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労働に愚痴あり、不満あり、歓喜あり!...失われし祖先の労働唄ー柳田國男を読む_09(「民謡覚書」「民謡の今と昔」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

『柳田國男全集18』 ちくま文庫(1990)

序論

 21世紀の今日、職場で音楽ないし歌曲が流れることもそう珍しいことではなくなってきています。しかし、ふと目を配ると大体は受動的であって、恭しく上司好みの歌曲を拝受するか()、世間で"流行歌"と見做されるものが垂れ流されているケースが大半のように思われます。
いずれにしても能動的にとなれば、勤務怠慢という評価を免れることはできません。

まぁ、気にしない人からすればクソどうでもいい事柄ですけど、この形態が古来不変のものなのか、労働以外に存在意義を見出さんとする窓際族の一員としては、やはり気になってしまうのです(小声

そこで、またしても何も知らない柳田國男氏が召喚されし今回のテーマが「民謡」...。
素人には、しっくり来ないテーマで、作者不詳の作品が多いというイメージばかりが想起されますが、ここにはまだ、近代産業社会の洗礼を受けていない生え抜きの残響があり、今日の労働と音楽ないし歌曲の関係性とは異なった形態を窺うことができます。

あーだこーだ紙幅を割いて定義を論ずる柳田氏にあって、民謡とは人間の社会的行動という意味での作業唄であると仰います。
ここでいう作業とは労働より広義の意味を持つものになりますが、その一つの労動唄を覗いてみると、作業とりわけ労働と歌曲は切っても切り離せない関係であることが分かるかと思います。
また、愚痴やら不満やらを吐露しまくりで、どこぞのSNSとさして遜色無いように感じられますが、また同時に歓喜を、心機一転を図る様も見受けられます。

祖先が、労働と歌曲をどう結びつけ、日々を営んできたか、少し覗いてみましょう。

本論

 ここで扱う田植唄ですが、そもそも米作は民俗学研究でも高頻度に取り上げられる事柄だけあって、効率云々等では説き尽くせぬ文化というものがあります。とりわけ、田植とあっては、主として女性の労働であり、美しい衣装と化粧、音楽と歌曲で彩る早乙女らの一大行事であることは、多くの方もよく存じておられるかと思います。

田おこしなどは、牛棃等が早くから導入され、効率化の煽りを受ける訳ですが、こと田植に至っては原始的な手法で行われてきました。

昔だと村の一大行事にあたり、団体で執り行っておりましたので、まぁ、プレッシャーが凄まじかったことでしょう。田植唄にはそのようなことが如実に窺えます。

植えてさりゃれや
手に持つ苗はかざりか
サリャレヤ手に持つ苗は飾りか

同書 184頁

なかなか周りに追いつけない者への励ましなのかいびりなのか...

赤いたすきを掛けたはよいが
つぼにはいるのおかしさよ

同書 185頁

遠州の歌であったそうだけど、ここでいう赤いたすきとは早乙女が掛けているたすきのことで、つぼとは植えの足りない箇所を指すそう。

植田の中を
どんぎりまんぎりするは
浮苗さしかどじょう捕りか

同書 187頁

植田の中に立てるは
田の草取か鳥おいか

同書 187頁

上段は、ツボに落ちた者への冷やかしで、下段の鳥おいとはカカシのことなので、一人だけ悠々と腰を伸ばしているのを皮肉っている様子が伺えます。

とはいっても最上地方では腰が痛いやらなの同情の声が聴こえる...

今日の田植の田主どの
目出たきおん田に植えなさる
腰をのさずにはたらきゃれ

同書 187頁

ヤレ腰痛や腰いたや
はかまの腰でいた腰じゃ

同書 187頁

苗持がいちごをもりよって
その苗無いと腰をのそう

同書 188頁

苗持とは苗の補充要員で、少年か老人が担当します。今日でいえば不熟練労働者か...まさか元祖窓際(小声
それでも、三重県の志摩ではこのような気の利いた唄でどっと笑いを取ることもあったそう。

小苗持の小野郎
とんびはさらった
あららという間に腰休め

同書 188頁

苗持は一の大役
晩には竹の子の味そしる

同書 188頁

越後あたりの唄か。
冷やかし文句ですね。パートのおばさんのいびりのように鋭く...(トラウマ

五月田植に泣く児がほしや
あぜに腰かけ乳のまそ

同書 253頁

おかた出て見やれ
かのこ山のかのかのが
子ども喚ぶ声

同書 253頁

東日本及び羽後国の事例で、子持ちの女性への妬みや冷やかしとも捉えられそうですが、いわゆる身持女にわざと植えさせる風習は全国的に見られ、世界の原始民族でも共通の風習であるそう。
呪術的な信仰かと思われますが、田植唄にも妊娠を装って、これを詠ずる例が散見できるそうです。

あぜばたの
つくつくつんぼら孕んだ
月星をとのごと定めて
雨露たよりにはアらんだ

同書 254頁

播磨の例ですが、この冷やかし文句も元は、妊娠した女が早乙女に入るという呪術的な要素を忘却したために、発した滑稽なものと見れるか。
少なくとも、上記のような妊娠を装った女や身持女の唄が多数残っていることは記憶されたいとのこと。

