世界は言語で出来ている
僕たちの世界は言語で出来ています。なんのこっちゃ?と思う方が多いかもしれないですね。正確に言うと、僕たちの世界は僕たちが使っている言語で構成されている、と言うべきかもしれません。言葉を覚え始めた幼児を思い浮かべて頂くと分かりやすいと思います。親がリンゴという物体を指さしながら「リンゴ」と話しかけることにより、幼児は物体と言葉(言語)を紐づけます。少しずつ語彙が増えると共にその子の世界が「言語によって」構成されていくわけです。小学校高学年くらいになると次第に抽象的な思考が出来るようになり、実体のない無形物や抽象的な概念を言葉と紐づけて理解出来るようになっていきます。
つまり僕たちの世界は、日本語で構成されています。同様に、英語国民の世界は英語で構成されています。この時ややこしいのは、日本語と英語とでは(あるいは他の言語とでは)、僕なりの言い方をすると「世界の切り取り方」が違うのです。リンゴや本といったような固形物・実体のある物の場合はさほどズレはありませんが、抽象的な概念を差す言葉ではその言葉が指している内容が日本語と英語など他の言語とで微妙に異なることが多いため、正確な翻訳が出来ないのです。
さらに言うと、言語の豊富さ・多様性は、概念や思考の豊富さ・多様性を意味します。ボキャブラリーが多い人の方が深く抽象的な思考が出来ることは言うまでもないでしょう。その意味において、いわゆる言語統制というのは非常に怖い考え方です。使う言語を統制することは、実は思考を統制していることに他ならないのです。
ジョージ・オーウェルの「1984」という小説をご存じでしょうか。ビッグ・ブラザーという支配者が絶対権力を握っており国民生活のすべての面をコントロールするという設定の逆ユートピア小説なのですが、この中にどんどん言語が規制され消え去っていくという下りがあります。例えば「bad(悪い)」という言葉は「ungood(良くない)」という言葉に置き換えられ消し去られていきます。言葉が無くなると概念も消え去ります。国家にとって都合の悪い言葉は消去され、次第に国民は思考能力を失くし唯々諾々と支配者の言いなりになる存在に変わっていくわけです。恐ろしいことですが、それに近いことが今の世界でも行われています。
諸説ありますが、カナダを代表する女流作家マーガレット・アトウッドによるとカナダのイヌイット(以前エスキモーと言われていた人達)は雪を表す言葉を52種類持っていたそうです。それだけ雪の性質の違いを見分け、言葉を使い分けていたということです。このことは、それだけ雪が身近な存在であり、また生活していく上で性質の違いを理解することが不可欠だったことを意味しているのだと思います。言葉の豊富さは概念の豊富さ、思考の広がりを表すバロメーターなのです。
その意味で、僕は世の中の複雑さを捨象して物事を単純化し、二項対立的な思考に駆り立てる政治家は信用出来ません。
「賛成か、さもなくば抵抗勢力とみなす」「原子力発電を推進するやつらは国賊」「アメリカ第一かそうでないか」などなど、気が付くと二項対立を煽る言葉が世の中に溢れています。しかし僕に言わせれば、こういった発言は思考停止を呼びかけていることに他ならず、国民の思想を単純化して統制しようとする試みとしか思えないのです。
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