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当たり前だと思っていた道

連日投稿しております。knot.です。最近、もしあのときああしていたら、というタラレバを考えてしまうのですが、考えれば考えるほど、子どもは可能性の塊だなと思ったり、堅く考えていたなと思ったり。堅いこと、悪いことじゃないけれど、もう少し柔軟に人生を捉えることができていたら、少し違う道も拓けていたのかもしれないと思ったりするのです。きっと誰もが考えることなのでしょうけど・・・。というわけで、本題に入ります。


社会福祉士の資格を取得するという目標

記事でたびたび触れていますが、私は社会福祉士の資格取得を目指し、大学進学を決断しました。そして、社会福祉士の資格を取る、という目標は中学生のころからありました。見方によっては、ブレずにここまで来た、志が高い、と思われるかもしれませんが、今ブレています。というのも、私は逆に、それ以外を考えていなかった。今となっては、他の可能性をつぶしていたような気がします。勉強だけがすべてじゃない、学歴だけがすべてじゃない、という人生の枠の捉え方ができなかった。だから、人を支える仕事がしたいと思っていたこと、高校に行き、大学に行き、就職するという流れが当たり前だと思っていたこと、資格を取れば何かしら困らないだろうというさまざまな考えが合わさり、今に至っているわけです。社会福祉士という目標が私のこれまでの支えになっていたことは確かですが、中学時代の同級生の現在を知った今、私は考え方が変わり始め、自分の目標がブレ始めています

大学に進学しないという道

私は、高校を卒業したら大学に行くことだけが道だと思っていました。高校時代の進路指導は、大学進学しか話題に上がらず、就職を選ぶ子は家庭の事情か学力不足でそれしか選べないのだと思っていました。つまり、大学に進学することが当たり前だと思っていたのです。まあ、そう思わせたほうが、学校としては進学率も上がるし、大学に行くことで将来の選択肢が広がることは確かです。今の私が高校生になったとしても、あの環境に居れば大学進学を選ぶような気がします。でも、中学時代の同級生を見ると、専門学校に行く、就職するという人も少なくなかった。中学校こそ、社会の縮図だと思ったわけです。高校は、ある程度学力が振り分けられ、似たような人たちが集まる。だからみんなが大学進学を考えるなら、大学進学を考えるようになるのも、進路指導が進学になるのも当たり前なわけで・・・。でも、狭き門かもしれませんが、職人を目指し修行をする道や、高卒でやりたい仕事をする、芸能界を目指す、YouTubeを始めるという選択も、なしじゃない。と思うのです。そういう進路もありなはず。そういった道を考えることが当時の私にはなかったので、結局その道を進むことはなかったのですが、今となっては、そういった道に進んでいたらどうなっていたのかなと考えることがあります。きっと、それはそれでわくわくしたり、社会の厳しさに早くから気づき、ショックを受けたりといろいろだっただろうけど、楽しいだけの人生じゃないのだから、そういう経験も面白かったのかもしれない。(すごく夢見がちなことを言っていますね)

謎の焦り

大学3年生の頃です。中学の同級生たちの中で就職した子が増えました。専門学校や短大を卒業した子が結構いたんです。そういう子たちはすでに働いていて、自分の力で生活をしているんですね。その姿をうらやましく思ってしまった。大学生は人生の夏休みと言われ、有効に時間を活用すればいろいろな経験ができます。私自身、コロナで潰れた年間をのぞけば、ボランティアやアルバイト、旅行といった、大学生にしかできない経験をしてきたわけですが、すでに働く同級生の姿がキラキラして見えたんです。気づけば、単位を落とさなきゃいいと少し休みがちになった講義があったり、テスト期間以外はだらだらと過ごし、授業がない日に生産性のある一日を過ごすわけでもなく、バイトのシフトが入っていればバイトに行く。大学生とは何なんだ?と思ってしまいました。大学生は、学校によりますが、4か月頑張って2か月休むというサイクルを繰り返しています。長期休みになると、バイト以外ほとんどやることが無くなります。学校がある日だって、授業が一日中入っているわけではありません。私は、塾講師と飲食店のアルバイトを掛け持ちしていたことがあるのですが、学校に居れば学生、塾に行けば先生と呼ばれ、飲食店ではスタッフと、自分が何者なのかまったく分からないふわふわとした感覚が気持ち悪くなってしまったんです。大学生とは、非常にふわふわとした存在だと身をもって感じたと同時に、このふわふわが4年間あるのかと思うと、すでに働いている同級生たちは地に足付けて頑張っているのに、私はいったい何をやっているんだ、と比べては落ち込んでおりました。まあ、焦っていましたね。早く働きたい、という気持ちが強くあったのだと思います。でも、私は4年制の大学に進学していて、社会福祉士の国家試験受験資格を手に入れるためには、その4年間のカリキュラムを受けなければならないのだから、焦る必要は全くないはず。これを書いている今の方が、迫る進路選択に焦った方がいいのに。

