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福島市に住んでいたときのことだ。多分、小学校に入学する直前のことだったと思う。父親が真っ白なスピッツの仔犬を貰ってきた。僕は嬉しくてそのスピッツといつも一緒に過ごした。なぜかスピッツには名前をつけていなかった。

当時はアパート暮らしだったから「犬を飼ってもよかった」のかは不明だが、いまのように動物を飼うことにうるさくはなかったのかもしれない。ただし、昔のことだからはっきりとした記憶がないが、アパートの外に小さな犬小屋を作って、そこで買っていたような気がする。そうでなければ今回の話に齟齬が出てくるから。

ある日の夕方、僕はいつものように犬と遊んでいた。アパートの前には県道が通っていて、母がアパートと県道を隔てた長屋の前で友だちたちと楽しそうに話していた。いわゆる井戸端会議というやつである。

僕は悪戯をしようと考えた。犬を母の元に走らせて驚かせようと思ったのだ。僕は犬の鎖を外して母の元に「行けっ!」と言った。すると犬は思い切り母の元に走って行った。仔犬の小さな身体は矢が飛ぶように走って行った。そして県道を渡って母の元まで走って母にじゃれついた。

「わぁ、びっくりした」母が驚いたようだったので、僕の目的は達成された。母と彼女の友人たちはキャアキャアと少女のように犬と戯れた。僕は何度も同じ事をして彼女たちを喜ばせようとした。それに、(今になって思うことだが)犬が僕の命令に従うところを得意になって見せたかったらしいのだ。

僕は彼女たちと戯れる犬にむかって「おいで」と叫んだ。すると犬はピクリと僕の方を振り返り見て一目散に走り出した。一瞬のことだった。彼は県道を渡る際に「ギャ!」という声を出して商用車(ライトバン)に轢かれた。

「キャー!」母と友人たちが叫んだ。僕は何があったのか理解できなかった。母たちは「可哀想に…」と声を出した。車の中から運転していた男性が出てきて母たちと何か話していた。

しばらくして母が僕の所まで来て「スピッツは轢かれて死んじゃったのよ。運転手さんがあとからお詫びに来るって…」と言って、また犬の遺骸の元に戻っていった。僕は自分の行いによって先ほどまで生きていた小さな命がなくなったことに対して恐怖で身体が震え、そのままアパートの部屋に走リ戻って、コタツの中に潜って震えながら泣いた。

結局、犬を轢き殺した運転手は戻って来なかった。当時は犬や猫の命は軽んじられていた気がする。昭和30年代という経済成長期であり、車を所有する人間も企業も少なかったが、巷には飼い犬でも首輪をしていない犬や野犬などウロウロしていて、犬が轢かれることは稀ではあったけれど、たまに道路には犬の轢死体が転がっていた。この時代には人でさえ車に轢かれても、今のように大きな罪に問われたり賠償を求められたりすることも少なかった。

そんな社会だったから「わざわざ戻ってお詫びなんかする必要はない。下手な対応をして金でもせびられたら困る」と会社の上司に言われたのかもしれない。

僕は子どもながらに死ぬことがどういうことなのか、しかも、それが一瞬であるという運命の冷酷さを初めて理解していた。

そのうちに母が戻ってきた。母たちは、犬の遺骸を、母の友だちが持っていた大きな木のミカン箱(リンゴ箱かもしれない)に入れて長屋の裏を流れる阿武隈川に流したと教えてくれた。今であれば「何故土葬しなかったのか?」問われると思うが、母たちなりの優しい埋葬方法だったと思われる。

しかし、木箱に入れられた犬は、阿武隈川を海まで運ばれることはないだろう。途中で何かに引っかかってそこで腐敗していくか、それとも荒瀬で木箱が転覆して遺骸だけが流されていくのか、それとも鴉や小動物に食われてしまうのか…。

阿武隈川をゆらゆらと流れていく木箱の中に横たわる犬の無念さを思って、僕は、それからしばらく泣き暮らした。

↓こちらも福島市での記憶です。併せてお読みいただければ嬉しいです。



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