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日本人の信仰の根底、田の神とは?ー柳田國男を読む_05(「月曜通信」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

『柳田國男全集16』 ちくま文庫(1990)

序論

 今回の論文は終戦間もない頃の時代の変化が著しいなかで、「若い人たちの郡のために、辛抱強く書きつづけ」た「宛名のない手紙」を自然消滅せぬよう、一つにまとめたものになります。つまり、日本民俗学の父である柳田國男版noteということですね()
そのためか、いつもにも増して散文的ではありますが、その中である共通した興味深いテーマ、すなわち田の神について、今回取り上げたいと思います。しつこいぐらい田の神の話題が出てくるもんですから、素人の無学者が一度ここで、ボケ防止という究極利己主義的な目的は論を俟たずとも共有しておきたいと思います。

※無学者の読解力でメモをまとめていますので、過信厳禁でお願いしますぅぅ。

本論

田の神に基づく稲荷信仰

 稲荷信仰は今日でも根強くまた広範に行き届いていることは周知のことと思います。その稲荷ないしは狐塚に関する考察において、柳田氏はもとは田の神の祭場なのではないかという仮説を立てています。

...狐が山から降りて稲田の辺に食物をあさり、または仔狐を養おうとしたのは秋冬の交を主とし、またその姿を里人に見られるのも、木草の枯れ伏してから後であった。...とにかくにこの野獣の挙動を視、またはその声を聴いた者には、これを山にいます神霊の前駆であり、もしくは使わしめであると、想像するような特徴は幾つもあったらしい。鴉を春の始めの山神のミサキと認めたと同じく、狐を山ミサキの名をもって呼んでいた例は、東国にも山陽諸国にもある。...後にはさらに神の統御に服した従属の小さい霊をも意味していたのである。

同書 470頁

のちに『稲荷神社史料』の備後御調郡杭庄に関する話では、当該は中古以来の伏見稲荷社の社領であり、そこにも一社の稲荷を祀っていたことが明記されており、『芸藩通志』には当村における社の名は杭稲荷といい、荘内下津村の杭田という田は、昔から田の中に杭があって、そこが稲荷神社の旧跡であったという言い伝えがあると別日の論考に記述されていますが、これも上記の仮説を裏付けるものであると言えるでしょう。

正月行事は後付け?

朝廷の式典の古来著名なもの、すなわち二月月始めの祈年祭と、十一月下弦の頃の新嘗祭とが、この田の神の祭日と、ほぼ一致したのは偶然とは言われない。ただしその収穫の終りに来る祭日が、今でも霜月となっているのは九州の大半、東日本では能登半島の一部だけで、その他の地方は主として十月のうちに、もう田の神は還ってしまわれるとしたことは、何かまだ隠れたる大きな理由があったのである。...そうして今日は一般に、収穫後の祭は淋しいものになり、年貢だ加徴だという世俗の事務がその後に続いた。見ようによっては正月のいろいろの模擬行事が、その代りに生まれたとも言われぬことはないのである。

同書 486頁

二月、十一月の田の神の祭日とは、前者が春になってから株田を打ち起す習わしや籾の種浸け、後者がいわゆる冬でも暖かい南方では旧暦十一月をもって田植えの季節としていた風習のことをそれぞれ指していると思われますが、それも我が国の中枢の儀式にあたる朝廷でもその関係性が見出せると柳田氏は指摘されています。
朝廷儀式もこの長い期間、改廃を繰り返してきた歴史がありますが、このような田の神の信仰に結びつける慧眼にはやはり敬服の念を抱かざるを得ませんね。

田の神信仰=山の神信仰?

このなっがーい博学者によるメモ録の終焉部では、田の神は山の神に結合しているのではないか?と考察を加えています。
というのも、山麓・山間部に住んでいた我々が、沖積平野に降りて来たのは室町時代あたりからですから、その信仰体系に大きな変遷があったことはふと気づくのではないかと思います。
古来の農作に関する歌謡においても山田・小山田という語が極めて多いことや伊那地方にある社はいずれも式内の大山田神社の跡地と称していること、遠州の『志留波の民俗』では、田のある谷の高地に森があって、山の神を祀っている、阿波の名西郡の村々では、苗代田の最も近くに山の神の祠がある等々、多くの例証を挙げつつ、これらが単に猟夫のための山の神ではなく、春ごとに降りてくる田の神なりたまう山の神なのではないかと記されています。
また、田の神信仰の所作、すなわち親田において、水口に土を盛り、枝や花を指して、焼米等を供えてお祭りする水口祭やそこまでせずとも田のまん中に植物を立てる、関東周辺では、苗尺・苗見竹を立てるいわゆる苗じるしの風習、信州の栗の木の二股になった枝を立てる云々は、いずれも小山田の三角田などを中心とした時代のすなわち山から神が降りてくるという古来の信仰をすんなり受けいられずに、水田の拡張とともに山から遠ざかり、その信仰が軽薄化とその補完の儀式として活用されたと看ることができます。

田の神と山の神とが一つだという言い伝えは、不思議なほどに汎く全国に流布しているにもかかわらず、農村の信仰は今ではもうかなり紛乱し、ことに山神の解釈が複雑なものになっている...一つには田の神の祭り方も、昔の形のままを保ちがたくなったからで、それは主として社会の力、具体的に言うならば水田の次々の拡張であった。以前の小山田の三角な田を中心とした頃には、神が山から降って来られるという考え方は、疑ってみようもなかった。それがおいおい山の裾わを遠ざかって、田居を経営するようになると、次第に越後や会津の盆地...のごとく神が空から農家の杵の音を聴きつけて、降り来たまうというようになって、周囲の山の嶺を眺めながらも、山と田の神を一つに見ることができず、従ってまた降ってどの場処に御宿りなされるかも考えがたくなった。家に田の神の祭壇を設くることになったのもその結果の一つだ...

