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待て待て。"引きこもり"こそ日本の伝統でしょ?...物忌の民俗学的解剖ー柳田国男を読む_12(「忌と物忌の話」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

①『柳田國男全集13』ちくま文庫(1990)
②『柳田國男全集14』ちくま文庫(1990)

序論

 何かと気怠くなる5月。一息つけるゴールデンウィークといっても、相変わらずの不完全な連休で、有給を使って間を埋める方もいらっしゃるでしょうが、業種やその他事情によって、難しい方も多いことでしょう。

私としては極限まで引きこもって、気を鎮めたい(積み本・積みゲーの解消をry)訳ですが、世間には、せっかちでやっかみな人がおりまして、色々と喧しくされると、まぁ、肩身が狭くなりますよねぇ...

今では、市政紙やら県政紙で引きこもり対策と銘打って、私のような穴に籠るモグラを徹底的に掴み捕らえようとする不逞な権力者もいるようです。別に労働はしてるし、税金まで払ってるのに、なぜあれこれ指示されねばならぬのか。そういう社会主義的設計はシムシティだけでどうぞ(白目

閑話休題。関係上致し方がない人もおりますが、テレビでもネットでも「もったいないって」という中途半端な復古精神やらを掲げられると一段と面倒くさいというか(私はあまり気にしないタイプではありますが...

しかしですね、このなんというか、気を鎮める作業?いや感覚ですかね?これは、先述した中途半端な復古精神や要らんやっかみによって消沈できるものではなく、何かとマイノリティー扱いされがちな気質ではあるものの、我が国の先人たちが大事にしてきた知恵であり伝統でもある訳です。

もはや、形骸化され、その本質を見失いつつある大晦日の徹夜ならぬ夜籠、故人を偲ぶ喪中及び忌引き...喧騒的な日常とは乖離する、静謐な空間の確保というのも、この現代でさえ、何とか持ち堪えている...これには当然、理由がある訳です。

今回はそれに因む物忌のお話となります。

前にご紹介した柳田節とは、半ば私の専売特許と化していますが(勝手にするな)、今回の話題もそれに追うぐらいに柳田國男氏の書物で散見できるものです。

連休の狭間にク○みたいな労働をさせられる気晴らしという本音は心に残しつつ()、ここにその歴史的経緯を尋ねてみたいと思います。

本論

そもそも物忌 is 何?

くり返していうようだが、祭の物忌は全体に短縮省略の一路を辿っている。これがはっきりせぬと神道の古い心持はわからぬのに、今はすでに残るものがわすがであり、またその痕跡であるべきものにも、もう異なる解説が与えられようとしている。

② 328頁

 あらあら、ご本人もくどく述べている自覚はあったようですね(

あのー、前の柳田節みたいな事例特集は、大分労力を使うので今回は割愛させていただきますけど、柳田民俗学でも割と取り上げられることの多い祭や神道の事柄では、必ずと言っていいほど、物忌はセットで提供されます()

んじゃあ、その忌?というか物忌ってのは何なのか?

序論で記したように喪中やら忌引きとかそういう喪に服す場合を指すというのは、何とかなく印象としては残っている人が大半でしょう。実際、間違いではありませんし、忌を堅苦しく、距離を置いて考える傾向にあるのもこれが主因でしょう。

...古い記録を見ても、忌機殿は神に捧ぐる貴い衣を織る場処であり...しかも一方には血族に死者があり、妻が産をしたために特に行動を慎まなければならぬ場合をもイミと謂っている。今日ではイミといえば主としてこの方になったようだが、なおいたってめでたい神の祭の日の前の謹慎をも忌籠といい...祭典の準備として必要なイミだけは、中世以後は特に物忌というのが普通であった。伊勢や春日の神事の使にさされた人の家などに、物忌間を立てて客人を謝絶したことは、いくらともなく日記類に見えている。
...物忌という語はなおこれ以外においても一種の徽章の名として用いられている。たとえば祭の日に物見車に附け、また御殿の簾に垂れた紙のシデまたは糸、ある種の植物の小枝などでこの中にいる人は物忌をしているということを表示する...物忌はすなわちこの殊別隔離の必要を表したもの...

① 688-689頁

私が言わんとしていることは、上記で柳田氏がうまく纏めてくれています。

最近の大河ドラマに因むかもしれませんが、平安貴族の日記なんかにも物忌についてはよく出てきますよね。欠勤理由にチョロチョロと記して、ズル休みとか(白目

民俗学学徒なら親の声より聞いたあの事始めの目籠は、まさにこの徽章に該当する事柄だろうと思います。

ここで現代人が、よく注意せねばならぬのは、忌は別に故人への喪中だけを指すのではなく、祭り事などに対しても忌みを発動していたということでしょう。

序論でお話した、あの正月を迎えるにあたっての大晦日の夜籠、これこそその最たる名残りなわけです。

忌むこと=お祝い?

