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小説 桜ノ宮

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大人の「探偵」物語。 時々マガジンに入れ忘れていたため、順番がおかしくなっています。
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#中年

小説 桜ノ宮 ㉛ 終

小説 桜ノ宮 ㉛ 終

夕方が近づいて風が強くなってきた。
横なぐりの桜吹雪を春子は空虚な気持ちで眺めていた。
ふいに、肩回りが温かく感じられた。
背後に誰かがいる。
そう思った途端に後ろから抱きしめられた。
「春子さん。何考えてるの」
「“願わくは 花の下にて 春死なん”」
「西行だね」
腕の中にいながら、春子は振り返った。
スリムは春子の前髪を整えた。
「春子さん、僕と行こうか。おなかの赤ちゃんと幸せに暮らせるところ

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小説 桜ノ宮 ⑰

小説 桜ノ宮 ⑰

可南からの電話を切った後、広季は唸った。
「ああ。腹立つわー」
タンクトップとトランクス姿で地団駄を踏むごとに腹と胸が揺れている。
「どないしたんや」
ソファ越しにスリムが訊いた。
「あのなあ、あ、せや、あの人に連絡しよう」

広季は紗雪に電話した。

「あ、市川さん。芦田ですー。どうもお世話になります」
「ああ、お世話になりますー」

「市川さん、早速探偵の仕事やってほしいんですわ」
さっきまで

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小説 桜ノ宮 ⑪

小説 桜ノ宮 ⑪

「でも、俺、市川さんの連絡先知らんねん。秘書の福井さんやったら知ってるかもしれんけど、それだけで連絡しづらいしなあ」
「もしかして、市川さん、まだホテルのあたりにおるかもしれへんで。とりあえず、ホテルまで戻ってみよう」
再び背中を叩くと、スリムはそのまま広季の体に入り込んだ。
「走るで」
広季は胸のなかがじんわりと温められる想いがした。
それをかみしめる間もなく、自分の足は走り始めていた。
「うわ

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小説 桜ノ宮 ⑦

小説 桜ノ宮 ⑦

「緊急事態宣言って出るんですかね」
紗雪はビアホールのバルコニー席でスマホに目を落としたまま、広季に訊いた。
「さあ、出るんじゃないですかね」
周りを見渡しつつ広季は答えた。19時。桜が舞い散るバルコニーに、客は二組しかいなかった。店内の客は隅の席に男女が二人だけだった。
「お母さん、お元気でしたか」
広季が訊くと、紗雪は首を傾げて不機嫌そうに眉をひそめた。
「ばい菌扱いして会ってくれませんでした

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小説 桜ノ宮 ⑥

小説 桜ノ宮 ⑥

広季はいつものように施設のロビーでコーヒーを飲みながら母春子が来るのを待っていた。

コロナ騒ぎの影響か、いつも家族との面会でにぎわっているロビーは閑散としていた。流れているクラシック音楽も心なしかもの悲しい。椅子に深く座り直し、庭に目をやるが人っ子一人いなかった。

コロナのせいで世の中はどんどん変わっていっている。今までズルズルと後回しにしていたことが一気に取り入れられるようになっていた。在宅

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小説 桜ノ宮⑤

小説 桜ノ宮⑤

紗雪のスマホにピュアフルスタッフの初芝から連絡があったのは、初出勤の前日、花冷えのする夕方だった。
「市川さん、今いいですか」
母親が入居している施設への支払いの件で、今夜、紗雪は久しぶりに父親と会う約束をしていた。梅田で夕食をともにするため、何を着ていくかクローゼットの中からワンピースを選んでいる最中に電話がかかってきた。
「はい、大丈夫ですけど」
黒いスリップにストッキング姿で、鏡台の前にある

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小説 桜ノ宮 ①

小説 桜ノ宮 ①

ありふれた春の午後だった。少し冷たい風に桜の枝が揺れていた。芦田広季は、定食屋から出てくるなり花びら交じりの風を浴びた。

大阪・桜ノ宮。

川沿いの桜並木へと吸い込まれるように歩いていく。

川から立ちのぼる生臭い匂いを阻止するために息を止めた。腐った青汁のような色をしたこの川を可憐な桜が包み込むように咲いている。
広季は人目も気にせずジャンプして桜の枝に触れてみた。着地するなりベルトの上の贅肉

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