『暮色に包まれた中で四季咲きのような恋をした』第5話
【2010年】
青空が広がり心地良い風が吹く中で、私達が設計した幼稚園のオープニングセレモニーが開催された。
関係者達が壇上に横一列に並ぶ中に私も設計者代表として加わると、初めてのテープカットを体験した。テープカットが終わった瞬間、メディア達から一斉のフラッシュと拍手喝采を浴びると、初めての経験に戸惑いながらも感無量になった。
その後のテレビや雑誌の取材をモニカさんの通訳を挟んで受けるのも今日が最後だった。取材を受けながら過去を振り返ると、様々な困難の壁が私の行先を遮ってきた。その代表的な壁は、二〇〇八年に起きたリーマンショックで全世界に経済打撃を与えた。その影響が私にも及んで、一時期は工事が中止になった事もあった。
諦めかける度に私は宮田さんの事を思い出した。本来いるべき存在がいない事の不安や焦りが判断を鈍らせ、宮田さんがいない事に心細く、失った途端に存在の大きさを改めて知る事になった。当たり前にやっていた事が当たり前じゃない事に気付くと、より一層深みを増して宮田さんの存在の尊さや偉大さを噛み締める事になった。
幼稚園が完成間近になり外構工事に差し掛かり出した時に、クライアント達から宮田さんに対する感謝や敬意を込めたモニュメントの設置を提案された時は、涙が溢れて止まらなかった。
宮田さんがこれまで築いてきた信頼関係と人柄や想いを汲み取ってくれた事に深く感謝すると、敷地内で一番陽が当たって子供達を見渡せる場所に、宮田さんの名前と生年月日を刻んだモニュメントを設置した。その下に宮田さんからもらった指輪を埋めて私は手を合わせた。
取材が終わり関係者達に挨拶を済ませるとその場を後にした。事務所スタッフ達はその足で空港に向かい日本に帰るが、私はもう一泊だけする事に決めていた。長い付き合いだったモニカさんとも別れの挨拶を済ませると電車に乗ってバルセロナ市内に向かった。
これまで訪れる機会は幾度もあったが、私が手掛けた幼稚園が完成して見届けるまで訪れようとしなかった。それはサグラダファミリアが憧れの建物で思い出深い場所であったり、未完成ならではの芸術性が高いからこそ、刺激を受けてしまえば自分の価値観の変化で思考が定まらなくなる事が怖かった事など様々な理由はある。だが最も大きい理由はサグラダファミリアが贖罪教会だからだった。
これまでの人生、二十八年間を振り返りたい気持ちになる。夢が叶って今この場所にいるのだけれど、とても晴れやかな気持ちにはなれずにいた。それは胸の奥底や頭の隅に引っかかる何かがあり、今まで失ったものが多すぎるからこそ、言葉を選ばずに言うならば、それらを犠牲にして夢が叶ったとしか思えなかった。
人生という道を振り返れば、あの時にどうしてあんな事を言ってしまったのだろう。あの時にどうして行動を起こさなかったのだろう。あの時に言わないで行動を起こしていたらどうなったのだろう。もっと今より充実感を覚えながら夢も叶って、違った人生のステージがあったんじゃないかと思えもする。過去を想起して、自分がこれまで決断してきた選択を見つめ直したかっただけなのかも知れない。
いざ目前にすれば言葉を失った。未完ながらも厳かで神格な雰囲気と堂々とした出立ち。完成すればそれぞれが意味を成す十八の塔が建ち並ぶ事になる。これまでにいくつもの困難があったにも関わらず、建設資金は寄付と私達のような観光者達からの観光収益のみで賄っている。
それだけ全世界から注目を浴び続けながら、今なお一歩一歩前進している関係者達は誇りを胸に作業に取り掛かり、完成した姿を見ることが出来ずに亡くなってしまった、ガウディの無念を晴らす気持ちでいるに違いない。一説にはガウディが亡くなった後に内戦によりガウディの設計図等が散逸してしまったらしく、その後に職人等の口伝えや残っていた僅かな資料を基に建設が再開されたらしい。
サグラダファミリアには三つのファザードと呼ばれる門がある。ファザードは建築用語で建物を正面から見た時の外観の事。一般的な建物であればファザードは一つしかないのだが、サグラダファミリア級になれば生誕のファザード、受難のファザード、栄光のファザードと呼ばれるものが三つあリ、現在は工事中だが全部で十八の塔のうち、各ファザードにはそれぞれ四つの十二使徒の塔が設置されている。三つのファザードには物語があり生誕、受難、栄光はキリストの人生を象徴している。
生誕のファザード側は工事中だったために入る事が出来ず、周り込んで建物の南西側に位置する受難のファザードに向かった。受難のファザードはイエスの最後の三日間の苦悩と苦しみを引き立たせる為のデザイン。その為、精巧で卓越した彫刻は他のファザードよりもシンプルさを感じた。とはいえ美しい彫刻には変わりはなかった。最後の晩餐から十字架磔までの場面を十二の彫刻群で表現された彫刻のフォルムと神秘さには目を奪われた。