 最近流行りの猫ミームのハッピー猫を喪中で召喚したら、即刻総スカンあの世へ行き間違いなしでしょうが、本来意味的には同一であるとのこと。

...葬るは今日ホームル、一方の神主は昔ながらにハフリであるけれども、諏訪では重代の大役をオーホーリ、沖縄の諸島でも初夏の農祭をプーリ・フーリといって、文字には穂利祭などと書いている。ホームルのハフリは同時にまた、祭の前のさいきをも意味していたのである。これに祝という字を宛てたのが正しいかどうかは知らず、とにかくに小竹祝、天野祝などの名称は古くからあった。イワウという日本語も先輩が既に説かれたように、やはり本来は忌むことであり、後世にもそういう意味に使う人があった。イワイとハフリと何だか両端のもののように感じられるが、もとは一つの精神状態の名であったのである。

① 690-691頁

この祝うの原義というのは、今日では定説化されてはいますが、世間一般にはあまり浸透していないようにも思えます。

以前の記事では交通の発達や経済的な要因に絡めた話がありましたけど、信仰は変転を常とし、我が国の文化もそのご多聞に漏れない訳ですが、こうした過去を忘却して、近代的な宿痾に呑まれてか、安易に個人個性に帰し、一方で、外国ではどうのこうの〜と安直に迎拝するのもムム、眉を顰めたくなります。
せっかく、我々の風習にこのような残滓がある訳ですから、現にある以上は、うまく活用したいものです。

"引きこもり"は動物以来の知恵

 では、この引きこもるないしは物忌のそもそも起源とは。柳田氏はこのように述べています。

...普通人の普通にしている事を、特に志すところあって避けるのが忌である。避けなければ災いが身に及び、または弘く人の世に及ぶことを恐れたる戒慎である。...我々の祖先がまだ荒野の小動物のごとく無力であった頃、最も自然なる危害の回避法は、ただじっとして潜んでいることであった。小鳥や兎などには依然としてこの風がある。...ことに外部の危害が奮闘して克ち、奔って遁げ避けることあたわざる過大なもの、目に見え遠く望むことのできぬものに対しては、できるだけ静かに小さくなっていて、それを遣り過そうとしたのは動物以来の知恵である。

① 693頁

我が国の習俗以前に動物的本能じゃね?とまぁ、柳田氏は仰るわけです。

当然、本能は制限されてこそ文明足り得ると近代人は考えたわけで、柳田氏もそれは文明化とともにその自己検束を少なくするのは自然だと述べています。忌はその最後の残塁と言い得るでしょう。

...昔ほどではないけれども、この見当の付かぬ警戒はなお必要であった。古人が我々の警戒すべき時期、最も大切な時刻と考えていたのは、一日の中でも夜...それから次には仕事の取掛り、一年の中では重要なる生産の日、田植とか物蒔きとか、つまり将来の不定の最も大きな時をもって、危険の原因の潜む時と考えたのである。次には狩に出る日、山に入る日、戦いに臨む際...そうしていかに謹慎すべきかというと、一言で尽せば閉息であった...小賢しい計画をせずまた提議をせぬことであった。

① 693-694頁

つまりは引きこもり最高ってことですわな(曲解

(余談)物忌に伴う禁忌について

 禁忌としてしばしば話題に挙げられるのが火と食でしょうか。

柳田氏によれば、火と水を清くすることが日本の斎忌で重視されたことだと分析し、とりわけ水の清めは容易だとされたそう。問題なのは火であり、常に清くする事は至極難しかったようでして、合火なんかは今でも禁忌の項目としてはよく意識される方が多いのでは?民族によっては火によって浄化を図るそうですが、我が国ではそれに該当しないようです。

食については、仏教の混入が甚だしくその混乱を加速させているそうですが、本来神道では、獣の宍と血のみを忌むとのこと。仏教では動物全般ですから、この点は寛容であったのかもしれません。

