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そもそも日本の祭りとは何ぞ?ー柳田國男を読む_01(「日本の祭」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

「柳田國男全集13 」 ちくま文庫(1990)


序論

 本日は、新たなシリーズものとして、柳田國男特集を組み、境界人という名の無学の偏愛家を少しでも賢くさせてあげようという至極利己主義的な企画を実施しようかなと思っております。

今回は第一回目ということになりますが、そもそも、何故柳田國男の特集を組んだかという需要なき動機について、一言述べさせて頂けるのであれば、やや晦渋で散文的でありつつも、土俗的な匂いがする文章というかそういう魅力に惹かれたからです。併せて、忘れっぽい性格なものですから、別に何か残るもので何回も書き記さないとこの硬い頭に叩き込むことができないというくそしょうもないもう一つの動機は心の声として留めておきます()
というわけで、すみません。完全に自己満でやってます...ですので、抄録するものも個人的偏向によるものです。参考にして頂けるなら、望外の幸せではありますが、これを以て、柳田國男の祭の考えを理解できたと思い込むのだけは勘弁してください()私にはそこまでの読解力はないので。あくまで何かのきっかけになればなと思っております。

では本論に移ります。

本論

 当論文「日本の祭」は、当時、東京の大学に設けられた全労会の学生に対する講演内容に追加修正を加えたものになります。
明治維新による近代的な学校制度の薫陶を受けた若き学生ないし学校生活という新様式で生まれた新生児が聴衆であって、古来日本より紡がれてきた長者から若者への伝承という物心両面の英知を民俗学の手法で持って説法しようという熱意と民俗学のセールス活動()が節々で感じられます。
そんな感想はともかく、若者が聴衆でありますので、少しでも彼らの好奇心を唆るような題目として「日本の祭」、すなわち、若者団体の圧倒的熱意とある種の異常精神を持って遂行されていた活動を、宗教定義以上のものとして捉え、その原始形なるものを、そっと覗こうというのが本旨であるように窺えます。

マツリの種類

柳田はまず、マツリという概念を二者に分類し、屋外日中に行われ、一般的に祭りと連想されるものを祭礼、夜間に厳かに執り行われるものを祭と整理しました。
とりわけ前者は後世に浮流として磨きが加えられ、後者は宮中祭祀の大嘗祭のように徹夜で行う昔ゆかしい作法は多忙を極める時世となるとこれを厳密に守ることも難しくなり、存在感は年々薄くなっているとのこと。

全国の信仰の遷移、祭場の設定

神の遷移の記録の最も古いのは、東国では鹿島御子神、西では八幡神の京畿進出などであるが、それよりずっと後に出た『延喜式』の「神名帳」を見ても、地方の神々はほとんと皆独立して、他の土地から御迎え申したと見えるものが少ない。しかるに現在はどうであるか。北野の天神の勧請というのが、大きいものだけでも全国に二万数千...その中には本社の中世に顕われたまいしとのもある。すなわちこれは決して大昔からの国固有の信仰現象とは言えないのである。この平安朝初期の大統一以来、漸次に普及して来た神分霊の思想は、今日いうところのミテグラ信仰からは説明がしにくくて、多分はその一つ前の形かと思う神木の言い伝えからならば、ほぼその経過を推定し得るのである。

同書 282-283頁 

つまり、神分霊の思想は平安朝の統一以来、漸次普及してきたものということで、これはミテグラ信仰(今日でいう幣帛ですかね)ないしはその前の神木の言い伝えから経過を窺えるそうです。
ミテグラ、人の手に執るクラ(神座)は、まさにこの移住とともに利用性が高まり、神木の標識たるシデを連ねたミテグラないしこれを手に執る者を特殊な階級へと位置付けることにも繋がったとし、それが時の経過により、御幣の剪り方がどうのこうのなどと、終いには口伝によって複雑極めることになり、今日は再び簡素な形に復したものの、祭に伴う我々国民の敬神の心は甚だ粗略となったと指摘しています。

神社・祭への自由な巡礼について

...我々は祭のありがたく、精進の大事なことをよく知っているうちから、自分等のみは折がなくて、だんだんとこの行事から遠ざかって行ったのである。これにはもちろんそういう任務を専業とする者の、進出ということも考えなければならぬが、少なくとも彼等の数の激増だけは、物忌衰退の原因ではなくして、むしろ、その結果であったかと私は思っている。

同書 323ページ

昔では祭の前に物忌という謹慎期間を必要としていたのですが、年々、当活動が希薄化していったとのこと。専業者の増加は原因ではなく、その結果に過ぎない...
続けて柳田はこう述べています。

応仁乱後の戦国時代から、急に盛んになった代参・代願・代垢離の風俗は、たしかに神職や修験の地位を重要にした大きな力ではあろうが、これを促したものはただ平和なる交通の杜絶であって、人が遠くの神々に禱り、または御礼申しの参拝を企てるということはもうずっと前から普通になっていた。信心はすでに個人の事業となり、物忌もまた公共の利害と、交渉のないものとなりかかっていたのである。孤立した各郷土の信仰がこれによって半ば解体しつつも、同時に一方にはこれに代って、もっと大きな全国的の統合が現われて来たことも、驚嘆に値する国民精神の一致である...

