見出し画像

都会vs田舎...いやいや元は兄弟ではないか。ー柳田國男を読む_06(「都市と農村」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

『柳田國男全集29 』ちくま文庫(1991)


序論

 今回のテーマは普段のものとは様変わりした農業問題に関するものです。とりわけ、当論文は農業問題というより、そこを起点に日本経済の構造を解剖する形式が窺えます。

柳田國男といえば、民俗学という印象ですが、彼は東京大学卒業後、農商務省に勤務し、同省農政課に一年半ほど所属していた経歴があります。なので、割と農業ないし農政に関する論文がいくつか残っているのです。
別の論文の付記では、役人を辞めた後、「旧来の農政学問は世の役に立たぬ」と思い至り、関連蔵書は全て帝国農会へ寄付したが、渡欧後、これが早計であったことに気づいた。しかし、もう新たな農政の学を立てる気力はなく、この学問は一端途切れた...との趣旨を述べられています。やはり当分野には、相当の関心があったのでしょう。
折口信夫も「先生の学問は、狭く見れば経済史学に帰する愛が土台になっている」旨の発言をされていることから、実は民俗学のあの異様な情熱もここから発せられているのではないかと勘ぐりたくなるほど、興味深い分野かなと私は愚考しておりますが...まぁ、8ビット程の解像度の低い、低学歴の考察はこの程度にして()

閑話休題。地方消滅やら東京一極集中、地方の人手不足などは昔から絶えない政治的・経済的、そして何より世間的話題ですが、そこでは、都会派・田舎派なるものが不毛な議論を続けている印象があります。当論文が執筆されたのは、金融恐慌の翌々年、つまり昭和のはじめ頃でありますから、もうこの頃から世間的不安と併せて、そういう不毛な議論が巷を賑わせていました。そこで柳田は「都市に永く住みながら都市人にもなり切れず、村を少年の日のごとく愛慕しつつ、しかも現在の利害から立ち離れて、二者の葛藤を観望するの境遇に置かれ」ているある種、文明の境界人ならぬ高学歴の境界人()として、農民ないしその従兄弟である都民に力説されました。

その一端を少し覗いてみましょう。

本論

都市の真の支持者は農民である

...村が今日の都人の血の水上であったと同時に、都は多くの田舎人の心の故郷であった。村の多くの旧家の系図を見ると、最初は必ず京に生まれた人の、落ちぶれてヒナに入って来たことになっている。その他鎮守の御神の勧請であれ、開山大和尚の招待であれ、大切なものは皆いわゆる上方であった。

同書 341頁

 日本において、中国やヨーロッパのように城壁を張り巡らせて、市民と称し、孤立した都市利害ないし田舎と対立する形を取っていたか(最も近世では人口過剰によりその囲いが邪魔物扱いとなるが)と疑問を呈した上で、江戸・大阪とて、そこに、定住しているのは、二代三代前の移住者であり、大半は村の町に在る者だとして、安易に海外の例を引き出し、その用語を用いることに警鐘を鳴らしています。
田舎はもとは村の中央にある耕地をイナカから発する、民居の中間を意味するものだと柳田氏は分析しています。その漢字とて所領内の農戸を指す程度であり、荘園という語に近い言葉であるとのこと。

少なくとも求心力のある都市は太古より美雅な京都であり、雑多な中小都市(さほど村と変わらぬ)が人々を魅了し、京都と同程度の求心力を持ち得るようになったのは、室町時代あたりからの軍都即ち城下町であり、大名が去ってもそれを支持していたのは、残された一部の士族ではなく、周辺に住む農民であったそうです。確かに、人々が町おこしやら何やらで何々大名の知行の土地云々で盛んにお国自慢を宣伝するのは、旧家のそれではなく、その領民ないし農民たちであるのは、今もさほど変わらぬ気がしますね。

農民の加担がもしなかったならば、多くの都市はとてもこれだけの成長もせず、存続して今日に至ることを得なかったのである。

同書 344頁

農民は昔から副業をしていた?

