すらしい。陽気な性格で車内では盛り上げてくれるムードメーカー的な存在だった。



 東京ドイツ村は去年の三月に開園されて高校でも話題になっていたので、気になっていた。朝の九時に里香と五井駅に待ち合わせして、翔平くんが車で孝くんと司くんを乗せて迎えにきた。



 翔平くんの黒いカーディガンにジーンズのラフな格好が新鮮だった。見慣れたスーツ姿も良いけれど、私服も清潔感があってよく似合う。



 この日に向けて私達、女子コンビは先週から動いていた。里香と先週、千葉駅近くのデパートに行って服を買い揃えた。里香には前から翔平くんの事は話していて、今回の事も話すと、気合を入れ直さなきゃと二人で息巻いた。お母さんに相談をしてお小遣いをもらい、気合を入れなさいと里香と同じ事を口にしていた。



 里香は所謂、ギャルな子なので白のニットにチェックのミニスカートに赤いロングブーツ。買い物に行っている時、里香が頑なにスカートを勧めてきたけれど、流石に恥ずかしかったので私はデニムと緑のワンピースを重ね着したファッションで落ち着いた。



 ドイツ村までは一般道で約三十分くらいで着く予定で行きの車内は司くんと里香がメインで話が盛り上がった。お互いの関係性や近況などの話だったけれど、みんな同い年という事もあって話が弾んだ。



 あっという間にドイツ村の駐車場入口前に着いたけれど、土曜日に加えて卒業旅行シーズンなのか、混み合っていてなかなか車を停められそうになかった。その間も孝くんと里香が他愛もない話で場を盛り上げてくれて退屈せずに車を停められた。助手席から後部座席に座っている里香と司くんの相性は良さそうに見える。二人とも似たような気質の持主同士な気がした。



 入場料金を払ってゲートを潜ると、左手にヨーロッパの庭園のような青空と芝生が広がっている中、色取り取りのビオラが色鮮やかに咲き乱れていた。黄色やオレンジ、薄い青色や濃い紫色など綺麗な花々が私達を出迎えると、奥にはアトラクションエリアがあって、私達より小さい子供達の中で男子三人が混じってアスレチックや三輪車レースではしゃいでいる様子を里香と一緒に見て楽しんだ。その頃には寡黙でクールな印象だった孝くんも笑顔を見せていたので安心した。



 十二時を過ぎた頃になるとレストランでピザとパスタに舌鼓を打った後、まるで示し合わせたかのように別行動を取ろうと司くんと里香が言い出した。それは私と翔平くんの組と残りの三人で分かれようと。明らかに私達に気を遣った発言に返す言葉を言おうとした瞬間、三人がテーブルから立ち上がって去っていってしまった。



「なんだか気を使わせちゃったな」



 ウーロン茶を飲みながら翔平くんが照れ臭そうに言うと私も頷くしかなかった。さっきまで一緒にいていつの間にそんな話をしていたのかと疑問に思った頃に里香からメールが届いた。



『十六時に入口前に集合だって』



 里香から届いたメールを翔平くんに見せた。まったく勝手なようでいて、気遣いが出来る里香に頭が上がらない。特に行ってみたい場所がなかったので、園内を散策しようと話になり翔平くんと一緒にレストランを出た。



 こうして二人っきりで歩くのも久しぶりな気がする。激闘の試験勉強の日々から解放されて落ち着いた気持ちで陽の光を浴びながら一緒に歩く。途中、動物園のエリアがあったので立ち寄った。そこではうさぎやヤギ、ブタやヒツジがいて、子供達が触れ合っている様子を遠巻きにベンチに座りながら見ていて、時間がゆっくりと流れている感覚が心地良かった。



「なんか、こういうゆっくり時間が流れている感覚、久しぶりだな」



 両腕、両足を伸ばしてストレッチをしながら話すと「俺も、なんだか久しぶりな気がする。デスクワークなんかしていると腰は痛いし、肩は凝るし」と翔平くんもストレッチを始めた。



「でも沙耶は、これからもっと忙しくなるだろう?」



「そうだね。大学に行ったら忙しくなるかも」



 口にした途端、急に寂しさが募ってきた。楽しみと寂しさ、複雑に綯交ぜとなった気持ちを隠すようにベンチから立ち上がり「だからこういう時間が貴重なんだよね」と言った後に座っている翔平くんの腕を握ってアトラクションエリアに向かった。