予約していた事前チケットを見せて内部に入る。色鮮やかに輝くステンドグラスの窓や樹木をモチーフにした白い列柱は枝分かれになっていて、まるで本物の樹のようだった。そのような厳かな空間の中でヘルメットを被って作業をしている人達が行き交い、周囲を見渡してみれば所々に作業板や資材が置かれていて、現実を目の当たりにする。神聖な場所なのにも関わらず、見慣れた光景を目にすれば、こんなビックプロジェクトに関われるのは同じ業界で働く身として敬意を表したい。
本当は地下の礼拝堂を訪れたかったのだが、その日は工事中で立ち入る事が出来ず、仕方無しにエレベーターに搭乗して最上部からバルセロナを一望すると、帰りはゆっくり螺旋階段を下った。下りながら、この螺旋階段がまるでこれまでの人生を逆行するような感覚に陥った。
二年前のスペインを訪れた日の夜。あの時、素直に前向きな答えを宮田さんに返していて、次の日に宮田さんを強引に飲みに連れていっていれば、宮田さんが電車に乗ってホテルに帰る事はなかったのではないのだろうか。もっと引き留めていれば、こんな悲しい結末にはならなかったのではないのだろうか。
完成した幼稚園は宮田さんを始めとしたスタッフで当初設計していた仕様や軽微な変更は最終的にあったものの、宮田さんがいたらもっとより良い建物になったのではないかと一抹な不安は残ったままだった。それはまるでキリストが犠牲の死を遂げて人類の罪を償って救いをもたらしたように、宮田さんに対する不幸を私の罪滅ぼしのように二年間、私はあの幼稚園を完成させる為に注力した。
ただそんな都合の良いように解釈する事は単に私の着飾った考えであり、そんな思念で携わった事を幼稚園建設の関係者に言えば綺麗事のように聞こえるだろう。宮田さんに対する想いや彼の為に完成させる事を第一に考えていた事に変わりはない。
ただ宮田さんがいないこれからの私は、どうやって建築の仕事を続けていけば良いのだろうと不安は尽きない。一つの夢が完結して師匠ともいうべき存在がいなくなった今、私の心は迷子になっていた。心が迷子になったまま、あっという間に螺旋階段を下り降りて、地上に辿り着いてしまった。
十年前の高校三年生だった私が、あれだけ夢焦がれて憧れていた夢がこうして叶い、世界遺産を訪れているのに、どうしてこんな気持ちになっているのだろう。十年前の私なら泣いて喜ぶ自分史上最大の事をやり遂げたのに心は晴れず、息苦しさを感じる。いざ憧れを手にして想像していた現実と違ったのかと尋ねられれば、そういう事ではない。そんな事はないと言い切りたいけれど、満足した気持ちにはなれないのも事実。
何かが足りないけれど、何が足りないかわからない、そんな気分だった。自問自答を繰り返している私を神様が見ているなら烏滸がましいが、救いの手を差し伸べて欲しい。
サグラダファミリアを地上から見上げる。途方もない設計をしたもんだと同時に偉大な建築家は、やっぱり化物だと思った。僭越ながら同じ職種だから素人より肌に感じる。誰かと競争したくて建築家になった訳ではないけれど、このサグラダファミリアのように上を見ればきりはないし、ここまで私には建築に人生を捧げる事は到底出来ない。建築の仕事が嫌いではないけれど、今のように立ち止まって自分の人生を見つめ直す必要があるのではないかと感じた。
「ハロー」
観光客がごった返す場所で、ありふれた言葉が耳に残った。私に向かって聞こえたようにも思えたので、見上げていた視線を地上に戻すと足元で小さな金髪の女の子が私に向かって笑顔を向けていた。その小さな両手は女の子の両脇に立っている恐らく両親が握っている。女の子同様、両親も笑顔を向けてきた。
「ハロー、センキュー」
目線を彼女まで落として手を振った。するともっと満面の笑みが返ってきた。
「ハブア ナイス デー バーイ」
そう言ってお父さんが片方の左手を私に振りながら足を進めた。彼等を見送りながら小さな女の子に手を振り続けていると顔に違和感を覚えた。頬に触れると頬が上がっていた。
私は笑っていた。ちゃんと笑っていた。懐かしい感覚に触れて胸が熱くなると、込み上げてくる生命力のようなものが溢れ出してきた。スペインに来て約二年、愛想笑いは随分上手くなったと思う。笑う瞬間に腹の奥底に力を入れなければ、笑った表情を作る事が出来なくなってしまった体になっている事を今になって気付いた。
まだ私は生きれる。生きる中でさっきの女の子や素敵な出会いと縁が私を待っている。そう思えるなら生きてみよう。生きて失敗して恥をかいて、強くなろう。強くなってまた夢を作って、夢を叶える為に頑張ろう。そうやってきて、夢が一つ叶ったのだから。
さぁ、前を向こう。意を決して歩みを進める。行き先は最初から決まっていた。その場所はスペインに発つ前にお母さんから聞いたレストラン。かつてお父さんとお母さんが出会った場所で日本人オーナーが開いていると言っていた。
ちょうど小腹も空いていたから足取りは軽かった。いくつかバスを乗り継いで辿り着いたバルセロナ市内の店。店前まで着くと香ばしい香りに混じって、トマトのような酸味の強い匂いが鼻腔についた。お母さんが訪れたのは二十年以上前だと言っていたけれど、店構えはいかにも高級宝石店のような黒と白のシックな仕上がりになっていた。
