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昔の日本人の生活リズムとは?ー柳田國男を読む_04(「年中行事覚書」「新たなる太陽」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

『柳田國男全集16 』ちくま文庫(1990)

序論

一年は三百六十五日、その三百日余はただの日、またはフダンの日といって、きまった仕事をくり返し、忘れて過ぎて行くのをあたりまえのように思っている中に、特に定まったある日のみは、子供が指を折って早くから待ち暮し、親はそのために身の疲れもいとわず、何くれと前からの用意をして、四隣郷党一様に、和やかにその一日を送ろうとする。これが今日いうところの民間の年中行事であった。

同書 15頁

 年中行事というのは、自然と我々の体内に生活リズムとして刻まれ、これを通してより強く四季折々の空気を感じ取ることができます。 

まさに人々の生活に欠かすことのできない生きた史料というものを柳田氏が見逃すはずはなく、見事喰らいついています。
柳田氏曰く、日頃からジャーナリズムが騒ぎ立てるような毎年決まりきったことないしは門松の由来云々というものに注力するのではなく、まさに消えようとしている各地の年中行事に着目せよ...とのことですが、当論文を執筆したのが終戦直後という時代背景も相まってか、焦燥感を感じ取ることができます。

当時でこの焦燥感ですから、今日においては、その各地で自然発達した年中行事はどれほど残っているのか...
隠れたる自然の一致を模索した彼の論文(今回は二つ...というのも後者の論文の方が年中行事をより仔細に書き記しているというか...)を一瞥しつつ、空洞化しつつある我々の生活リズムの本義というものを今一度、考察してみたいと思います。

※あくまで素人の読解に基づいた読書録ですので、過信厳禁でおねげーします...

本論

違和感のある節日

 季節の折り目という意味で、五節句というものがありますが、そもそも節句というのはおかしな当て字であると柳田氏は指摘しています。
本来は節供が正しく、当シリーズをご覧の皆様なら親の顔より見た()「供食信仰」に基づいたもので、神々や祖先との精神の連絡に欠かすことができなかったものだとか。
何より五節供は、江戸幕府によって厳粛に制定されたもので、人為的な間隔が垣間見え、現実生活の要求を十分に参酌しなかった嫌いがあるそうです。
ちなみにこの祝賀に出ないものは怠慢の烙印を押されたとか(今日のどこぞの飲食会を彷彿とさせますね...)

旧十月には節供がないが、これとて、本来は、田の仕事に一息がつき、食料や薪等の備蓄が豊かになることで、人々が集まり、また静かに暮らす精神生活の季節だったとのこと。神無月の話は度々散見できますけど、ここでもまた指摘されていますね。

十月という月は神無月ともいって、もとは神祭のほとんとない月だった。ところが『神社大観』などを開いてみると、大小の社の祭典は、三分のニ近くがこの月をもって挙行せられている。もちろん、新旧暦法の差で、現在十月というのは旧九月の月送りであるが、その九月とても元来はそう祭の多い月ではなかった。...内外の事情の次々の変化のために、この一月余りの物忌の期間を、静かに謹慎して待ち暮すことができなくなり...冬はまた一段と淋しい退屈な、人生の空白のごとく見られるに至った。

同書 23ページ


お節は男の役目

正月を迎えるにあたっては、今日でも寝ずに一夜を過ごすという夜籠りを行う家庭も多いかと思います。昔は正月様や年徳神(柳田氏はこれを家の先祖と分析)と称し、謹んでお迎えし、ドント祭・左義長を以て御送りするといった考えがあり、そこに謹慎と晴れ着、清浄を重視したのは縁起がどうのといった類の話ではないと柳田氏は述べています。
祭主は家長ですが、優良な若者の中から年男を選出し、新年の事務その他の権限を広狭の差はあれど一様に認めていたそうです。豆まきや若水を汲みに行ったり、料理については、神聖な家事場を女性に跨がせないという信仰がある地方もあり、お節は無論、七草粥や十五日の小豆粥は年男が支度することを定める家も多かったとのこと。その他、年末の大掃除が名残りの煤払い等もお迎えする行事として年男の管轄として考えられていたといいます。
とりわけ、山に入って松の木を伐ってくることは重要視されており、その松は門松として準備するわけですが、時には年棚を造らず、松ではない木すなわち年木なる一本対・二本対の生木を立てて祭壇とする地方もあったそうです。小正月には、若木迎えといってその三日前からもう一度山から伐ってくる風習があり、これには松を使わないのが通例なのだとか。しかし、年木が年棚より前にあったことは断定できるも、これも何度か改まった姿であろうと推測しています。