 レイクエリアに向かってスワンボートに翔平くんと一緒に乗ったり、観覧車に乗ってドイツ村を見下ろしたりして寂しさを掻き消すように記憶に思い出として刻んだ。



 これから翔平くんとの関係をどうするのか話せずにいる。私はこのまま遠距離恋愛を続けていきたい気持ちがあるけれど、翔平くんはどう思っているのだろう。



 そんな話を私から口にした途端、きっとすぐに後悔が襲ってきそうで怖かった。話の展開が望んでいる展開にならなかった場合、結果として最悪な結末を迎える事だって有り得るのだから。翔平くんを信じたい、信じている気持ちもある。だけど持ち前の臆病で優柔不断な性格が邪魔し続けて、今日まで来てしまった。



 十六時前に入場ゲート前に行くと三人は既に待っていた。合流した私達に向かって司くんと里香が「お二人様、楽しい時間は過ごせましたか?」と揶揄ってきたので里香に「ありがとうございました」と嫌味半分、感謝半分の気持ちで頭を下げた。



 最後にお土産店に寄って道が混む前に帰ろうと孝くんの提案に皆が乗ると、各々が店内を散策して買い終わった後に店の入口横にあるプリクラで記念撮影しようと里香が提案して五人で撮影した。受け取り口から出てきたシールを配る里香。



 前に女子二人が屈んで、後ろに男子三人が変顔した写真が写っている。写真から仲の良さが伝わってくるけれど、私はこの写真に物足りなさを感じて始めた。直ぐに原因ははっきりした。あとは行動に移すだけ。



「よし、じゃあ帰りますか?」



 司くんが言うと里香と孝くんが歩き出して帰りのゲートを抜けた。跡を追うように翔平くんが歩き出した瞬間、咄嗟に翔平くんのカーディガンの裾を握った。振り返った翔平くんが不思議そうに私を見ている。



「あのさ、せっかくだから二人で撮らない?」



 プリクラ機を指差した。幸い、他に並んでいる人もいない。今ならチャンスだと思った。ゲートを抜けた三人が振り返って何やらこっちに声をかけているけれど、喧騒音で聞こえてこない。手招きをしているあたり、早くこっちに来い的なことを言っているのだろう。



 翔平くんは私と三人達を交互に見遣ると、私の掴んだ手を握り返してプリクラ機に向かった。翔平くんの表情は照れ臭そうだった。



「二人でプリクラなんて恥ずいわ」



「私だって男の子と二人で撮るなんて初めてだから」



 さっきは里香がプリクラに慣れていたから良かったけれど、フレームの設定やら初めての事で勝手がわからない。互いに不器用ながらも何とか進めていくとシャッターカウントが始まった。



「おい、普通にこのままでいいのか?」



 さっき私がとったポーズのように前屈みになる翔平くん。私も同じように翔平くんの左隣で前屈みになると、シャッターまで二秒前になった瞬間、私は翔平くんの頬にキスをした。



「えっ?」



 シャッターが切られると私は顔を離して「どう? 

 驚いた?」と悪戯っぽい笑みを浮かべて翔平くんを揶揄った。



「……不意打ち過ぎない?」



 プリクラ機を出て受け取り口からシールを取り出すと狙い通り、私が翔平くんの頬にキスをしている所が写っていた。翔平くんはそれに驚いて目を大きくさせている。



 すると翔平くんが私の手からシールを奪い取ってシールを眺めた。顔を赤らめている翔平くんから今度は私がシールを奪い取る。



「いいの、これは私が東京まで持っていくんだから」



 早速一枚剥がして、携帯の後ろに貼った。これでいつでも翔平くんの顔を見れる。



「まぁ、沙耶がいいなら、もういいよ」



 投げやりになった翔平くんが、私の右手を握ってゲートに歩き出した。今日はみんなで遊びに来て本当に良かった。



 何事も初体験に不安はつきもの。それがましてや、親元を離れて一人暮らしをするのだから、不安と寂しさは倍増になる。



 自分が選んで頑張って手に入れた道。誰かに決められたレールをただ歩くのではなくて、自分が敷き詰めたレールを歩く。灯りが見えない長く暗い道。私が進む道を誰かが灯してくれる訳でもない。