都市の威力が村落を衰微せしめた事実がもしありとすれば、それは農業の一本調子を煩雑に導いたという点より、むしろこの自然に反した生産の単純化であったろうと思う。...専心に一種の生産に働く方が、有効であることは明らかであるが、よほど古い頃からわが日本には、そういう意味の純農村はなかったのである。埋立開墾などの米田一色と称する部落でさえも、畔には大豆を播き、土手の根には菜を作り、軒には鶏を飼い背戸には竹の子を育てて、売れるならそれも売ろうとしている。手が剰るから少しは夏蚕でも掃き立ててみようといい、もしくは頼まれて隣村の茶山にも働きに行くというのが、何で単一なる農業と言われようか。...しかるに人はしばしば概念に囚われて、これら特殊の農業は十分に愛護しながら、他の同種の事情の下に成長せんとした生業の、いわゆる農の定義に入らぬものを疎外した。そうして都市の資本力が、代ってその方面を経略することを省みなかったのである。

367-368頁

最も農村衰微の影響をはじめに被ったのは山間僻地であり、平野部の純農村が悲観を感じ始めたのと同じ原因がそれを進行させていたと柳田氏は分析しています。
我々の祖先とて、あの淋しい土地にわざわざ入って住んだのも、そこで純農業が行われているからではなく、衣食住の最低限を支える程度に過ぎぬことは承知で、種々の添挊(副業)が豊かであることが頼み綱だったとは確かに、今日でも見落としてしまう観点ですよね。
しかし、今日において、それらは、すなわち遠い人にとって替わられ、林野(緑肥ないし肥料の淵源)を一つとっても都市資本が入った。必要な時は他所から補充し、必要なければいつでもこれを放棄し、山は手をつけぬ方が最も有利なる投資法であると思い至っている...この様では、農村のごとき永遠性あるものが、山間部その他に存続する余地はないと柳田氏は述べています。

市場の中央一極集中

我々の農村の生産物は、今でもまだ種類だけはたくさんにあるが、その中幾つかのいわゆる目ぼしき商品、すなわち市場の干渉を受くる物を除けば、他はことごとく地方の相場によって、自由にその評価を変動している。居住者の生計費がこれと調和を取って、日用の資料を選択配合し、最も土地に適した生活を続けて行くことが、広い意味の自給経済であった。
こうして村限りの物価のまちまちであったことは、いまだかつて一国全体の安寧に、迷惑を及ぼしたことはないのである。それを少しでも数量が纏まり、貯蔵運搬の見込みあるものは、片端から取り上げて想像上の商品にしようとするゆえに、勢い地方消費者の経済は掣肘せられざるを得ないのである。

389-390頁

地名に名残を見せるかつての五日市等の地方の小市場は無論、今でも生鮮品などはその日、その土地の相場が夙に影響してきますが、何より地方状況を反映するものとして、中央の市場のそれより、地方地方の相場がよりダイナミックであり、実地的であるのは論を俟たないでしょう。

この「無用の統一」については、鉄道分野に関しても述べられていて、都市資本の意向を傾聴したあまり、東京の近道として鉄道網の輻射線式が進められ、地方または隣村で交流していた道路ないし水運は悉く衰退し、山を貫く鉄道がそれを無類と僻村と化し去ってしまった。中央への交流を急ぐあまり、今では隣村同士の交流その他を中央に紹介せられる始末であると批判を加えています。

また、不要な商業については、語気を強める印象で幾度かこれを批判し、またそれに便乗する放縦な都市の消費風俗も併せて非難しています。

...しかるに世には彼是屋が用もない門に訪れて、辞を設け仕事を作ろうとする態度を憎みつつも、他の消費業者の機構にはいと安々と乗っている者が多い。地方生活の要求は必ずしも究められず、流行らせると称してまず商品を用意し、次いで新たに欲望を植え付けている。ことに口惜しいと思うのは、種々なる模擬品や時おくれ品、ローズ物が、田舎向きと称して余分の大割引の下に、村の隅々までも行き渡ろうとしていることで、村民の新職業は打ち棄てておくと、たいていは皆この手先になってしまう。
...とにかく我々の間には無用の商業があり、不必要の消費がある。そうしてまた無益なる輸送があるようである。こういう島国において、行戻りに石炭と人の労をむだにすることは、かりに荷主側の勘定は引き合うにしても、国としてはまさしく不経済である。...中央市場の強大なる管理権は、主として田舎を相手とする商品の数量が基礎であり、今ある販売機関はただ彼等にのみ利用せられている。地方が自主的に消費を整理すれば、彼等の仕事の半分は不用になる。...生活の上に意味があるかないかは、問うところでないというような商業の繁昌は、ひとりこれを支持する大都市の名誉でないのみならず、またこれを可能ならしめたる農村の恥である。

