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神社にある社殿、あれ何なん?ー柳田國男を読む_02(「神道と民俗学」)ー

(アイキャッチはニューヨーク公共図書館より)

『柳田國男全集13』 ちくま文庫(1990)

序論

 第二回目は、神社精神文化研究所の希望に応じて作成した民俗学の大意なる論稿へ加筆修正を加えた論文を取り上げます。
とりわけ、御社(社殿)の成立と氏神の変遷に関連する内容を抄録し、手前勝手ながら、硬直した自分の脳みそへの教練作業を温かい目で見守って頂ければと思います。
再三申し上げることになりますが、あくまで至極利己的な動機で書き記していますので、これを以て当論文ないし著者の大意を得たりと考えないようにしてください...あくまで無学な者が読解したものにすぎないので。よろしくお願いします。

本論

御旅所と祭場二処論

 柳田はまず、幼少の頃に経験した御旅所という邑里の片隅に設けられた臨時の祭場なるものに着目し、神をその場にお迎え申す祭と初めから定在で執り行われる祭の二者の相違について考察しています。
越後では前者に伴う神渡御のことをゴウリンと呼んでいた記録があり、九州の多くの土地では、御旅所への行列式をハマトクダリと呼んでいたとし、すなわち平浜に仮宮をしつられて、祭が執り行われることが少なくなかったようです。また、この御降りを迎える風習において、祭場を点定する御旅所ではなく、頭屋と称する常民の家をもって充てる例や神輿の休憩する場にあって、これを栄えあるものとして旧家が担当した例も窺えるそう。
頭屋制の名残りはこうしたところから生じていそうですね。

以上から柳田は、神を二処においてお祭り申すのが古くからの習わしであり、後者のすなわち御社ないし社殿の重要性が日増しに大きくなるのは、火災・旱魃に対する祈願や個人祈願の増加を見れば、明らかであると分析しています。
確かに、日常の祭場の要請が増えれば、神が常在する処が重要となるのは必然かもしれません。

御上りと御降り

前項に関連して、神は御高い処に座すという意識が多少なりとも作用しているとみて、それは御上りと御降りという行為に現れると見ています。御迎えした春の神は左義長によって御送りし、3月の節供における雛送りも御送りする例証としてまさにこうした行為に該当する儀式に分類できそうです。

これは祭の厳粛味を保つ上からも、必要なことだったのであります。神と人との永く処を同じゅうするということは、ただに人間に安息の時を与えぬというだけではなく、同時にまた神の尊さを認める道でもなかったのであります。物忌の忍苦緊張ということをただ一通りにしか考えぬ今の世の人には、あるいは想像の外かも知れませんが、これは期間があって始めて守られ得るほどの難業苦行でありました。

同書 499頁

また、急いで送らねばならぬ小さな神々や荒ぶる神が増えたがため、御降りは意識しても御上りの刻限は曖昧になり、いつしかこの二つは混同したと柳田は述べます。

境内社と相殿の関係

官府の命令または奨励によって、近年行われた合祀には思い切ったのがあって、何の御由縁もあり得ない二十幾柱もの神々を、順位もいかがわしく並び立てた例もありますが、それ以前の、藩の干渉のなかった地方においても、火災その他の事情によって、自然に住民の間だけで企てられた合祀というものが時々はあり、あるいはまたいつの世からとも知れず、よそでは別々の御社に祀るのを常とする神々を相殿としているとのもあります。そうしてこれにも境内社と同じような、その地限りの主従の地位があったようであります。

同書 515頁

境内社との主な相違点としては、拝殿の外廊下の片端などに、別に小さな祠があるが、露地の上ではないことが後述されています。

合祀なる精神が古くからありながらも、主客新旧の別ははっきりとさせていたことは一つ我々の信仰基盤を考える上の試金石になりそうですね。

大神勧請による民間信仰への影響

祖霊の中では始祖が最も大切な、功績の偉大な神であったことは言うまでもありませんが、家道には変転があって、また中興の祖というものも感謝せられているのみならず、これを重んじて中間の著われざる代々を、粗略にするわけには行きません。人間の経験から推せば、家の主には代々ごとにかわった長処がありまして、その集合協力を認めることが、ことにその恩沢慈愛を心強く感ぜしめたのであります。だから常民の常の一族では...ただ先祖様という言葉の中に、想像し得る限りのすべての尊属を含めていたのであります。...村の結合のために大きな推進となっていた氏神の合同のごときも、これがあるお蔭に安らかになし遂げられたものと思いますが、ただ一つの困ったことには、それからあと次々に神に加わるべき霊魂の、納まり処がなくなったように、考えるものが多くなって来たことであります。

同書 530-531頁

これには全国有数の大神を勧請したことにより、特に隔絶の原因ともなり得たと後述しています。
また、中世以降、結末の付かぬ霊魂がどんどん増加し、また、死穢に結びつけ、祭られぬ亡魂への畏怖の念を抱くなりました。お盆などにみる一段低く設置する精霊棚等はまさにこの対応策と考察できますが、さらに神人の隔離がより強く考えることで、持仏壇や棚経など仏教国たらしめる権能を益々要求するようになったとも同時に読み取ることができます。
なによりこのような仏教的要素を拡張した裏には、氏神信仰の発達があったと因果関係を突き詰める柳田の慧眼ぶりには感服の限りですね...