 明らかに私史上、大きな人生の転換期。希望と不安は表裏一体。それでも私は一歩一歩進み続けて自分で敷いたレールに灯りを灯す。それが自分の夢を叶える為なのだから。



 今日は東京への引越しとなる。身支度を整えて心配そうに見つめているお母さんに笑顔を向けても、お母さんの曇った顔は、昨夜から晴れない。



 一昨日まではあんなに明るかったのに、このままでは一人娘の旅立ちを笑顔で送ってくれそうにない。



「体に気をつけるのよ。向こう着いたら連絡よこしなさいよ」



「分かっているって。ちゃんと電話するから」



 一通りの荷物は先行して東京に送ってあった。翔平くんが懇意にしている引越し業者にお願いすると繁忙期にも関わらず金額も大分勉強してくれたので助かった。



 玄関まで向かい、スニーカーを履いて振り返るとお母さんは今にも泣きそうな表情だった。



「お母さん、今までありがとうね」



 私はお母さんに頭を下げて感謝を伝えた。面を食らった様子のお母さんに続けて、小学校の授業参観にはお父さんが仕事で来れなくても必ず参加してくれたこと。絵を教えてくれた事。毎日、美味しいご飯を作ってくれて洗濯もお掃除も頑張ってくれた事。お父さんが亡くなってお父さんと同じ建築家になると伝えると、一生懸命応援してくれて、塾にも通わせてくれた事。大学に合格した事を私以上に喜んでくれた事。想いが溢れてきて私が言葉に詰まり出すと何も言わずにお母さんが抱きしめてくれた。



「無理するんじゃないよ。いつでも帰ってきていいんだからね」


 

 お母さんの温もりを全身で受け止めた。別れを惜しみながら、ゆっくりと体が離れた後に玄関扉を開ける。



 道路に出ようと門扉に手をかけた時、視界の隅に捉えたのは翔平くんだった。



「忘れ物ないか?」



「うん、大丈夫」



 翔平くんから昨夜、駅まで送ると連絡があった。駅まで歩いて行ける距離だけれど、せっかくのご厚意に甘えた。だってこれからは今まで見たいに頻繁には会えないから。



「翔平くん、沙耶をよろしくね」



 助手席に乗るとお母さんが窓から車内に顔を覗かせて、翔平くんに念を押した。翔平くんが笑顔で応えると、車は走り出した。



 サイドミラーに徐々に小さくなっていくお母さんの姿。お母さんは車が曲がるまで私に手を振り続けてくれた。向こうに着いたらちゃんと連絡を入れよう。



 案の定、車に乗って五分で駅前の大きな交差点に差し掛かり赤信号で停まった。ここまで翔平くんと会話はない。何となく気まずい空気が流れているのは実感している。



 結局、今日まで私達の付き合いはどうなるのか、話せずにいた。このまま付き合いが続くのであれば遠距離にはなる。会う頻度も減るし、互いに今まで以上に忙しい身になる訳だから、今まで一緒に出来た事が出来なくなる訳で、それは少しの別れに近いのかもしれない。



 信号が青になると前の二台が直進に進んでロータリーに向かった。それを追う様に走るかと思ったら車が右折レーンに入った。



 私が疑問に思ったタイミングで「空いてるから八幡宿まで送るよ」と翔平くんがぶっきらぼうに話した。八幡宿は最寄駅の千葉駅寄りの隣駅。



「あっ、ありがとう」



 これが翔平くんの車に乗ってから初めての会話。すると車内の空気が少し軽くなった。今まで互いにかける言葉の探り合いをしていたような気がする。



 当たり前だった関係性、そして日常が無くなる事に戸惑っていた。少なくとも私はそうだった。こんな状況の時は何を話せばいいのだろう。何をすればいいのだろう。そんな事を翔平くんと二人っきりの時に今まで考えたことがなかったから。



 この状況は私が大学進学を決意してから分かっていた事なのに、こうして現実になると、寂しさが胸を締め付ける。



 東京と千葉、それほど遠くはない距離だけど、心の距離は遠くなる。一分、一秒でも良いから翔平くんと今は一緒にいたい。今になって純粋に強く願った。



 八幡宿なんて区間が短いからすぐ着いてしまう。次の信号を左に曲がれば駅のロータリー。このまま何も翔平くんと会話をしなくていいのだろか。もちろん、良いわけがなかった。