同書 528-529頁

いわゆる卸売業などの中間業者のことを暗に批判しているようにも思えますが、当業界への批判は、今でも根強いものはあります。その労力も確かに甚大なものであるようにも思えますし、彼等の負担軽減すれば、また中央市場の統制は適度に緩み、地方の市場が再興する...そんなイメージでしょうかね。それにはまず、消費者の消費自主が必要不可欠とのことですが、費用が嵩むのは多頻度の小ロット(小口)での輸送取引であり、それには消費者の需要があってのことですから、この全体の関係性の紐付けはまず念頭に置きたいものです。

最もこのような「不用な商業」への対策は企業が物流部門を併合し、なるべくその部分をカットして、直接送り届けるような取り組みも盛んですし、輸送にしてもその空き分の余力を効率よく使用するために、他企業との空きトラックの連携やまた小規模な輸送屋へのデジタルを駆使したリアルタイムの情報提供サービス等々、その隙間を埋める企業努力は随所で窺えますから、一概にこれを現在の経済構造として批判することには留保が必要かなと個人的には思います。
何より柳田氏は「市場組織の改良に関しては、生産者がその責任と権能の大部分を持つべき」との旨を述べられていますから、生産者と消費者をなるべく近く、そして生産者になるべく力が行き渡るように現状なっているか、その確認作業が必要なのかもしれません。

都民と農民は元は兄弟

...村の四周に少しでも切添の余地があり、親の苦労でまだ一戸の新屋が立てられるうちは、たとえ次男坊でもなるべくは年々戻って、村の農事に親しまんことを望むのが情である。土地が皆開かれてそれぞれ持主のある田畠になってしまうと、金を溜めてからでないと還って来ても仕方がない。その出稼ぎがいま一際長くなれば、村の事情も自分の心持も、もうその間に変ってしまって、遊びによりほかは還られなくなるのである。...送られて村を出た者に還って来ようと思わぬ者は、元はほとんとなかったと言ってもよい。それが後々はこの結果が予想せられるゆえに、むしろ始めから本人の技量相応に、僧なり商人なりまた職人なりに、仕立てるつもりで村を出すこととなったのは、とにかくに思慮の進歩であって、もし失敗であったとしたり、それを経験として、さらにより善き道を捜すまでのことである。これを盲動と目して一括して警戒しようとするなどは、よっぽど農民の能力を見縊った話である。

同書 435頁

柳田はこの章で日本の離村の歴史、すなわち商人とて行商として村々の往来する歴史があり、とりわけ雪深く耕地が乏しかった越中などは、その修行ないし商いに従事する者が多かったといいます。三井家の祖先は近江の朽木の谷が出自であり、近世の冬季奉公でいえば、江戸で散見できる越後屋とて、越後伝吉なる講談のネタが有名でしょう。
彼らとて、土着するケースが多いといえど、還ってくる場合もある。しかし、村々はそれを歓迎とせぬ所があり、それはやはり耕作面積に比して、人口が過剰であったことを柳田氏は再三説いています。とりわけ明治ごろになると人口は急速に増えていきますので、やはり、還ってきても、その余力がなかったという事情も十分考慮する必要があり、そこを見事に喰らい付いた柳田氏の慧眼にはやはり感服させられますね。

...いかなる時代においても、労力は常に農村の主要産物の一つであった。...いまだかつてその供給を仰がずに、進歩したる社会もなく、建設せられたる文化もないのである。ことにわが国の農村労力には、誇るべき幾つかの特色があった。村の静思に養われた堅実なる社会法の承認、天然の豊富によって刺戟せられたる生産興味、それとは独立した精緻なる感覚と敏活なる同化性のごときは、いずれも他の文明諸国のいわゆる不熟練労働者の間には、とうてい見出すことのできぬものである。ひとり都会がその輸入を塞がれたら、今でもたちまち老衰に陥るというのみでなく、農村自身もまたその年久しき相互の融通によって、始めて現在の繁栄まで、到達することができたのである。

同書 437-438頁

つまりは、お互い様ということでしょう。極めて平凡な目新しくもない言葉ですが、この基本的事項をも忘却の彼方へ飛ばし、不毛な都会・田舎優越論争に終始している様を見ると、まぁ、嘆息が出てしまいます。
柳田氏は後述で、「できもしない移動抑圧手段に苦労する前にまず働こうと来る者の立場から仕事の割振を考えてみよ」との旨を記されています。