もしかしたら改装工事をしたのかも知れない。入口上部の店頭に『La china de Kikuchi』と書かれていた。カタルーニャ語で菊地のキッチン。間違いない、ここがお母さんが言っていたレストランだ。
店頭の窓ガラスに視線を向けると、数々の写真がショーウィンドウとしてフォトボードに飾られていた。そこには共通として一人の恰幅の良い白いシェフコートを纏った中年の男性と一緒に店を訪れた客だろうか、一緒に笑顔で席を囲むように写っている。ポラロイド写真のような、日焼けをしている写真だけに月日の流れを感じた。恐らく写真に写っているシェフがお母さんが言っていた日本人オーナーシェフなのだろう。
意を決して店の扉を開けると、まだ少女の幼さが残る若い女性スタッフが英語で店内を案内した。店内はランチのピークを過ぎた時間の為に客足はまばらだった。店頭と同じようにやはり高級感ある仕上がりになっている。黒をベースにした机や椅子、床とアクセントになっているグレーのレンガ調の壁紙。各席に北欧風のアンティークを思わせるペンダントライトもお洒落だった。
先程案内してくれた感じの良い柔和な笑顔を見せた女性スタッフにお勧めを尋ねると、ランチメニューがまだあるとの事だったのでそれを頼んだ。スペインに来てから色々な飲食店を訪れたが、ここまで接客対応が丁寧な従業員は初めてだった。恐らく日本人オーナーの影響なのだろうか。
待っている間に店内に視線を伸ばすと要所要所にキャンパスサイズの絵画が飾られていた。それらは日本の風景画のようだった。
私が座る窓際の席の壁上部には富士山や五重塔が描かれており、共通として全ての絵画にも桜が描かれている。オーナーの趣味なのだろうか。明日には日本に帰るけれど絵画を見ていると日本が恋しくなってきた。
やがて運ばれてきた前菜のトマトとモッツアレラチーズに食欲に火がつき、メイン料理のパエリアに舌鼓を打った。デザートのプリンに卵の濃厚さとキャラメルの香ばしくて滑らかなソースに感動し、食後のエスプレッソを飲みながら窓の外に流れる人通りを眺めていた。
こんなに美味しいお店ならもっと早くに訪れていれば良かったと後悔していると「お口に合いましたか?」と突然声を掛けられた。
視線を店内に戻すと立っていたのは白いシェフコートを纏った男性だった。三十代半ばくらいの爽やかで優しそうな目をしている。視線が合うと柔和な笑顔を見せて頭を下げてきた。
「この店のオーナーシェフをしている菊地です」
「えぇ、とっても美味しく頂きました。特にプリンは絶品でした」
素直な感想を口にすると菊地さんは感謝の言葉を述べた。
「やはり日本の方でしたか。同郷のお客様がいらっしゃると、なるべくご挨拶させて頂くようにしているんです。差し支えなければですが、当店をどのようにお知りになられたのか教えて頂けますか?」
聞けば日本人が訪れた際にアンケート的に聞いているらしい。今後の店の経営戦略に役立つかどうかわからないが、正直に話した。
両親が二十年以上前に訪れていて母親が勧めてくれた事がきっかけであり、自分はスペインで建築の仕事をしており、日本に帰る前に訪れた事を簡単に話した。
「……そうでしたか。お話を伺っていると恐らく父の代の時にお越し頂いたんだと思いますが、父は五年前に他界しまして。もしかしたら店前の写真にご両親と父が写っているかもしれません。父は日本の方や常連のお客様がお越しになられた際には記念に撮影していましたから」
先程覗いた時には見つからなかったが、帰りにもう一度探してみようと思った。こうしてお父様の気持ちと客との思い出を残す事は、きっと菊地さんにとって親孝行のつもりなのかもしれない。
「それにしても素敵な絵画ですね。こうして眺めていると日本が懐かしいです。もしかして菊地さんが描かれたものですか?」
「いやいや、私には無理です。あの絵は日本の常連さんが食事代を安くする代わりに譲ってくれるんです。私が彼の絵に惚れ込んじゃったのが運の尽きですね。こうして飾ればお客様にも好評で、それから彼は訪れる度に絵をくれるんですよ。まだ若いのに素敵な絵を描くんです。なんでも趣味の一つみたいで」
海外の人からすれば桜を見る機会は少ないだろう。日本の名所とともに描かれる桜はそれだけ魅力的なのかもしれない。現に私が目を奪われていた。
絵画に集中してすぐに気付かなかったが視界の隅に違和感を覚えた。横に振り向くと菊地さんが私の顔をまじまじと真剣な面持ちで見ている。咄嗟に口元に手を伸ばしたが、私の顔に食べ粕が付いている訳ではないらしい。
「……まだお時間ありますか? ちょっと見て頂きたいものがありまして」
私の返事を待たずに店の奥に小走りに去る菊地さん。何か思い立ったような、それとも思い詰めたような顔をしていた気がする。何だろうと少しの不安を抱えながら数分くらいだろうか。
待っていると菊地さんと一緒に現れた背の高いモデルさんのような綺麗な女性が菊地さんの隣に立っていた。菊地さんが隣に立つ女性を奥様だと紹介されて、目が合うと柔和な笑顔を私に見せたが、目の奥に期待と不安が混じったようなものが見えた。菊地さんがどうしてこのタイミングで私に奥さんを紹介したのか話の展開が見えて来ない。