結論

...免れがたかった変遷は物忌の緩怠であって、かつてはこれが祭の勤仕の、たった一つの条件ともいうべきものだったが、後には旅の行きずりに、何の用意もなく肉食や血の穢れのままで、鳥居をくぐる者が多く、社頭のみたらしは水涸れ、物々しい石の水盤を、ただ横目に見て通るのが比々の例となった。幸にして面ただしい若干の旧社においてはまだ潔斎が厳守せられ...これによって一般の風潮を堰き止めるには足らない。...祭をこのような略式ですませているという不安な心持...これがいちばん誠心誠意の祈願の、大きな妨げになっているかと私は歎いている。

② 596頁

ひとり神祭の場合のみではないが、物忌と生産とは最初から両立せぬものであった。と言おうよりも、むしろ常の日の生業から離れることが物忌であった。その最も著しい例は喪屋の忌で...その痕跡はまだ幽かに残っている。しかし都会はいうに及ばず、農村でもこれまでの拘束を受けていることができなくなって、穢れのあるままで出て働くことが普通になった。清い斎忌の方にもこれに近いような社会事情が働いて、祭があるからといって経済上の要求は免ぜられず、人もまた進んで忌の拘束を脱しようとしたのであった。

② 644頁

 とこんな感じで物忌についてはよく筆が乗るそうで、学者的な中立性は意識されているのでしょうけど、いわゆる物忌衰微については神道の問題ひいては国民の問題としてずっと腹に抱えていたのでしょう。彼の書物を読むと看取できます。

引用にある喪屋ですが、ここではすなわち忌小屋全般を指しておられるのでしょう。忌小屋とは学術的な月経小屋やその他、地方ではどんと焼きで見られる鳥小屋、小正月に向けた主として子供たちのかまくらなどもこれに該当しそうです。

私も北の僻地に住んでいたものですから、幼少の頃はかまくらを作っては玩具を揃え、粉雪などをやり過ごしたものでした。炬燵を持ち込む強者もおりましたが、ともかく降雪をやり過ごし、ひいては本来の目玉である小正月を寿くための忌が伝統的な感覚であり、風習だったのでしょう。禁忌がどうだなどといったことはこちらにはなく、ただゆったりと時が進んでいたなぁとそんな印象が深いですね。

祭についても昔は祭日が休みになることも多かったなぁと。学校では、確か途中から休みじゃなくなったかな?
遠方の親戚の家にお盆休みとなればよく足を運び、地元の祭日で仕事が休みだということで、祭場まで連れて行ってくれた記憶があります。これもだいぶ前のことですが。今でもド田舎であれば、そういう風習はありそうですが、半端な復古を掲げるだけで、現在の企業の大半は、地元の祭日で休みを設けることは9割5分あり得ないでしょう。噺子を聴きながら仕事に勤しむなんてザラだし...

ゴールデンウィークの労働への逆恨みからかよく筆が進んでしまうので、この辺に留めることにしましょう。まぁ、結論、引きこもりは正義ということで...というのは半分冗談で、祭や大事で事を起こす、また事を終えた後(事八日みたいな?)、我々の祖先は物忌を通じて、穢れの浄化ないしは根源的には平静を保っていたのでしょう。

胡散臭い昨今のスピリチュアルやら有資格なのかも怪しいカウンセラー擬きよりは実にためになる一冊でした(小声

清静は天下の正たり

本日はこの辺で。ではでは。

追記)
いや、②の書物で一つ記事を書こうかと思いましたが、内容の重複と分量の不足が懸念されたので、以前の記事に追加という形で更新しやした。お題は「勧請」についてです。ご興味のある方は下記より是非是非。是非是非(圧


・備忘録

○伊勢参り?

本論とは関係ないが、全集14の気になった箇所をメモ。

伊勢道者の歴史は、鎌倉ぐらいまで辿れるらしいが、いわゆる伊勢参りとは別に御田屋参りという風習も認識せねばならぬとのこと。
御田屋とは簡単に言えば、伊勢御師の定宿であり、ここに仮初に伊勢大神を勧請させ、遠方にまで参拝できぬ者への便宜を図っていた。田舎ではもっと簡易的なものを拵え、田屋明神と呼び、ここに参拝することを居参宮と言っていたそう。

○物忌衰微?

出雲参りの神々を俗説だと退け、十一月の例祭に向けた神在祭、またそれを補完するかつてのからさでは、物忌軽減の兆候か。
越後ではナカネ、上総の方ではミカワリというのを設けるようになっていたと。

○「祭日考」のメモ

祭日の五段階変化。
①二月十一月、四月十一月をもって祭日
②①以外に一つや二つ追加されたもの
③春秋両度の祭日のうち、一つは二、四、十一月で今一つは別の月のもの
④春秋両度または年一度に二、四、十一月でない月に祭を行うもの(新暦は大半これ
⑤夏祭

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