自治教育の必要性

...新国家の統一教育は高く唱えられ、もっぱら読書算筆の習得によって、従前役人となり町民となるに適した生活準備を、あらゆる農村の童児にも付与しようとした。彼等を村の人たらしむるために、最も有効なる期間がその学校の中へ持ち込まれた。保守固陋の嫌いはあったか知らぬが、永い年代の実習を積んだ自治訓練、うまく行けば都市へもその恩沢を頒ち得た耳の学問が、その無筆謙遜なる老教師の引退によって、突如として伝統の糸を絶ってしまった。そうしてわが村の生活を、書物で研究しようという人ばかりが多くなったのである。...国語の読本を別々にするくらいな小刀細工をもって、農村の生気を喚び覚ますことができると思うように誤まったる先輩の意見に盲従してはならぬ。

同書 518-519頁

まぁ、詰まる所、わたしみたいな読書から得ようとする不届者に盲従してはいけないということでしょう()

ただ、この柳田民俗学のキーポイントとして挙げられるいわゆる「伝承」一個とっても、古老は黄金時代の長談義を説くあまり、新たな村の平等観すなわち組合生活に必要とする人物の養成を怠り、農村人としての自尊心養成を疎かにしたと述べられています。

この組合は近代資本主義に必要な一定の資本力の確保という面で度々取り上げられるのですが、具体的な農業政策の話に入っていくので、詳細は別日の論稿で紹介したいと思います。

にしても、「柳田は伝承に関する分析を疎かにした」と言われますが、彼の関心範囲があまりに広いことは前提に、上記のように屡々問題意識を持って取り上げているのですがねぇ...まぁ、いいか。

(余談)農村労働の活気

田植えは農村の一大事業であったことを否定する人はいないでしょう。村のあの独特な同調性が香るのも、とりわけ今日のような収穫時期になると、下男、小作、近世となると奉公人、近代では日雇を総動員しなければならなかった経済的事情を念頭に置かねばなりません。
ここでは、その田植えの際に活気づけるための田植え唄を紹介しています。

あがれとおしゃれ田ぬし殿
人は一度で懲らさぬものよ

同書 456頁

ここでいう田主殿とはその地主のことですが、田植え唄にも地方様々なバリエーションがあり、活気よくまた豊穣を祈念する決まり文句も散見できますが、日が傾く頃には疲労も見えてきますから、腰が痛いなど、割りかし楽な労働を担当する子供や老人をおちょくる文句も度々出て来きます。上の事例もその文句の一つでしょう。このように緊張を和げ、人をからかう音頭も史料として残っていることは意識したいものです。
後年の民俗学研究でも田植え唄をいくつか紹介されていたので気になった方は是非確認してみて下さい。
(ワシも堅物の上司におちょくり文句を一つ飛ばしてみたいものです...まぁ、活気どころか、空気が死にそうですけど...)

※当該の内容は、大農から小農へまた小作農の増加といった、当論文の後半にある農業問題ないし小作問題に関連したものになりますが、農業問題については、他の論文にて興味深い指摘をされていますので、別日にまた論稿を改めて投稿したいと思いますぅ。

結論

 今回は農業ないしその経済構造から切り込んだいわば農政のお話でした。

都会と田舎の議論とて、それぞれ相互に利害が合致し、循環した経済構造があったのだから、それぞれを孤高な何かと幻想して、一方を貶すというのは、歴史を知らない軽薄な議論とも言えそうです。

まぁ、この論文を書くぐらいですから、昔からこの手の話題が盛んだったのでしょう。それぞれの「不用な」消費を促したい一過性のマーケティング一派の戦略に嵌るなら、それもありですが、まぁ、何か議論を聞いても出尽くされた感半端ないですから、この不経済なる議論もある種の消費自主者たるミニマリストらに滅せられるか、低学歴ながらの境界人として見守って行きたいと思います()

一覧してみて分かるのは、筆者は両者に切り込んでいることでしょう。かといって、どちらにも肩入れせず、中立者と装って知識人風を吹かせるわけではなく、どちらにも踏み込んだ古風・新風両方を感じられる筆致であるのは、私だけの思い込みではないはずです。とりわけこのような境界人に立つ人も今日では多いのではないでしょうか。今日こそ、是非読まれたい一冊ですね。

余談でも話しましたが、農政の見地から経済構造を切り込んだ当論文の他に農業問題に注力した『時代ト農政』『中農養成策』といった興味深い論文もありますから、私自身、別に農業従事者というわけではございませぬが、柳田國男を読み漁る者として、別日にメモなる雑文を投稿したいと思います。お待ちいただいている読者がいないことは承知済みですが、気長に待っていただければなぁと。

この頃夜間の湿気が多い時期でございますので、この辺で退避させていただきます。ではでは。



以下のブログでは歴史の小ネタ記事を投稿しております。
お時間がある時に是非遊びに来て下さい。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?