「これを見てもらいたくて」
奥さんが私に差し出してきたのは一枚の絵画。サイズは店に飾ってあるA3サイズのもの。それを手に取って目に飛び込んできた瞬間、息を飲んだ。息の吸い方を忘れたかのように呼吸が止まりそうになる。目の前にある絵画から視線を外す事が出来ない。
見惚れているうちに次々と疑問が湧き起こる。何故、この絵が存在するのだろう。どうして、この絵がここにあるのだろう。自問を繰り返したところで、答えは出て来なかった。
何故ならそれは、あまりにも意外過ぎで、この場所でこのタイミングで目にする事が有り得なかった。
「この絵の女性って、あなたですよね?」
菊地さんの問いに私は「……わかりません」と自信無さげに答えると、奥さんが「この横顔、そっくりな気がするけど」と力強く異を呈した。
その発言をきっかけに、今度は夫婦でこの絵が私に似ている似ていない討論が始まった。その議論に終止符を打てるのは、きっと目の前にいる私だけなのに。
わからないとはぐらかしたのは、恥ずかしかっただけ。他人の空似な訳がなかった。この絵の中の女性は私なのだろう。
この絵が描かれている場所は、夕方の稲毛海岸。夕日に照らされた同世代くらいの若い男女が、砂浜に座り互いに見つめ合っている場面を俯瞰的に描かれている。
私が通っていた高校のバッグも描かれているし、隣に座っている男性は黒のスーツ姿だった。全体的に温かみがあり、夕日に照らされた男女を透明感があって自然な色使いで描かれている。
「あの……この絵はどうして?」
私の問いに不自然なタイミングで菊地夫婦の討論が止まると、互いに顔を見つめ合う。どっちが私の問いに答えるかどうか探りを入れている様子だった。沈黙が数秒続いた後にどうやら菊地さんが話してくれそうだった。
「その絵もそうなんだけど、ここに飾られている絵は、さっき話した日本の彫刻作家がくれたんだ。ただ、この絵も店に飾ろうとしたら妻が頑なに拒否してね」
「だってこの絵の女性は、きっとあの人が大切にしている人との思い出でしょ? それを店に飾ったらなんだか悪いじゃない? いろんな人の視線に晒されるのは気が引けるわ。あの時だってお金が足りなかったら泣く泣く私達に譲ったんだから」
「あの……この絵を描いた人は彫刻作家なんですか?」
一瞬、静寂が訪れると「そうだと聞いているよ。いつも団体の作家達で来ていてその中の一人かな。彼らは世界中を回って仕事をしていて、ここに来る前はフランスに行って新しく建てる美術館の柱を掘ったって言っていたよ」と菊地さんが話してくれた。
「絵はいつも船の中で暇つぶしに描いているって言っていたけれど、この絵はきっと特別よ。だって他の絵は風景画ばかりなのに、これだけ違うじゃない? きっとあの人にとって甘酸っぱい青春の思い出なのよ」
何だろう、この気持ち。胸が締め付けられて苦しい。確かに私にとってこの時の思い出は十年近く前の事なのに鮮明に覚えている。
絵のタッチから見て水彩画だろう。描かれている男女の未来の先に、今のような結末が待っているだなんて、当時は想像が出来ない。互いに愛しあっていた。ただ目の前の事だけに夢中になっていて、余裕がなかった。
そう言えば聞こえはいいかも知れないけれど、今になって思うのはそれは言い訳だった。時間が経つにつれて互いが過ごす環境や価値観が形成されていき、それが積もりに積もって、同じベクトルを進んでいたつもりが、自然と矛先が変わり二度と交わる事は無くなった。
「ねぇ、そう言えばもう一つもらったやつあったじゃん? あれ持ってきてよ?」
奥さんの指示で思い出したように菊地さんが、また店内の奥に走っていった。今度は先程より時間がかからず、戻ってくると手に持っていた物を私に差し出した。
「……これって?」
先程と同じように菊地夫婦はどっちが説明をするのか互いに見合ったが、今度は先ほどのように時間を要さず、菊地さんが察したように私に向き直った。どうやら夫婦間のパワーバランスは完全に奥さんが上手のようだ。
「いつものように絵をくれるんだと思っていたら、それを渡してきたんだ」
これも見覚えがある物だった。私がかつてクリスマスプレゼントにもらったステンドグラスのコップ。この流れから見れば、きっとそうなのだろう。彼からもらった物だったが、私が彼に返した物。再びこうして私の手に戻ってくるなんて奇妙な運命を感じた。
「こっちでは珍しい物じゃないからな。僕は絵を期待していたから拍子抜けして小言を言ったら、昔に自分で作ったって言ってさ。それにこのコップには仕掛けがあるって自慢気に話すんだ」
すると菊地さんは私の手からコップを取り上げると目の前のテーブルの中心に置いて、隣の空いているテーブルからテーブルクロスを取ってコップを覆った。
マジックでも始めるのかと期待と不安な状況でいると「クロスを開けて中を覗いて」と言われた。恐る恐るクロスを手に持って暖簾を潜るように覗くと、コップの底が緑色に光っていた。
