小説 桜ノ宮③

天満の施設を出て、マンションのある福島へ着いた時には18時を回っていた。スーパーで簡単なつまみをいくつかと発泡酒を買って自宅へ戻ると、通路側の部屋に灯りがついているのが広季の目に入った。
恐る恐るドアを開けると、玄関には妻美里が愛用している白いフラットシューズがあった。
「来とったんか」
美里はリビングでソファに座りテレビを見ていた。
「うん。話があって」
広季はテーブルにスーパーの袋を無造作に置くと、その前の椅子に美里が移動してきた。
「可南のこと」
一人娘の可南は今年で6歳になる。
「なんかあったん?」
広季も椅子に座った。久しぶりに見る美里は少しやせていたが、健康そうに見えた。
「来年、小学校受験させようと思って」
「ふうん。いいんちゃうん。学費、高いん?」
「そんなに高くない。私が行っていたところやからだいたいわかる」
美里は帝塚山のお嬢さんで今は高級住宅地にある実家で両親と可奈の4人で暮らしていた。家を出た後はどのように生計をたてているのかは広季の耳には入ってきていなかったが、困っているような雰囲気はまるでなかった。
「ただな。受験の時には両親がきちんとそろってないとあかんのよ」
「ふーん」
広季は書斎の引き出しにしまったままの離婚届を思い出していた。
「いつ出してくれてもいいから」と言い放って美里は可南を連れて出ていったのだが、踏ん切りがつかなくてそのままにしていた。
「離婚届、まだ出してないよね」
少しおどけて美里が伺う。リップグロスが塗られた唇が光っている。
出ていく前の冷たい素振りを思い出し、広季は白々しい気持ちになった。
「出してないけど」
「よかったー」
両手をぶらんと下げて美里は笑った。
「来年の受験が終わるまで出さんとって。あー、あと、面接の練習も間近になったら頼むわ。あと、学費はもちろん出してくれるよね」
「まあ、自分の子やからな」
返事はしたものの、怒涛のように喋りまくる美里の姿を見ているうちに、広季はだんだん腹が立ってきた。
人生のいいとこどりをして生きてきた美里らしいなと思いつつも、現金な姿にはあきれるばかりだった。
美里のどこを好きになったのか。
記憶を辿ったが何も出てこなかった。
「ほな、私、帰るわ。また、連絡するし」
美里は席を離れると、床においてあったバッグを持ち玄関へと向かった。
薄桃色のニットワンピース姿からは体のラインが如実にわかりすぎた。
誰かが言った。
中年太りした妻のウエストがくびれたら、それは不倫をしている証拠だと。
皆が皆ではないだろうが、ふと、美里の後ろ姿を見てそんな言葉が広季の頭をよぎった。
「ちょっと、何すんの」
広季は美里を背後から抱きしめた。肘でわき腹を攻撃してきたが、ほとんどが空振りした。右手は美里の胸をわしづかみにし、左手はワンピースの裾をまくっていた。
「やめて」
全身を使って暴れながら美里は叫んだ。
「あと、1年は夫婦なんやからええやろ」
両手でワンピースをまくり、肩まで上げると赤いブラジャーとTバックが目に入った。
俺と暮らしていた頃は、地味なユニクロのブラトップとパンツだったのに。
これから男と会うに決まっている。
激しい怒りは広季を怒髪天へと導いた。
「これ以上やったら、警察に連絡せなあかん。そうしたら、可南がどういうことになるかわかってんの。犯罪者の娘になるんやで」
美里は威嚇した。
「お前が我慢したらいいだけの話やないか」
広季はストッキングをずりおろし、Tバックのなかに指を差し入れた。
乾いた皮膚と粘膜がそこにあるだけだった。
「私は我慢やせえへん」
振り向きざまに美里は広季の股間を蹴り上げた。
うずくまる広季に目もくれず、美里は手早く身だしなみを整えた。
「次、こんなことやったら、ほんまに警察呼ぶからな。あと、受験のことはまたメールする。ほなな」
落としたバッグを掴みフラットシューズを引っかけ、美里は急いで出ていった。
暫くの間、広季は冷えた部屋で一人、痛みと戦った。
自分でも最低だとわかっていた。
今のは性欲でもなく愛情でもなく、ただの復讐だった。
美里だけではない。
母親に対してもだった。
女の知りたくない事ばかりが目について、苛立っていたのだ。
痛みが治まると、つけっぱなしにしていたテレビから芸人の笑い声が聞こえてきた。
自分を笑われている気がした。広季は廊下に横たわり、目を閉じた。
「アホなことして」
スリムの声だった。しゃがみこんで、広季を見下げている。
「見てたんか」
スリムは苦笑いを浮かべた。
広季は眉間にシワを寄せ、苦悶した。スリムは広季の肩を叩いた。
「あんなことしたら、嫌われるに決まってるやろ。お前はそんな奴やなかったはずやぞ。誇りを持て」
「もうせえへん。死ぬほど後悔しとる。てゆうか、もう死にたい」
「泣くな、泣くな」
「泣いてないわ」
「起き上がってメシ食べて風呂入れ」
スリムは広季の背中を抱き起こした。
「俺がおるから」
「お前結局俺やんか。2人で1人やから結局1人やんか」
「そう言うなや」
2人はリビングへと戻っていった。





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