同書 500頁

田の神=正月様?

...二月八日は、どうして起ったかという問題がなお残るが、これは収穫の後に来る感謝の祭が重んぜられて、これに比べると春の始めに降ります神が、幾分か簡略に祭られるようになった結果とも推測し得られる。あるいは民間暦の改廃がことに年の始めにおいて著しく、年の神が田の神であり、また家の祖神であることが忘却せられ、正月はただ正月様として祭りかしずくようになったため、以前の信仰が保持しがたくなったとも言い得るであろう。二月八日をもって終るべき物忌の始めの日としては、伊豆七島の忌の日というのが、今のところではほとんと唯一の残留のようにも思われる。...その忌の期間の終末が...二十七日にはもう常の日になっていることが不審であり...これを一続きの忌期間の、中途で切れたものとはまだ私等には考えにくい。多分は前からあった春の忌の末が切れてしまったところへ、別に新たに他の地方の、頭のとれてしまった八日の忌だけが、入って来て併存しているので、この混乱の原因となったものは、やはり正月風俗の近代の普及かと思われる。これももう一度立証しなければなるまいが、私は田舎の正月の今のように盛んになったのは、都市の影響であって比較的新しいことだろうと考えているのである。

同書 481-482頁

お正月に関する柳田氏の考察ないしコトオサメ・コトハジメの事八日、八日節供の話は前回しましたが、それを補論する形で、当論文では、これを春の物忌ではないかと推察しています。
安房・上総の村々のミカワリでは神社ごとに僅差はあれど、十一月二十五、二十六日に始まり、次月の五日、六日まで執り行われます。また、一月早く正月が展開される七島正月の斎忌も十一月二十六日頃から入り、十二月六日定刻に神が還られるといった若干の差異はありますが、やはり、これは物忌を指し、二月八日についても、長野の佐久では、正月送りとして、一月三十日の晩に鬼の目団子を拵えて戸口に刺すといい、伊豆諸島には別に二月八日の一つ目小僧の日に、目籠を掲げて戒慎に入っていたので、こちらでも物忌を確認することができます。

七島正月の考察の過程で、暦の普及とともに今ある正月行事が寄せ集められてきたことに気づかなかったと柳田氏は後悔されていましたが、コトオサメ・コトハジメの混同や十二月十三日の正月始めとの混同がある中で、無理もないことなのかもしれません。しかし、それが収穫にまつわる、すなわち田の神の信仰に紐づけた柳田氏はやはり卓見ですね。
彼はこの仮説の当否や考究を後世の学徒に託しておられましたが、まぁ、素人で無学な私はただ鼻をほじくりながら先行研究を眺める他ございませヌ...

結論

 「宛名のない手紙」と謳ってはおりましたが、柳田氏が一冊にまとめるほどの執念を向けたものだけあって、個人的には二番目あたりに興味深いテーマが見つかったように思えます。
確かに田の神信仰それ自体も散在しているように見えて、この変遷過程を注意深く紐解けば自然の一致を見る事ができるかもしれません。

山から降りて数世紀、また山に戻りたいとは思いませんが、その生活様式に侵食された文化というのは、脈々と今日の文化伝統に紐づいているわけですから、このある種の土臭さ含め、ふとした時にぜひ思い起こしたいものです。

付論

※本題とはあまり関係ないですが、自身のメモのため。

お宮参りについて

  お宮参りとは、今日では、子供の無事な誕生を神社にご報告するというような解釈が一般的で、一昔前はこれを氏子入りなどと呼ばれていましたが、果たして宮参りをもってその地域の氏子に参入できたのかと柳田氏は疑問を呈しています。
というのも、一つに、東北地方では宮参りをする風習はあまり浸透していない点、今一つに、ときの明治政府が、これまで寺院で管理していた宗門帳(今日でいう戸籍みたいなもの)を神社へ移管しようと試みて、産児に氏子札を配り、その控えを保管するといった制度を施行していたらしく、のち、氏子札が不用に帰したとのことで、いくつか確証を得られない事由があるそうです。

これには別途産屋を建てて、妊婦と周囲の人とを隔絶するという忌みの産土神の信仰も関係してくるのですが、とりわけ、時代の発達とともにこれが混同し、氏神と産土神ないしは氏子入りといったものが不明瞭なものになったのもその背景としては考えられます。

Twitterのレスバで以下、宮参りについて盛り上がりを見せており、柳田氏のメモ雑記にも記載のある内容だったため、メモがてら投下しておきました。



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