同書 同頁

なるほど。物忌を避け、気ままに巡礼したいという国民の意思は昔から芽生えており、それが大きな国民精神の統一に結実したということですね。むしろ、統一を加味した信仰の調整というのは何も明治維新の大事業によって突発的に開始されたものではないということも念頭に置かないとですね。
一方で柳田は、そのような激変を重ねつつも以前の祭と物忌といった古来の形式を幽かに持続させている土地が国内には数箇所あると指摘し、この信仰上の遠心力ともいうべきものが、常に神道の説明の外に置かれているとし、これではいつまで経っても国民の問題を自分事として考えることはできないだろうと後述されています。
しかし、この物忌については、当論文にて思いの外しつこく問題提起されています。

...物忌の簡略、すなわち旅人の道すがらの参詣のみは、土地の神々の祭に守られている最も手軽な精進をすらも、守らずもよいかのごとく考えられ始めた...これもつまりは一般の弛緩、斎忌は祭の最も重要なる条件であったことを、心づかぬ人の多くなった結果とも言えぬが、しかも村々の心安い祭については、忌の拘束がかなり寛大になって後まで...特に厳重に守られていた時代もあったのである。いわゆる代願、代垢離の職業が盛んになったのもそのためで、...この拘束がむつかしいばかりに、願掛け御礼申しの念を抱きつつも、一種専業の人たちを頼まずにおられぬ者が多かった。それが都会においては夙く流弊を生じ、ちっとも宛にはならなくなったのもやむをえなかったが、それに促されて精進そのものの意義までを、無視するに至ったのは新しい現象であった。

同書 402頁

江戸期の平田篤胤でさえ、毎朝参拝の作法を書き記しているほどですから、物忌の軽薄化は時代の変遷とともに庶民の間で生じてきたと捉えても間違いでは無さそうです。

相饗思想について

祭の相饗についてはどうでしょう。
神へ供物を捧げることは今日でも普通に行われていることですが、これには相饗思想が深く関係しているそうです。
本来、神への供物ないし神饌は、氏子らと同じご食事をお供えし、供食を以て、神々との大切な接触・連絡を図るという活動が行われていました。しかし、今日では古来の慣習が廃れ、米や魚など原料をそのままお供えすることが多く、いわゆる直会の方式にその衰微が窺えると述べています。
節供などで、人の食べる物をお供えする家を見ますが、あれこそが古来からの風習すなわち相饗の考えを踏襲しているのかもしれません。

神職の起こりについて

神職について、地方によっては「タイフ」「ホウリ」などと呼ばれていた職があり、前者はとりわけ後者より広い範囲で耳にすることができたそうです。柳田はこれを神職が職業化する前の状態であると見て、廻り持ちで氏神の神役を務めさせてたり、協議の末、代表者を選出されたといった今日でいう氏子総代らしき神職制度に着目しました。
柳田は以上のことを便宜的に2つに区分し、土地生え抜きの神職と中世以後の外部から来た神職の新旧を比較しています。

...領主その他外部の崇敬が厚く、寄進の所領財産が豊かである場合には、彼等もその余沢を受けて、奉仕を一つの専業とすることができたのだが、そういう御社の数は実は何ほどもなかった。他の大多数はその御社に仕えんがために、別に農林その他の生産にいそしんでいた。すなわち彼等にとっては神祭は最も高尚なる消費事業であった。祭の経費を支弁するがためには、自身まず進んで農民の生活をしたのである。...しかるに他の一方においては氏人の繁栄増加、ないしは幾つかの氏族の合同によって、多数の村民が一つの御社の神を祭るようになると...順番交代して神主の役を務めさせようとして、ついに今見るような廻り神主、または頭屋の規約というものができて来たのである。こうなると...なんらか外部の条件が変るたびに、次第に第二種の神職の必要を多くする結果を見た。明治初期の制度改革のごときも、言わばその必要の特殊に顕著だった場合の一つであった。

同書 381-382頁

生産活動と乖離しない消費活動という信仰のあり方も昔はあったとのことでした。現在の神主さんで、兼業される方をチラホラ聞きますが、専業化の黎明期においてもこのようなことがあったのですね。その根拠が所有の土地の生産であるかは理解の範疇を越えますが...

結論

 マークした箇所は以上で網羅できたはずなので一安心...

当論文においては、物忌がかなり重視されていて、終わりの方には、この信心と敬神のけじめが緩み、祭に従事する者までもがこれに合わせることによって、儀典の外貌と内部の感覚にたちまち影響を与え、祭の中心は見物の群衆へと移ろい、見物人の少ない閑散とした祭は極度に寥々としたものになったと綴っています。
特に良い悪いかを俄かには言えないとしつつも、まずは自ら知るという学問の姿勢を説いていますが、これは一貫した柳田の考えかなと思いますね。

私は、意識高い系というより意識低い系なので、これを見て全国津々浦々行動しようというより、まずは基本的な事柄を地道に地を這いつくばって究めていこうかと思います。鬼電で恐れられし我が祖母との会話のつまみにこういう話題はほんと相性がいいものですからね。こういう熱心なき学徒擬きは何より柳田民俗学一派の皆様から心底軽蔑されそうですけど...

まぁ、その第一歩としてこの論文の気になる箇所を読書録として書き記してみました。また時間があるときに更新していきたいと思います。ではでは。



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