...つまり年男は正月様の名代であって、これを尊敬してさえいれば年木も年棚も要らなかった時代が、かつてはあったことを察せしめるのである。これが簡略に帰して他の今一段と具体的なる事物、樹木とか棚とかが正月の祭の中心をなすに至ったが、それでも年男というものをまるまるなくしてしまうことはできなかった。

同書 282頁

年男の多忙さも去ることながら、今日の元旦や三ヶ日だけを重んずるのではなく、その準備、お迎え、お祭り、御送りといった行程を夙に大事にしていたことが看取できますね。とりわけ十五日は年越しといわれることもありますが、九州にある七日の鬼の火などはもとは御送りのための物忌期間であると柳田氏は分析しています。何より正月の年の神祭りこそが、一年の最も重々しい祭典だったということを伺えそうです。

雛人形を流す?

三月節供といえば雛人形ですが、日中は柔和な表情を浮かべるお雛様も夜になるとその笑みも一瞬にして恐怖の対象となるのは、人の性と言えるかもしれません。古来も雛人形という精巧なものではないものの、古雛には霊があると言い伝えられ、それを水に流すことが神奈川の相州厚木に風習として実在したと事例を記しています。曰く古雛を桟俵などに載せ、川に流し、白酒の銚子を携えて別れを惜しみて一同に涙を流すとのことですが、迷信かはさておき、これも一種の神送りの趣意があったのではないかと柳田氏は考察しています。

田植えの前に...

折口信夫が考察したいわゆる天道花について、花と竿に分け、花は天竺の釈迦誕生会へ、竿を卯月八日の吉日に当てるという推察は誤りだと指摘し、『諏訪大明神画詞』で見える花会では竿なしの花をまさしく神事で使用している例などを列挙していますが、その中で釈迦誕生日との関連性の確証は取れないものの、通常、女人の登拝を許さないが、この日彼女らも花摘みに従事する事例に柳田氏は着目しました。女神を祭る社でも四月八日を祭日とする所が多く、神輿洗い、浜下りの例も数多く確認できるそう。
ここで柳田氏は、婦女が田植えの儀式に深い関係があることを念頭に置き、早乙女も一人選定し、オナリ、ヒルマモチとして神に使えさせたという『俚謡集』の多くの田歌があることから、彼女らがその準備として通常の生活から離れるすなわち物忌に入るため、山に入って花を摘み、海川に下り身を清めて、謹慎に努めることがあっただろうと考察を加えています。
あくまで仮説の域を出ないもののように見て取れますが、早乙女がしばしば神聖視される事例が多いのもこのような行為・信仰があったからなのかもしれません。

・追記(2024/1/14)
宮本常一著作集を読む最中、妙味ある表現を見逃していたことに気づかされたので、以下に記す。

...卯月八日という日の今でも農村において、かなり大切に取り扱われていることである。それを釈迦如来の誕生だからと説明することは、ちょうど冬至の節を耶蘇降誕祭に取り入れたのと、符節を合したような習合であった。

同書 374頁

いわゆる年の変わり目と耕種の一致は、台湾などの南方民族において、一、二月頃を第一の月と見ていることから確認でき、この慣習等が、我が国に稲が到来し、耕種が四、五月に遅れても絶えず執り行われる原因となったのではないかと宮本氏は分析する。
ここらの新春分析は、後の柳田氏も触れているし、他の著名な民俗学者も指摘している事である。