私の驚いた様子に菊地さんは「俺も初めて見た時は驚いたよ」と自慢気に笑みを浮かべている。
「俺も詳しくは知らないが、建物の非常口の標識が緑色に光っているやつがあるだろう? 蓄光剤って言うらしいが、普段は光を溜め込んで暗闇になると光るらしいんだ」
こんな仕掛けがあるだなんて知らなかった。当然もらった時にその説明を受けた事は記憶にない。
次々と襲ってくる事実に面食らっていると「コップの底、覗いてみて?」と不敵な笑みを浮かべる奥さん。菊地さんも似たような笑みを浮かべている。
再び恐る恐る暖簾を潜るように暗闇に顔を入れてコップの口から底を覗くと、薄らと白い文字が見えた。
『頑張れ、沙耶』
その文字を認識した途端に溢れてくる物を止められなかった。狡い、こんなの狡すぎる。どうしてこんな事実に触れてしまったのだろう。触れたくなかった、知りたくなかった。この感情、この想いのせいで十年前に戻ってしまう。
「この仕掛けを見せられた時に沙耶って誰なんだって尋ねたんだ。そうしたら『俺の初恋の女だ」って答えたよ。あとは何だっけ『いつか世界的な建築家になる女だ』って酔っ払って言ってたな」と照れ臭そうに頭を掻きながら話す菊地さん。どうやらとっくに二人は私が沙耶だという事に気付いていたようだ。
「もしかしたらあなたにとって、私達がやっている事は余計な事なのかも知れない。勝手に私達が汲み取ってやっている事なのだから。それに男女の事なんだもん、赤の他人が割って入って過去の事を根掘り葉掘り尋ねる事は野暮な事。失礼があったら謝るわ」
奥さんが座っている私に向かって屈んで目線を落としてきた。大人の女性だと思っていたけれど、やっぱり私より年上の三十代な気がする。この人がこの事実を私に伝えるきっかけを与えた人。この戸惑っている状況で、この人の行いが私にとって良かった事なのかどうか、判別がつかない。
「それでもね、私は見過ごせなかったの。お節介だと思われてもいいわ。だって、この絵とコップから今でもあなたの事を大切に想っているのが伝わるんだもん」
「でも私達は別れたんです。それに向こうからフったんですよ? だから──」
「今のあなたの顔、あの人と同じ顔をしている。まるで行き先を見失って暗闇の中を手探りで不安を抱えながら歩いているみたい」
彼は今、何をしているのだろう。私と別れてからどんな辛い事があってどんな気持ちを抱いているのだろう。次第に頭の中は彼の事でいっぱいになってきた。
「これ、もらったのはいつですか?」
「昨日の夜よ」
もしかしてまだスペインにいる?
そんな事を考えたら心が浮ついてきた。
「もしかしたら彼、まだ港にいるかもしれないわね」
奥さんと目が合うとウインクしてきた。悪戯っぽい笑みを浮かべて。言わんとする事はわかっている。私だって直ぐに行動に移したかった。
逸る気持ちを抑えられない。だから代金を渡して二人に頭を下げると急いで店を出た。先ずは翔平くんの携帯に電話をかける。まだこの番号で合っているなら繋がるはず。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません』
「嘘でしょ?」
近くの港なら一箇所心当たりがあった。意を決すると私は無我夢中で走り続けた。道中では不安と緊張で鼓動が波を打ち続けて、記憶が再生される度に会ったところでちゃんと話す事が出来るのか心配になる。
居ても立ってもいられない衝動に駆られて、こんな行動を起こしたけれど、我に返って反省して、また時間が経てば想いは募るの繰り返し。ただ考えるより先に体が動いていた。それがなによりも今の私の気持ちを証明していた。
潮の香りを全身で受けながらバルセロナの並木通りのようなクルーズポート沿いを走り続けると、視界に大型クルーズ船を捉えた。この船に彼が乗るのかわからない。ここまでした所で会えるかもわからない不確定な事実。荒ぶる呼吸と額に汗を滲ませながらここまで来てしまった。
彼はこんな展開を望んでいたのだろうか。どうして菊地さん達に未練がましく私の事を話したのだろうか。私がこの事実を知って、彼は何を期待したのだろうか。疑問が疑問を生み続け、果てしない問答が脳内で繰り返される度に、私の足は力強く前に踏み出され続ける。
遠くで長い汽笛が三回、木霊のように聞こえてきた。視界に捉えた港に止まっている白い大型のクルーズ船。人々が行き交い、多くの船が停泊している桟橋を抜けた所で、無情にも船は出港していった。
「まっ、待って。ちょっと待って」
必死の呼びかけにも当然のように耳を傾けないクルーズ船。広大に広がる青く透き通ったバレアス海に吸い込まれていく。どこまでも続く水平線に向かって。
「……何よ、何なのよ」
防波堤の先端に到達して足を止める。呼吸を整え始めるとクルーズ船がどんどん遠ざかっていく。
「翔平くーーーん」
聞こえる訳がないのに、クルーズ船に向かって叫んだ。
「翔平くーーーん」
何事も優柔不断だった私が、衝動的に動いて気付いた事があった。
それは頬を伝って涙が流れる度に確かな物に変わっていく。
「翔平くーーーん」
私は今でも翔平くんが好きだった。