「ねぇ、蘇我まで送ってよ?」



「……えっ?」



 翔平くんは相当驚いたようで、聞いたことがない高い声が出た。蘇我駅は八幡宿の二個、千葉駅方面の駅。八幡宿から次の浜野駅はここよりもっと区間が短い。



「別に無理にとは言わないけどさ」



「何なら、このまま東京まで送ってやろうか?」



「ちょっ、ちょっと。それ本気で言ってるの?」



「冗談、冗談。流石にそれは無理だから。仕事だってあるし」



 冗談じゃなきゃいいのに。なんとか送ってよと本音が溢れそうになって咄嗟に口を噤んだ。今まで言えていた言葉や感情が言えなくなってしまっている。



 もう今の私は昨日までの私じゃない。きっと明日以降の私は、今以上に翔平くんと距離を置いてしまう。



「なぁ、定期的にこっちには帰ってくるんだろう?」



「そのつもり。大学のスケジュールがどんな感じか次第だけど。あと、そうだ。バイトも見つけなきゃいけないし」



「時間がある時は戻ってこいよ。俺も行ける時はそっちに会いに行くから」



 期待していた言葉だった。望んでいた関係だった。世間一般の遠距離恋愛をしているカップルも今の私と同じ気持ちなのだろうか。



 北海道と沖縄で遠距離恋愛をしているカップルがいるのなら早速、極意を教わりたい。嬉しい時、怒っている時、悲しい時、楽しい時をどうやって共有しているのって。今の私達は東京と千葉の遠距離。距離なんて関係なくて、心の繋がりようだなんて答えは先輩カップルから聞きたくない。



 胸を撫で下ろすと窓から見える東京湾に目が惹かれた。あの水平線の向こうに私は旅立つ。窓を下げれば心地良い光が車内に差し込み、澄んだ空気と一緒に潮の香りが車内に入り込む。



 移り行く景色のように時が流れても、私達の関係は続けていけるのだろうか。互いに望んだ関係がはっきりとした途端、妙に胸がざわつき始めた。



 根拠のない不安と夢を叶える為に新しい事に挑戦する喜び。東京に住む事に対する浮ついた心。それらに持ち前の脆い精神が相待って、私の体は容積を超える寸前になっていた。



「ねぇ、今の私っていい顔してる?」



 赤信号で停まったタイミングで翔平くんに尋ねた。次の信号を右折すればもう蘇我駅だ。



「うーん、今までで一番の顔だね」



 皮肉のように悪戯っぽく話す翔平くん。今の私はどんな表情をしているのだろう。怖いもの見たさのような気持ちをぐっと押さえ込んでサイドミラーを見ないように俯いた。右折をして蘇我駅のロータリーに車が停まった。



「ありがとう。向こうに着いたら連絡するね」



 翔平くんの顔を見ずにシートベルトを外しながら感謝を伝えた。シートベルトを外し終えて荷物を手にした時、不意に視線がサイドミラーを捉えた。ミラーに映った自分の顔が暗く沈んでいた事に息を呑んだ。何が今までで一番の顔だ。



「……酷い顔。なんて顔をしているんだろう、私。あっはっはっ」



 この顔がこれから夢を叶える為に挑戦する顔じゃない事ははっきりとわかる。希望に満ちた顔じゃない。



 翔平くんに振り向くと翔平くんも表情が死んでいた。まるで今の私の顔を投影したように。自分が沈んだ顔をしているよりも、翔平くんがそんな顔をしている方が辛かった。



「泣くんじゃないぞ、翔平。男だろう?」



「ばっ、ばか。泣いてねぇよ」



 その瞬間、携帯のカメラで翔平くんの顔を撮影した。画面いっぱいに翔平くんの慌てた表情が映っている。



 これもプリクラシールと一緒に東京に持って行こう。これを待ち受け画面にすれば、携帯の表面は翔平くんの泣いている顔。裏面のプリクラシールは私が翔平くんの頬にキスをして驚いている顔。これで少しは寂しさを紛らわせそうだ。



 とにかく今は前に進むしかない。こんな日もあったといつか近い未来に翔平くんと笑って話せるようになる日まで。助手席の扉を開けて、ロータリーに降り立つと背筋が少しだけ伸びて身が引き締まった気がする。



「バイバイ、翔平くん。元気でね」



「元気でな。帰ってくる時、必ず連絡しろよ?」



 翔平くんの車がロータリーを抜けて最初の交差点で赤信号で停まり、青信号になって左折をして見えなくなると、緊張の糸が解けたように、今まで溜まっていた感情が溢れ出した。



 周囲の視線を気にせずに、その場で膝から崩れ落ちて、地面に突っ伏した。声にならない声を噛み殺し、溜まり続けた感情を吐き出した。



 空っぽになるまで吐き出し続けた後、持ってきていたミニティッシュで鼻をかんで、手鏡で化粧が落ちてないか涙を拭いながら確認する。快晴の青空を見上げて、大きく深呼吸をした。



「よし、行きますか」



 改札に向かって歩みを進めた。私が描き続けた未来を叶える為に。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?