祭と節供

大きな神社の祭日は、近年神職たちの手で改定したものが多いけれども、気をつけて見てゆくと、最初はほとんと皆民間の年中行事の日であった。...つまりは祭礼も重要な節供の日ということができるのである。節供は五つと公けに限られてからは、これと祭礼と対立するもののようになったが、それでも旧九月の九日前後を、祭日とした神社が数において最も多い。...古来の祭の心持は、むしろ年中行事の方に大切に守られていた。それをとんでもないところで区劃して、他の一方を無視したから、今は一段と根源が不明になったので、祭をもう一度、改めてこの側面から、見なおす必要があると、私などは考えている理由はここにある。

同書 58頁

確かに、節供の本来の語義から辿れば、例えば今日でいう祭りの定番ともいえる出店とて、古来、豊富な食物を運び込んで終日遊び暮すという風習に合致したものとも考えられそうですよね。現代では実に子供じみた遊びだなどと大人風を吹かせるのが粋なのかもしれませんが、何より節供を常の日のごとく、ただの休日又は働くことが当たり前と見做す昨今においては、そう考えてしまうのも仕方ないのかもしれません。沖縄ではオマツイ(御祭)の日に働く者は、ハブに噛まれるという俗信が最近まであったそうですが、怠け者は節供働きという冷やかしの諺ばかりが幅をひかせているようでは、その本来の意義を見出すことも難しそうですね。

...これほど明々白々な民間の事実にも気が付かず、ただ今日いうところの何々サイという類の催しをもって、国民を統一し得られると思うようだったら、祝祭日という名称のごときは、むしろない方が害が少なかろう。これは正直なところ、明治以来の祝祭日とても同じ憾みがあった。せっかく公けの力をもって制定して渡しても、それはまだ国民多数の感覚と一致しないゆえに、知らん顔をして彼等は働いていた。いちばん困ったことは暦のくいちがいで、節供に最も重要だった季節の感は消え、月の形を見てきめた古い約束も無視せられて...七十何年は乱雑の間に過ぎて来た。今度もし新たに風習を作り出そうというのならば、少なくとも私たちの生産を制約した天然の条件を考慮に入れて、せめては月と盆踊り、五月節供の柏餅と、柏の葉の伸び方の関係ぐらいは、喰いちがわぬようにしたいものである。正月元日というたった一つの例を除けば、都会で設け出した年中行事などは日本にない。そうして都会で始まった生活を真似するのが、すなわち文化だと思うような考え方は、もうたいていこれからはなくなって行くだろう。

同書 60頁

ネブタの本来の意味

ネブタといえば、大きな灯籠で街を練り歩く青森ねぶたが有名ですが、これに似た行事というのは全国的に見られるものです。例証としては長野の上田では眠流しという七夕の笹を流す風習があり、愛知でも七夕飾りを流すネブチ流しなどがあるとのこと。
ネブタとはそもそも、秋田のネブリ流しなどで観測できたように合歓の木を用いた儀式であり、睡魔と関連させることも決して空想ではないそうです。
すなわち、起きているべき時に眠いのは不幸であるという考えが昔は根強く、対馬の夜分の別れ際の辞令のオイザトナ、五島におけるイザトバイなどは、イザトイすなわちすぐに目が覚めることを意味することから、その信仰を垣間見ることができるという。東海・近畿で行われた魂送りの式と秋田の眠流しは非常に似ており、正月同様に盆を悦ばしい祝いと日にするにあたって、悪霊を立退かす死者供養の考えが年々強くなり、今日では目的を限局して、主として眠たくなる不幸を追い払うを是としたそうです。
以上は、夏の御霊は海から上って来て、初秋に再び海へ還っていかれるという信仰に基づくものだと柳田氏は分析していますが、神迎え・神送りという行程を再三見る我々にとっては、自然に受け入れられる考察かもしれません。

カカシは田の神なるぞ

カカシは人間に模した害獣駆除を目的とした道具であると現代人は考えそうですが、柳田氏は形はどうであれ、これが霊であり、むしろ人間以上の力で守護するという信仰があったのではないかと考えています。
旧十月十日、信州では案山子祭の日であり、カカシ揚げという地方もあるそう。カカシはこの日までしか田の番をしないので、この日に田からお迎えして、田植えのお手伝いの者を招待し、食物を饗する例や九州の霜月初の丑の日に、田から迎えて農具類と共に仕事場の臼の上でお祀りする事例等をここでは取り上げています。

日本におけるクリスマスの起源?