日本に帰国した私は、その足でお母さんが入院している孝くんの病院に向かった。
お母さんは三ヶ月前に脳梗塞で倒れた。軽度の脳梗塞だった事が幸いして命に別状はなかったものの、右半身に軽度の麻痺が残っていてリハビリ生活が続いている。
病室を訪れると、ベッドに横たわるお母さんとその横に田切大和さんがいて談笑していた。近づく私に気付いた田切さんが柔和な笑顔で出迎えてくれた。
田切さんは近所の花屋の店主。スペインに向かう前にお母さんから関係性は聞いていた。物腰の低さと恰幅の良さが相まって人柄の良さが滲み出ていた。お母さんより一つ歳上のようで、こうして献身的に見舞いに来てくれていた。一人暮らしのお母さんが自宅で倒れた時に訪問の約束をしていたようで、田切さんの発見が早かった事が不幸中の幸いだった。
「あら、帰ってきたのね。おかえりなさい」
「ただいま。田切さん、いつもありがとうございます。これ、お土産です」
成田空港内のご当地ショップで買った北海道名産のクッキーを渡すと喜んでくれた。ベッド横のテーブルに色鮮やかなブリザードフラワーが添えられている。本当に田切さんには感謝している。
「お母さん、体調はどう? 前に会った時より顔色良さそうだけど」
「そうね。リハビリも順調よ。ほら、大分右腕も上がってきたのよ?」
お母さんは当初、まともに動かす事が出来なかった右腕をゆっくりと上げた。まだそれほど高く上げる事は出来ないけれど、ゆっくりと前に進みながらリハビリを頑張っているお母さんを見て涙が溢れそうだった。
「沙耶さん、車に戻っているので帰りに声かけてください」
そう言って田切さんは病室を出て行った。どうやら気を遣わせてしまったらしい。田切さんが座っていた椅子に座ってお母さんと向き合った。やはり以前より血色も良くなって元気そうだった。
「そうだ、お母さんが言っていたレストラン行ってきたよ。これ、憶えている?」
菊地さんの店前に飾られていた数々の写真の中を探して見つけた、お父さんとお母さん、そして菊地さんのお父さんが三人で写っている写真。二十年近くの月日の経過を感じさせる色褪せてしまった写真だけれど、テーブルを囲んだお父さんとお母さんの笑顔ははっきりとしていた。
恐らく写真に写っている当時のお母さんは今の私より歳下だけれど、セミロングで大人っぽかった。写真は菊池さんから譲ってもらった。
お母さんは渡した写真を左手で受け取るとまじまじと見つめている。お母さんにとってお父さんと出会った思い出の場所。当時を想起して想いを馳せているのだろう。
「あとね、当時のオーナーシェフは亡くなっていて、今は息子さん夫婦が跡を継いでいるの。ランチを食べたんだけどパエリアとプリンが絶品だったんだよ」
「……そうだったのね」
感慨深そうに見つめているお母さん。右半身に麻痺が残りリハバリ生活が続いて、以前のように絵は書けていない状態を察すると胸が痛い。絵を描くことはお母さんにとって生き甲斐であり、生命線だった。少しでも喜んでもらえるかと思って見せた写真が、逆効果になってしまったのかと考えてしまう。
「ねぇ、沙耶? もっと話聞かせて?」
「……えっ?」
「沙耶がスペインに行って何を感じて何を考えたのか、私が倒れる前に一度帰ってきた時に話は聞いたけど、それから今日までの話を聞かせてよ?」
お母さんは決して弱くなかった。目を輝かせて娘の成長に期待をしているのかも知れない。それなら包み隠さず話そうじゃないかと意を決した。
積りに積もった親子の話は尽きない。その間のお母さんの笑った顔、怒った顔、同情の顔、喜んだ顔、いろんな表情が見れた。本当にここまでお母さんが元気になってくれて田切さんの献身的な支えに感謝だった。
「そろそろ行くね」
「あら、もう行っちゃうの?」
「この後、里香と会う約束しているの。それにあまり待たすと田切さんに悪いから」
するとお母さんは照れ臭そうに顔を赤らめる。こんな表情もするようになったんだって思うとお母さんが可愛く見えた。最後に家から着替えや何か持ってくるものがあるか確認してから病室を出た。駐車場に向かうと軽トラの荷台で何やら作業をしている田切さんを見つけたので向かった。
「お待たせしました」
荷台で中腰になりながら背中を見せている田切さんに声をかけると、驚いた様子で振り返り荷台から降りてきた。
「もう、良いんですか?」
「えぇ、お気遣いありがとうございました」
「いえいえ。親子水入らずで話したい事は沢山あったでしょうから」
お母さんが倒れた時に私はスペインにいた。その時にお母さんの携帯を使って連絡をくれたのは田切さんだった。その知らせを受けて私は仕事を先延ばしにして日本に帰国して病院に向かうと、待合室でその時初めて田切さんと対面した。
手術を終えて目を覚ますまでの間、生意気にも田切さんがどんな人なのか値踏みをしていた。田切さんという存在は、随分前からお母さんから聞いていただけに多少の先入観は持っていたものの、想像通りの優しい人だった。田切さんは十年前に奥さんを病気で亡くしていると知った時、互いに愛した大切な人を失った者同士で惹かれ合ったのだと知った。