私の性根が腐っているのも相まって()、冷やかしや愚痴が中心となってしまいましたが、男女の情事を詠ずるものも勿論あります。

君が田と我が田のならぶうれしさよ
我が田にかかれ君が田の水

同書 244頁

また、本論冒頭に述べたように、これは文化的つまりは神事でもあったわけで、いつか取り上げた田の神への唄を確認する事もできます。

毎年ござる田の神さまよ
ごえんが有るなら又来年も

同書 248頁

十七が綾なる襷を肩にかけ
肩にかけ、今サンバエの米をとぐ

同書 250頁

上段は相州の例か。下段のサンバエとは田の神のことで、十七とはオナリドないし美しい若い女性を意味するそう。
早乙女ないし立てるべき若い女性と田の神への敬意を忘れ去られない場所、時期ではこのような敬虔な唄が残っていたとのこと。

神への別れの惜みと歓喜、男女の情事...愚痴と並行しつつも、優雅な文化が残っていたことは忘れてはならないでしょう。

柳田氏が全国に散在する田植唄より分析した歌詞の傾向について、以下のように纏められております。

...早朝の歌には山を望む文句が多い...朝の始めと日の暮とには、ともに空を飛ぶ鳥の声と姿とに注意を払っている...午前の歌には嬰児の事、または姙娠の事を述べたものが多い...それからまたなるべく姙み女や乳呑児を田植の場につれ出して、豊産のまじないとしたらしい痕跡がある。次には御田の神を詠じた歌が多く...日の終りに「来年もござれ」といって、別れを惜しむの情を述べているのは、すなわち迎えて祭った名残である...

同書 328頁

ちなみに田植唄以外にも

木びきゃ辛い奴とんぼかあぶか
千里奥山の木にとまる

同書 161頁

木びきするよりゃへんろがましじゃ
麦の粉を食うてお茶を飲む

同書 161頁

いわゆる木遣唄ですが、不平不満をポロリと嘆き、へんろとは遍路者のことでしょうから、そういう旅人に羨望し、口にしては労働に勤しむ祖先の姿もまた愛おしいと思うのは私だけでしょうか。

結論

これらの多くの労働歌を比べてみて、誰しも最初に心づくのは、歌が決して軍隊の号令や楽師長の指揮棒みたようなものでなかったことである。歌には単なる掛け声のみをもって、人に手足の拍子を揃えさせるだけの権力はない。...骨折りと遊びと、今日の経済学ではプラスとマイナスのごとく考えているものを、総括して我々の民謡が支配しているのは、つまりはその差別のまだ立たなかった時代から、もうこの物の存在した証拠である。日本の国情のよそと異なっていたのは、いちばん大切でかつ苦しかった田植の労働が、つい近い頃まで労働だか祭だか、はっきりと見極めのつかなかったということである。

同書 203頁

労働と歌曲とは、現在、基本的には分離され、それで足りぬとせば、群飲の制すなわち飲みニケーションの一興で両者の連結を図ろうとするのが大半ではありますが、田植唄等の民謡の息遣いを覗けば、その狭く一半の昏睡に限られた話ではないことが容易に想像つきます。

まぁ、作業唄の民謡でもこと酒宴歌については、流行唄の不規則な混入、酒盛習俗の退廃等などから柳田氏は辛口な評価を下し(ヲタクからみると平常運転?)、一線を画している様が窺えます。ここら辺を話し出すと脱線に脱線を重ねる()ことになりそうなので、この辺りにしておきますが、やはり酒宴の弊害は昔からあったことが看取できますね...

踊りあり歌あり風俗ありと実に広大無辺な民謡分析からここら労働歌を抽出せんとする低学歴も流石に息切れ状態ですが(お前いつも息切れしてんな)、私としてはやはり性根が腐っているので、愚痴をこぼしながら、労働に勤しみ、それも無名の作品として能動的に歌い継がれてきたという歴史に只々跪拝したい思いで一杯です←やはり低学歴

近頃のスピリチュアルな流行かどうか知らぬが、言霊という用語を頻りに濫用し、こと言論を封せしめようとする環境には断固として祖先の想いを継ぎ、抵抗せねば!...(こういう輩が本論にいたやっかみ呻吟者になるのでしょう。歴史は繰り返す...読者諸賢の皆様はどうか真似をせぬように!

愚痴をこぼしつつ、皆さまに感謝を込め、寝に就きましょう。ではでは。

備忘録

近代の正月の踊りことには大内の左義長に出仕する松囃または昌門師の舞は上古の男踏歌の遺風なり...しこうして踏歌は疑いもなく舶来の唐風なり...日本にては新春の踏歌は永く朝廷の儀式となりしにもかかわらず、その民間に行わるるものにはまた流弊ありしにや、天平神護二年十四日の格には、西京畿内の踏歌を禁断せり。その言に里中の踏歌は前を承けて禁断す云々とあり。...もしこの踏歌をもって今の中元の踊りと系統を同じくすという卑説を当れりとせば、府県の駐在巡査の盆踊り取締は最も由緒ある風俗警察なりということを得べきなり。

同書 438-439頁

明治の論稿。踊りの統制にも歴史があるよねとの主旨。まだ、説としても完成しきっておらず?

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