結論

 常設の御社ないし社殿の成立については、神を二処にお祭りしていたこと含めて、なかなか興味深い考察だったなぁという印象ですね。個人的にはそれが御上りと御降りの信仰様式と関係しているという所に興味が惹かれましたが...

後段の大神勧請の話も学生の頃、飛ばし読みした『先祖の話』という論考で同様の内容を観た覚えがありますが、事に御社の成立や氏神等と関連して読み解くと説得力がやはり違いますね。

今回も個人的にチェックした箇所を網羅させて頂きました。ボケ防止というスーパー利己主義的動機が最大の目的ですが、これをきっかけに同書物を手に取り、さらなる見聞を深めて頂ければ、幸甚の至りでございます。

当論文で思い出した『先祖の話』ですが、同書物のはじめに収録されておりましたw 今は別冊で販売されていますが(チェック入れてるのはこっちだな)、気が向いたら、こちらもまとめようかな...柳田國男と邂逅した記念すべき論文にして、忘却の彼方へ消えていった青春時代...碌でもないな(小声

ではでは。またどこかで。


・補論(2024/5/1)

 次巻の14、とりわけ「神樹篇」「山宮考」「氏神と氏子」において、本論に近しい話題の詳述があった。
稿を改めることも一度は考えたが、それだと内容の重複が甚だしいことと容量として少し物足りない感じも拭えないので、こちらの備忘録で残しておきたい。

...木造の社殿は、日に月に頽破して行くのである。大きな神社が寄付で立派なものを造営するために、それでなくても村の小社は見すぼらしく、これを信仰の測度計と見られてはたまらぬのに、今度はまたさらに戦争によって、荒廃の感を深くすることであろう。...社は屋代であって祭の仮屋を立てる予定地である。その仮屋もただ奉仕人の籠る場所で、以前は露地に神を祭る場合がいくらもあった。必ず常設の社殿のあるものでなければ、神社でないごとく考えたのは明治以来といってもよく、また少しも根拠のないことであった。...神域を清く保つためには、もう一度以前の霊地観を復活しなければならぬ。それには何としても日本の神社の変遷を、誰にも呑み込めるように記述しておく必要がある。

柳田國男全集14 ちくま文庫(1990) 574-575頁

すなわち、ここでポイントとなるのは勧請である。神社以前にも当然、神道の姿があった訳で、それを注意深く読み解こうというのが柳田氏の主眼とする所であった。

それには例えば、日本武尊、弘法大師、親鸞上人等々の行者が、杖を刺すや否や天空を覆うが如く成長し、逆さ杉や逆さ松などの神樹伝説を生んだこと、将又、貴人が腰掛けた石などが「神樹篇」で詳しく考察されており、それは古き時代から勧請が行われていたことを意味付けると柳田氏は述べている。

「山宮考」では、山宮・里宮、巷でいう夏宮・冬宮といった二所の祭場を歴史的変遷から考察を加えている。祖神、氏神の棲み分けと分裂・新興など、ここでも一様でない神道のあり方がまざまざと記されている。山宮では仮屋を立てることはザラであったことも窺える。現在でも微かにその名残りは感得できよう。

「氏神と氏子」では、氏神社の分類、勧請の分類など、今までの論文をうまく纏められたもののようにも感じられ、個人的に一番腑に落ちた論考であった。

...総社という社の名は...もと集合祭場という意味であったことはほぼ疑いがなく、これがまた国府の地を繁昌せしめる手段にも供せられたかと思うが、ともかくもこれは勧請であり、もとの御社の地とは別だから氏神ではなく、また古い意味における氏人もなかったはずである。...村に止まって少しも外へ出ぬ者は別として、出でて大きな社会に携わった人々にとっては、あるいはめいめいの氏の神以上に、これにも崇敬を寄せなければならなかったかと思われる。内外二通りの神を信ずる因習のもとは、こういうところに胚胎したのかもしれない。

同書 558頁

勧請分類の一つである国司勧請の項から一つ気になる所を抄録した。

国司も初期の頃はその赴任にあたって、現地の主要な大社へ巡拝する慣習があったが、その労力軽減からか総社へ一元化する働きが当時からあった。また赴任者からすれば、自身の氏神とは別の現地の氏神にも頭を下げねばならぬことから、信仰の多様化というのも平安頃から確認ができる。

備忘録を記していて、ふと思い出したことがある。

ガキの頃、地元の区画整備とやらで神社を移転しなければならず、すなわちここでいう勧請の行事の一端に携わることがあった。神輿を担いでは囃子を轟かせ、地域の人々に酒や餅を振る舞い、とある屋敷での休憩を挟み、完成もしてない移転地へと勤む...極めて小さい神社であったため、大社の例祭などからすれば極めて見劣りし、由緒としても大したことはなかった覚えだ。

パワースポット巡りやらスピリチュアルやら、日頃から喧しかった御仁も、この行事に冷淡だったなぁ...

しかし、上記の記事内容を咀嚼すれば、かつての出来事が次々と紐づけられ、氷解する気分へと昇華させられる。

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