お母さんの手術が無事終わり、その後の生活について孝くんのお父さんと孝くんから説明を受けた後に、まだスペインで残っている仕事とお母さんの介護を天秤にかけてしまった。
少なくともお母さんの容態が安定するまではいるのは絶対とした場合、その先の仕事をどうするのか。説明を受けた事を待合室のロビーで待っていた田切さんに話すと、私の心情を察したように自らお母さんの介護を名乗り出てくれた。
その後に目を覚ましたお母さんを交えて三人で話をした時、お母さんの田切さんを見る目が安堵に包まれていた。その瞬間、もうこの人がいればお母さんは大丈夫だと安心してしまった。
お父さんが亡くなって今までお母さんと二人三脚で過ごしてきただけに、少しだけお母さんを取られてしまったような寂しい気持ちが残る。けれども今のお母さんには絶対必要不可欠な存在の田切さん。私がまだ親離れが出来ていないだけの事。
「お店の方は大丈夫ですか? 負担になっているようでしたら申し訳ないです」
「主に配達がメインだから。配達先も近場が多いから大丈夫ですよ。それに好きで来ていますし、沙耶さんも顔を出してくださいね」
まだ、この二人の距離感が難しい。あんまりお母さんを尋ね過ぎても二人の邪魔になりかねない。そればかりは今後の課題としよう。
里香との合流もあるから帰ろうと踵を返した時、田切さんに呼び止められた。荷台に再び上がってなにやら漁り出すと荷台から降りて差し出してきたのは一輪のすずらんだった。
「造花ですけど、良かったらもらって下さい。最近、ブーケにしたり鑑賞用としても人気なんです」
造花ながらもしっかりとした質感と白く小さな花の部分が奥ゆかしさと可憐さを感じる。そういえばお母さんのベッド横にも飾られていた気がする。
「ちなみに花言葉は、幸せの再来。純粋、謙虚って言われています。沙耶さん、スペインで大きな仕事を終えて戻ってきたんでしょ? お母さんからいろいろ聞きました。沙耶さんのこれからの人生に幸せが沢山ありますようにって願いを込めて」
田切さんに御礼を述べて別れた後、一旦家に戻って荷物を整理したり着替えを済ませた。その後に里香に連絡を取ると家まで車で迎えに来てくれた。
里香は去年、男の子を出産して東京から実家に戻って来ていた。今日はお母さんに子供を預けて来てくれていた。夫の司くんは東京で今でも仕事をしながら休みの日にはこっちに帰って来ているらしい。里香はすっかり母の顔になって以前のような派手な化粧も落ち着いて少しぽっちゃりしたせいか、逞しくなった気がする。
出会って早々に五井駅前のパーキングに車を停めて近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、ガールズトークに華を咲かせた。その中で菊地さんのレストランでの出来事を話すと一瞬、里香の目が泳いだ気がした。口元を噛み締めて何かを言いたがっている様子。
私は狡い女だとつくづく思う。里香を呼んだのは翔平くんの現状を知りたかったからだった。菊地さんのレストランの一件で翔平くんの身に少なくとも何か変化があったはず。
翔平くんとは里香の結婚式の後に会ってから最後だった。だからこの約四年の間に何かがあったに違いない。どうして世界を周りながら彫刻の仕事をしているのか。会社はどうなったのか。菜々子さんとはどうなったのか。疑問が疑問を生み続けて悶々としていた。
「そうか……沙耶はスペインに行っていたから知らないんだよね」
口火を切った里香の口から溢れた話は衝撃だった。私がスペインに出発して間も無く、会社が倒産した事。菜々子さんとは離婚した事。会社の借金があって債務整理、自己破産をして孝くんや司くん達も連絡が取れなくて心配している事。ただ二人には行方がわからなくなる前に連絡があったようで、しばらく留守にすると一言だけあったらしい。
「でもそのコップの事があるから、一先ず元気に生きている事は間違いないって事だね。ちょっと安心した。司と孝くんにも伝えておこうかな。きっと彼等も心配しているだろうし」
ステンドグラスのコップは菊地さんから譲ってもらっていた。結局、私の手に戻ってきたこのコップに何か運命的なものを感じざるを得ない。結局、大まかな事実しかわからなかったけれど、翔平くんに繋がるきっかけになりそうな事まではわからなかった。
最後にどうしても行きたい場所があった。里香の運転で向かった先は市原市内の八幡神社。この場所は毎年、新年の挨拶にも参拝するし、大学受験の合格祈願でも訪れていた。勿論、お母さんが入院する事になった時にも参拝している。祈りが通じたのか、お母さんの病状も順調に回復している。感謝の意味も込めて参拝に訪れたかった。
鳥居を潜る前に会釈をして、手水で心身を清める。里香はどうやら参拝方法に疎いようで教えながら境内を進んだ。平日の午後という事もあってなのか参拝客は見当たらなかった。
この境内に流れる澄んだ空気が好きだった。心が落ち着き、全身に流れる澱んだものが綺麗になっていく気がする。鼻から息を吸い込み、口から吐くと体が軽くなった。