旧十一月二十三日の晩に、必ず雪が降るといういわゆるダイシコ吹きは、霜月粥や三本箸で団子を刺して食べさせるといった大師講に関連した俗信で、越後あたりの言い伝えでは、貴い旅人の足が不具なのを慮って、神がその足跡を雪によって隠されたといい、他の土地だと、貧しい老女の家にその晩大師様が訪ねて一泊を求められたが、提供する物がないので、その老婆が隣の稲や大根を引き抜いて来るのだが、その老婆は足の指が一本もないので、足跡でばれる。それを慮って雪を降らせた等々の内容で知られているそう。

クリスマス信仰が案外すんなりとまた今日まで続いてるのも忌々しいマーケティングのせいではなく大師講やダイシコ吹きという言い伝えがもともと広範に広まっていたからなのかもしれませんね。

神送りの起源

前述のような暴風は他にも、旧十二月八日、関東や九州においては旧二月八日にて、八日吹きという言い伝えがあり、村々の神が出雲へ旅をされるという内容らしいですが、旧十二月と旧二月の八日は東京ではコトオサメ・コトハジメという大きな祝祭があったとの記録があり、宮城の方では、前者を神のお立ち、後者を神のお迎えといい、出雲を往復なさると考えられていたそうです。
柳田氏は、二月の月初めは新しい稲作の支度にかかる時期であり、その他様々な傍証を固めた結果、二月八日こそ、祖先以来のお迎え申す日だったのではないかと分析を加えています。

結論

人のすることなら自分もしてもよろしい。またはもう一歩を進めて、せずにいては悪いとまで思う者が、昔から我が邦には多かった。ことに正月は祭礼の日と同じに、気が大きくなり後先を見ないから、弊害が防ぎきれないのである。酒と都市生活との二つが、新しい世に入って大きなわざをしている。たとえば元日だけは戸をしめ掃除もせず、家にこもって親子夫婦ばかり、和やかに静かに一日を送るのが、古風な正月の幸福であったと思われるのに、人が群がって住むようになると、まず早天から飛び出してやたらに訪問をする。それも始めは一門の長者、主筋とか神主とかに限られたのが、後はだんだんに範囲が広くなり、飲もう飲ませようの下心は果しもなく、女房は朝からてんてこまいで、むしろこちらも留守になってもらいたがる。家が淋しいから子供は晴着を着て、表へ出て遊ぼうとする。そのために町は一段と花々しく、いわゆる正月の気分は誰の目にも、見過せなくなったのである。

同書 292頁

 巷で流布されるいわゆる公的な年間行事においても、ここで記した行事との関連性は見出すことはできますが、より根源的なものがまた新たに瞥見できたのではないでしょうか。

年中行事とは何度も言うように我々の生活リズムを刻むようなもので、そのような感覚を際立たせない祝祭日と謳った日はむしろない方が有益だという柳田氏の指摘は、平々凡々な日常を送っている社会不適合者の自分には大きく響くようなものがありました。(まぁ、祝祭日は労働から免れる方便としか半ば考えていなかったし....

中には迷信まがいのものを見受けられますが、生活に直結し、また循環した営みと捉えると、簡単に迷信だと割り切れることもできないでしょう。近世までの迷信からの脱却、すなわち脱魔術化はドイツ社会哲学者マックス・ウェーバーがご指摘なさっておりましたが、少なくとも、脱魔術化的な価値観で年中行事ないし民間の年中行事を見ることはできず、また、生活リズムとてもこの迷信をも包摂する文化によって規定されているのかもしれませんね。

私も一度はお正月の行事を最後まで楽しみたいなぁ...来年の正月期間は仕事サボろうかな。ハブに噛まれたくないし(小声



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