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消雲堂自分史 阿武隈川

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駄目な人間の私が、どうやって生きてきたのかを再確認するマガジンです。自分のためのものですが、興味のある方はどうぞご覧下さい。
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2021年5月の記事一覧

死に逝く者(義父の場合)     「襖(FUSUMA)」

死に逝く者(義父の場合)     「襖(FUSUMA)」

1.

東日本大震災の頃から義父が認知症だということがわかり、翌年から症状が酷くなった。西葛西のマンションを出て、周辺を徘徊するようになった。徘徊しないように義父の側にいると、突然、虚空を指さして「あそこに誰かいる」「あいつは俺のことをいつも見ている」と怒ったように呟くことが多かった。レビー小体型認知症の症状だ。木場の病院で症状を停める薬を処方してもらっても義父の症状は酷くなるばかりだった。

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湯島の夜「Oさん、元気ですか?」

湯島の夜「Oさん、元気ですか?」

出版社時代のこと。僕は入社から10年間は記事を書いたり編集したりする編集部に属していましたが、そのうちに自分で得意だと思い込んでいた文章執筆というのが素人以下だということが判明したのです。記事を書いたら編集長が「これはどう直したらいいんだ?」と悩ませるほどでした。

そして、ある日、突然「お前はもう文章を書くな。これからは広告営業をやれ」と命じられて名刺には「広告営業担当」という文字が印刷されまし

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「人はいつでも泣いたふり」

「人はいつでも泣いたふり」

昔(2006~2007年ぐらいのこと)、気まぐれで歌を作っていたことがあります。単調なC→F→G→Cというコードなんかで幼稚な歌を作って録音していました。今考えると恥ずかしい僕の黒歴史ですね。

人はいつでも泣いたふり

悲しい事なんかないくせに
人はいつでもそうやって
自分が死ぬ時も泣いたふり

人に笑われて生きてきたよ
尊敬されて生きるより
なんだか苦労しているっぽくて
面白い人生になる気がす

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犬

福島市に住んでいたときのことだ。多分、小学校に入学する直前のことだったと思う。父親が真っ白なスピッツの仔犬を貰ってきた。僕は嬉しくてそのスピッツといつも一緒に過ごした。なぜかスピッツには名前をつけていなかった。

当時はアパート暮らしだったから「犬を飼ってもよかった」のかは不明だが、いまのように動物を飼うことにうるさくはなかったのかもしれない。ただし、昔のことだからはっきりとした記憶がないが、アパ

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私版 釣魚大全「針」

私版 釣魚大全「針」

千葉に転居した直後のことだったと思う。その頃はハイラックスサーフWキャブというトラックに乗っていた。それで千葉のあちこちに釣りに出かけた。釣りの対象魚はブラックバスやブルーギルだ。今では“特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律”違反だが、1970年代に千葉の野池やダム湖にはルアーフィッシングの先達たちが密放流して魚を増やした。だから千葉の野池やダム湖には今でも多くのブラックバスやブ

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弁天山

弁天山

人の記憶というのは何歳の頃からあるのだろう? なかには生まれたときの記憶があるという信じられない人もいる。僕の最初の記憶は、多分2歳の頃だと思う。生まれたのが福島県の平市(現在はいわき市)なのだが、その操車場らしき場所を歩いている記憶があるのだ。操車場を調べると常磐線のいわき貨物駅のようだ。何故、そのような場所に行ったのかは両親に聞いてもわからなかった。

その次は、福島市の土湯温泉で苦しまずに溺

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死に逝く者 記憶の断片

死に逝く者 記憶の断片

①ひょうひょうと吹く風が鉄塔の柱に当たってビュンビュンと唸っている。雲ひとつない晴天なのに風だけが強い。その空き地にはもうすぐ大きな家電量販店が建つ予定だった。

10年前、僕はこの空き地に大きな四駆トラックを停めて一晩を過ごした。

「よくこんな所で眠れたね」かみさんが笑った。

「ほんとだね…今考えると怖いね」10年前は義母の楓子さんも生きていた。

10年前の記憶が蘇る。

「なんね、うちに

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