かぐや姫のモデル?迦具夜比賣 神話は今も生きている ことの葉綴り。二四七
子孫が有名人シリーズ かぐやひめ?
こんばんは。月曜日はお仕事の後、「ことの葉綴り。」のひと時です。日暮れが早くなりましたね。もうすっかり暗くなりました。
昨夜の明治神宮夜間特別参拝、境内も幻想的で美しかったです。
さて、“知られていない”『欠史八代』第二代~第九代の開化天皇(かいかてんのう)。その最後となる第九代、開化天皇のご兄弟たちの系譜のご紹介です。漢字ばかりですが、ご理解くださいね(笑)
少し復習をしますと、開化天皇は、四人の妻と五柱の御子がいました。
皇后となられたのは、父、第八代の孝元天皇の妃だった、継母の
伊迦賀色許賣命(いがかしこめのみこと)。
皇后との間に誕生した、御眞木入日子印惠命(みまきいりひこいにえのみこと)が、皇位を継承します。第十代、崇神天皇(すじんてんのう)です。
そのほかの四人の御子はどうなったのか? のご紹介です。
まず四人の御子とは……。
最初の妻、竹野比賣(たけのひめ)との間に生まれたのが、
比古由牟須美命(ひこゆすみのみこと)。
この天皇の兄、比古由牟須美命(ひこゆすみのみこと)の子どもは
長男、大筒木垂根王(おほつつきたりねみこと)。この王の娘が、のちに垂仁天皇の妃となる、迦具夜比賣命(かぐやひめ)です。
そして次男は、讃岐垂根王(さぬきたりねのみこと)です。
この二柱の王(みこと)には、五人の娘がいました。その一人が、先ほど書いた、迦具夜比賣命(かぐやひめのみこと)。
かぐやひめ…かぐやひめ?…な、なんと?かぐやひめ?!
一説には、あの、竹取物語のかぐやひめ説があるらしいですよ。
『竹取物語』のかぐや姫のモデル?
なぜ、『竹取物語」のモデルではないのか? といわれると、
『竹取物語」の「竹取翁(たけとりのおきな)」は、「讃岐造(さぬきのみやつこ)」とも呼ばれている。叔父の讃岐垂根王(さぬきたりねのみこと)と、讃岐の名前が一緒、そして、かぐや比売の名前も一緒。
かぐや姫にプロポーズする五人の貴公子たちも、「壬申の乱」で活躍した人がモデルともいわれているそうです。
奈良県の北葛城郡広陵町のサイトにも、こんな解説がありますよ!
実在した伝説が今も残る、広陵町
広陵町には、竹取物語の舞台といわれる「讃岐神社」があるそうです。今も巣山古墳近くで竹やぶに囲まれてご鎮座しているんですって。
この神社の近くには、「竹取公園」もあります。
竹の中から生まれたかぐや姫誕生のシーンを描いた大きなオブジェもあるようですよ。
『竹取物語』の中で、かぐや姫の名付け親となった「みむろとのいんべのあきた(御室戸斎部秋田」が住んでいたという「みむろ丘」もあって。
なんだか、浪漫が膨らみます。
『竹取物語』のかぐや姫が、お月さまへ帰っていったのも、中秋の満月の夜。ちょうど秋が深まる今頃なのかもしれませんね。
あっ、系譜の紹介、2人までしか行きませんでした(笑)
でも、“系譜だけ”といわれていても、子孫が有名人っていうのが、こんなに広がって、「かぐや姫」まで出てくるなんて、おもしろいですね!
神話は今も、生きている、です!
次回は、開化天皇の三番目の妃、意邪都比賣命(おけつひめのみこと)との間に誕生した日子坐王(ひこいますのみこと)です。
この(みこと)、十一王の父と成られます。
こちらの家系の系譜が、また長いです(苦笑)。
今夜も、お月さま、見えるかな?
かぐや姫を思いだしてみたいです。
―次回へ
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