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「畏む(かしこむ)」五感の体験を 海幸山幸25 ことの葉り。百八八

突然の「別れ」

おはようございます。週末、大型台風がきそうですね。
私は今朝も、「ことの葉綴り。」のひとときです。

「決して私を見ないでください」と嘆願し、お産のために産屋に籠られた豊玉毘賣さま。不思議に感じた山幸彦さまは、つい覗き見してしまい……。

豊玉毘賣さまは、海の世界の元の八尋鮫姿で、お産をされていました。
あまりに恥ずかしい……。

豊玉毘賣さまは、天孫の御子をお産みになると、その御子を山幸彦さまに托されて、海の世界へと帰ってしまわれました。
海と地上との世界に「境」をつくられて……。
突然の「別れ」が訪れました。

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「見畏み」って?

ここに、山幸彦さまが、豊玉毘賣さまが出産のために籠られた産屋を覗きみたとき、『古事記』には、こうあります。

「見驚き畏みて、遁げ退きたまひき」

みなさん、覚えているでしょうか?
「見畏み」……です。

「見るな~」と言われて、見てしまった……です。

神話の物語で、これまでにも「見畏み」が登場しています。
山幸彦さまが、豊玉毘賣さまを「見畏む」のは、三度目なんです。

では「畏む」とは、どういう感じでしょう?
恐れ多い。恐れ慎む
「畏(かしこ)まる」
神や権威のある人の前で、姿勢を正す。恐れ慎む。「三省堂国語辞典」。

その対象の威光や存在を、ただならぬ、常ならぬものを感じて、恐れ多いと思う。敬い慎む……普段、あまり体感しないかもしれませんが、みなさんも、神社にお参りにいって、目には見えないけれど、神々しい、何か言葉にはならない感覚から、涙がこぼれそうになったり、自ずと手を合わせる……そんな体験があるのではないでしょうか?

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「畏む」には、分離と別れが共にある

心理学者の河合隼雄氏は、これを「『古事記』で重要」と説いています。

「これを見ると、(この神話で)順次に適切に『見畏む』体験がなされてきていることがわかる。
『畏む』は、単なる恐怖を越えた体験である。
日本神話の神と人との連続性の強さから考えて、これらの『畏む』体験は、神々のことではあるが、人間の宗教体験のもっとも素朴で、根元的なことについて語っていると受け止めることができる」

最初の「見畏む」は、
伊邪那岐命さまが、愛する妻を追いかけて
黄泉の国へいき、妻からは「見るな」と言われていたのに
見てしまって……。
凄まじい「腐乱死体」となった妻を“見て畏む”。
ここから、神話の物語では、生と死の世界がはっきりと分かれ、
初の夫婦神の伊邪那岐命さまと、国母の伊邪那美命さまの
「別れ」が綴られています

もう一つ、「見畏む」は、
天孫降臨した邇邇芸命(ににぎのみこと)さま。
山の神の姫神の木花佐久夜毘賣(このはなさくやひめ)に一目惚れして、プロポーズしましたよね。
そのとき、父の山の神は、山の世界から姉神の石長毘賣さまもご一緒に、嫁がせてきました。
けれど、邇邇芸命さまは、その容姿の「醜い女」だったことから、追い返してしまわれました。
ここから、有限の生命と∞無限の生命との分離があり、
木花佐久夜毘賣さまとの「結婚」「出産」という流れと、
人の生命が「有限」となり、私たち人間は死すべきものと
「分離」についてが、描かれています

そして、三度目の「見畏む」が、邇邇芸命さまの御子の山幸彦さま
愛妻の豊玉毘賣さまは、海の世界の姫神で、本来の姿が「鮫」でした。
そこから、豊玉毘賣さまとの「結婚」「出産」後の別れ。(分離)
海の世界と陸の世界との「境」と「分離」が、描かれています。

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「別れ」「分離」

河合隼雄氏の言葉を引用してみます。

すべて一なる存在として未分化であったものが、二つに分離し区別される。
そして、人間としては己がそのうちの片側に存在する者であって、他の側には簡単には入ってゆくことができないことを認識する。
そのとき、自分の手の届かない側の存在を認めつつ、それに対して「畏む」態度を持つ。
つまり己を越えた存在を「カミ」と感じるのである。
(略)人間がこの世をいかに認識するようになったか、そして、それは、まさに宗教体験として感じられたのだ、ということが、これらの順次に生じる「見畏む」物語によく示されていると思う。


神話の「畏む」は、私たちの精神史!

この三度の「見畏む」みは、「分離」と「別れ」が綴られています。
それも、人間が生きていく上では、誰一人例外なく、必ず経験し、成長していくプロセスでもあるのです

さらに、日本の神話の特性を、河合隼雄氏は、人間の精神史の視点から、現代にも通じるものだと、語っている。


このような「分離」には痛みが伴う。
人間の精神史としてみた場合。「意識」の拡大とその区別するはたらきには必ず「痛み」が伴うものであり、それは現代も変わっていない、と言えるだろう。
そして、そこには、「恥」「恨」「怒」などという感情も必ず生じてくる、と言える。
男が「見畏む」態度をとったとき、まず女性の側からの反応として三者に共通なのは、「恥」の感覚である。
やはり、日本人には「恥」が大切であることを、これらの物語は示している。
(略)恥の次に生ずる、恨、怒も相当なものである。
トヨタマの場合、その恨みも怒りも烈しかった。

だが、豊玉毘賣の場合は、恋しい心とお互いの相手を慕う気持ちが歌で詠まれている。


そこに「葛藤の美的解決」という、方式が見いだされ、トヨタマの恨みは、男性と女性の間の歌の交換という美的な形の中に、解消されてゆくのである、と続けている。

そして、後の人間緒時代になると、「恥」「恨」「怒」を、収めるために、「祀る」「祈る」ことが生じてくるが、これは「見畏む」の延長にあることがわかるであろう。
人代になったから建てられる多くの神社や寺は、このような意図をもって建てられたものが多いことは、梅原猛が指摘しているとおりである。

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祈りの根源の「畏む」

物語の中の「見畏む」こそ、私たちの、神や仏を祀り、祈る根元にあるものなのだ。
常ならず、優れたる徳のありて、畏むもの……。
雄大な自然、大いなるもの、目には見えないが、なぜか感じて感動して涙がこぼれる……この「見畏む」感覚や感性を、大切にしていきたい、と強く願う
幾ら、時代や社会が変わったとしても……。
「見畏む」とは、自然と自分との、見えないカミと自分との「つながり」方なのではないだろうか


またさらに、現代の心理療法家としての視点でも「見畏む」について、こう述べている。

女性の課した禁止を破る男性は、現代も後を絶たない。
当然、女性の恨みや怒りは強烈であるが、男性がしっかりと「畏む」ことをした場合、それは解決に向かう。
女性が太陽であったり岩であったりすることの認識のない男性は、妙な優越感を捨てきれず、「畏む」ことができない。
そのとき女性の怒りは個人レベルを超えて、人間のコントロールのきかない神々のレベルに達する。

(略)

そして、こう結んでいる。
「人間な根本的なところを見る限り、人間は神代以来ほとんど変化していない」と……。

伊勢の神宮をお参りし、「畏む」体験をされた、
西行法師の歌で今日は締めくくろうと思います。

何事のおはしますかは しらねども
かたじけなさに 涙こぼるる

ぜひ、五感で感じる「畏む」体験、
いっぱいなさってくださいね。

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―次回へ。

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