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小説 桜ノ宮

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大人の「探偵」物語。 時々マガジンに入れ忘れていたため、順番がおかしくなっています。
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#連載小説

小説 桜ノ宮 ⑥

小説 桜ノ宮 ⑥

広季はいつものように施設のロビーでコーヒーを飲みながら母春子が来るのを待っていた。

コロナ騒ぎの影響か、いつも家族との面会でにぎわっているロビーは閑散としていた。流れているクラシック音楽も心なしかもの悲しい。椅子に深く座り直し、庭に目をやるが人っ子一人いなかった。

コロナのせいで世の中はどんどん変わっていっている。今までズルズルと後回しにしていたことが一気に取り入れられるようになっていた。在宅

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小説 桜ノ宮⑤

小説 桜ノ宮⑤

紗雪のスマホにピュアフルスタッフの初芝から連絡があったのは、初出勤の前日、花冷えのする夕方だった。
「市川さん、今いいですか」
母親が入居している施設への支払いの件で、今夜、紗雪は久しぶりに父親と会う約束をしていた。梅田で夕食をともにするため、何を着ていくかクローゼットの中からワンピースを選んでいる最中に電話がかかってきた。
「はい、大丈夫ですけど」
黒いスリップにストッキング姿で、鏡台の前にある

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小説 桜ノ宮 ①

小説 桜ノ宮 ①

ありふれた春の午後だった。少し冷たい風に桜の枝が揺れていた。芦田広季は、定食屋から出てくるなり花びら交じりの風を浴びた。

大阪・桜ノ宮。

川沿いの桜並木へと吸い込まれるように歩いていく。

川から立ちのぼる生臭い匂いを阻止するために息を止めた。腐った青汁のような色をしたこの川を可憐な桜が包み込むように咲いている。
広季は人目も気にせずジャンプして桜の枝に触れてみた。着地するなりベルトの上の贅肉

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小説 桜ノ宮④

施設を出て歩き出した時だった。紗雪の背後から足音が迫ってきた。
「市川さん」
事務担当の岸という若い女だった。つけまつげを瞬かせながら紗雪のもとにやってくる。
「あの、すみません」
「はい」
息を上げている岸に対し、紗雪は表情一つ変えずに答えた。
「今月からお支払いの方が滞っているんですが」
「え」
施設のローンは父親の通帳から引き落とされていた。
「そうなんですか」
「はい。できるだけ早めにお振

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小説 桜ノ宮③

天満の施設を出て、マンションのある福島へ着いた時には18時を回っていた。スーパーで簡単なつまみをいくつかと発泡酒を買って自宅へ戻ると、通路側の部屋に灯りがついているのが広季の目に入った。
恐る恐るドアを開けると、玄関には妻美里が愛用している白いフラットシューズがあった。
「来とったんか」
美里はリビングでソファに座りテレビを見ていた。
「うん。話があって」
広季はテーブルにスーパーの袋を無造作に置

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小説 桜ノ宮②

小説 桜ノ宮②

「広季さん、私、今日はあまり時間がないのよ」
紅茶を一口飲むと不機嫌そうに老婦人は唇を結んだ。クラシック音楽の流れる広いロビーで二人は向かい合っていた。
仕事中に呼び出したくせに。
老婦人のいらだつ姿を見て、広季は内心あきれ返っていた。
「春子さん、まあ、そう言わずに」
広季は母春子の節くれだった手を握って微笑んだ。春子は急いで手を引っ込めた。
「やめてください。誰が見てるかわからんのやから」

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