御神前へ進んで会釈をしてから賽銭箱にお賽銭を入れる。拝礼済ませた後に、社務所でお母さんに健康祈願のお守りを買っていると里香が「せっかくだから絵馬も買わない? 願い事しようよ」と勧められて絵馬も買った。
互いに願い事を書くと見せ合った。里香は家族三人がこれからも幸せに過ごせますように。私はお母さんが元気になりますようにと書いた。互いに書いた願い事を絵馬掛所と呼ばれる、木の板で出来た場所に掛ける。全体的に掛けている絵馬の数は少なくて、空きがちらほら見受けられる。
他の人の絵馬に被らないように空いた所に掛けていると「ちょ、ちょっと沙耶」と里香が突然大声を挙げた。自分の絵馬を掛けてから里香が指差している絵馬に視線を合わせると息を飲んだ。
『中村沙耶の夢が叶いますように 山本翔平』
衝撃が全身を駆け巡り、その場から動けない。思いがけない事に絵馬から目が離せず、全身が固まった。どうしてここに翔平くんが書いた絵馬があるのか、理解が追いつかない。それに絵馬に書かれていた日付は三日前だった。
「ねぇ、沙耶? これって翔平くんのだよね? 絶対そうだよね?」
興奮した様子を見せる里香だったが、内心私も気が昂っていた。何か翔平くんの手掛かりがないかと里香と話し合った末に再び社務所を訪れて事情を説明すると、奥から中年くらいの銀縁眼鏡をかけた宮司さんが姿を見せてくれた。
もう一度事情を説明すると最初は渋っていた宮司さんだったが、私達の粘り勝ちと呼ぶべきか、宮司さんは無言で足を絵馬掛所まで進めて翔平くんらしき人物が書いた絵馬の前に立って見つめていた。
「ここ四、五年くらいかな。この時期になると彼はここを訪れていますよ」
口を開いた宮司さんが私を優しい目で見つめながら話し出した。
「見た目は至って普通の男性ですから、最初は気にも留めませんでした。ですが一定の時期に訪れて、一定の行動を行い続ければ必然とそれは目に留まります。小さな小石を水面に落とせば水面は波状に広がり、やがて大きな波になるように。それが去年の事です。私が境内を掃除している時に彼は絵馬を掛けていました。何気なく挨拶をしたんです。すると彼は『いつもありがとうございます』と答えて去って行きました。それから約一年後、それが三日前の事です。再び彼は現れて絵馬に願い事を書いて、絵馬掛所に絵馬を掛けていました。私が挨拶をすると彼は少し疲れた様子でまた『いつもありがとうございます』と答えて去って行こうとしたので、絵馬を見て咄嗟に『あなたの願い事はきっと神様が叶えてくれます」と声をかけました。すると彼は立ち止まって深く頭を下げて去って行きました」
話を終えた宮司さんに頭を下げると去り際に宮司さんが「あなたの夢は叶いましたか?」と尋ねてきた。私が大きく何度も頷くと安心したような笑顔を見せる宮司さん。
「彼に感謝しなければなりませんね」
去っていく宮司さんに里香と一緒に深々と頭を下げて感謝の言葉を述べた。
「話を聞く限り、翔平くんっぽいよね? 沙耶だってそう思うでしょ?」
溢れてくる涙と嗚咽が止まらない。呼吸が上手く出来ないほどにあらゆる感情が押し寄せてくる。ずっと今まで翔平くんが変わらずに私の事を見守ってくれていた。あの時、大学受験で困っていた十年前から何も変わらずに。
泣き弱っている私を介抱しながら近くのベンチに座らせてくれた里香。里香が差し出したハンカチで涙を拭い、背中を擦ってくれていると気持ちが落ち着いてきた。
「沙耶は幸せになっていいんだよ? 今までいろんな辛い事や悲しい事が沢山あったと思う。でもそれらひっくるめて、沙耶は今まで頑張ってきたじゃない? もう沙耶は報われていいんだよ? 神様だってきっと言ってくれているって」
隣に座りながら私の背中を擦ってくれる里香の言葉が暖かくて安心する。親友からの言葉は気分が落ち着いた。
「沙耶はさ、今でも翔平くんの事が好きなんだね」
「……うん、そうみたい」
「はぁ、全くなに勝手に応援しているんだよって話だよね。連絡も取れずにふざけんなってならない? あいつどこを歩き回っているんだよってさ。こっちの気持ちも少しは考えなさいよ」
泣き弱って空っぽになった私の胸に里香の焚き付けが様々な感情を植え付ける。言われてみれば確かにそう思えた。菊地さんのレストランに訪れて、菊地さんから話を聞かなければ知る事はなかったし、こうしてたまたま絵馬を見つけなければ宮司さんから話を聞く事もなかった。
自分が大変な状況になったのに、人の心配ばかりしている。なんてお人好しなのだろう。この抱えている気持ちを翔平くんに伝えたい。それなのに遠回しなやり方で遠くから見守り、私を応援し続けている翔平くんは狡いし、なんだか卑怯に思えてきた。
「確かに、何だかムカついてきた」
「でしょ? 一回会ってちゃんと言ってやんないと駄目だよ」
「私、翔平くんに会いたい。会って一発ぶちかましてやりたい」
もう私は迷わない。絶対に翔平くんに会って、この気持ちを全部ぶつけてやるんだ。
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