目標のブレ

はい、時間がある大学生はいろいろ考えてしまいます。この、働くことへの憧れや焦りから、自分の人生や他者の人生を考え、こんなことを思うようになります。
「社会福祉士の資格取得以外にも、道を考えることはできたのではないだろうか。」
これを考えるようになったのはつい最近です。ほかの選択肢を考える段階ではない今、考えるようになりました。周囲にフリーターの方が増えたり、転職を考える人を見て、就職だけが人生というわけでもないのか、という、これまでの自分の考え方からは想像できないような、すごい飛躍した考えが生まれたわけです。そして、社会福祉士以外の道も選べる、という可能性を考えてしまったんです。人生は一度きり、やりたいことをやったほうがいい。そう思うようになってしまったし、母からも言われ続けた言葉でした。その言葉の意味を理解したのが最近だったわけです。中学から目指してきた目標が達成される寸前でこんなことを思うようになってしまうわけですから、違う意味で焦っております。

次なる目標

とはいえ、目標が全く変わったわけでもなければ、福祉がやりたいことではない、というわけでもない。つまるところ、社会福祉士の国家試験受験はするつもりですし、福祉のお仕事をしてみたいという気持ちもあるわけです。ただ、そのタイミングが今なのか、というところでブレているんですね。ほかに明確にやりたいことがあるかと問われるとそういうわけでもないのですが、これまで福祉一本で考えてきた私、今視野が広がってしまい、これまでのまじめな自分に飽きていることからも、もう少しほかの道について見てみようと思うわけですね。
次なる目標は、残りの大学生活の時間、大学生らしく有効に使おう!というものです。コロナを言い訳にしますが、それだけでなく、私は人見知りなところがあったり、引きこもりたい気持ちが長くあったりしたことから、大学生活をアクティブに楽しめていませんでした。バイト代も、何に使ってきたんだか、というくらい溜まっているんです。せっかくなのでお金を経験に変え、少しでも興味のあることに飛び込み、大学生活がふわふわで気持ち悪いもの、ではなく、純粋に楽しかったと思えるように頑張ろうと思います。

いろいろな人がいていいよね。

結論です。「いろいろな人がいていいよね。」
何の結論なんだか、って感じですけど、この言葉につきます。生い立ちや感性も人それぞれで、比べるようなことではない。なんだか今の日本は、大学を卒業しなければ就職できないとか、いい大学を卒業することに価値があるかのような流れができてしまっているし、大半の人の人生は主流がそれになっている気がします。そして、多くの人の目標もそう定まっているような気がするのです。でも、それだけじゃないよねって思うんです。それじゃない人生を歩む人が身近にいるから。そして、その人たちもそれぞれ魅力があって素敵で、尊敬できる人たちだから。大学進学しか目標の参考にさせてくれないような社会より、もっといろいろな可能性を見せてくれる社会であってほしい。起業だって、フリーランスだってある。工業高校や商業高校、ぶっちゃけ地元ではバカにされていました。進学した子の中にも、「普通高校に行ける学力がなかったから」と言っていた子がいました。でも、そこに進学した同級生は今、しっかり働いています。高校でこういう技術を付けると、こういう道が開けると中学生に訴えていくべきだし、大学進学以外の魅力を高校生には提示するべきだと思います。いろいろな情報を取捨選択する力を学生時代は付けるという意味でも、いろいろな可能性を示す機会を与えてあげてほしい。だって、子どもは可能性の塊なんだから。だからこそ、勉強の大切さを教えるのかもしれないけど、勉強ができることばかりが人生ではないと、勉強第一になっている学生たちに知ってほしい。ただ、この考えが持てたのは、大学に進学したからなのかもしれない、ということを忘れてはいけないですよね。そして、大学進学を応援してくれた家族にも感謝しなければならない。みんな思い思いに生きているわけじゃない。なりたいものがあってもなれなかった人生、思いがけない事態に翻弄される人生、いろいろですよね。

番外編~あのときあれをしていれば~

私、ダンスや演劇といったちょっと芸能系のことで褒められることが小学校時代や中学時代に多かったんですね。高校時代もあったかな。(大学ではダンス部所属)でも、やってきた習い事は、書道、バレーボール、水泳。自分が好きなことというより、兄弟がやっていたことを追いかけたり、友達がやっていることに飛び込んだりと、自分の得意や意思があまりなかった。だからか、どれも好きだけど、才能を開花させるほど得意にはならなかったんです。でも、自宅では暇なときはドラマのセリフをぶつぶつ言ってみたり、一人で演技してみたり。中学の演劇では結構セリフのある役をもらえて褒められたり。ダンスも家では見よう見まねで好きなアイドルの振り付けを覚えたり。学校のダンスの授業や発表でも経験者と思われるように褒められたり。今思うと、もしかしたらそういう才能はあったのかもしれない、と思ったりするんですね。でも、そういうのって大抵勘違いで、その勘違いをする人は結構いるとも思うんです。しかし、そういう勘違いをしないと飛び込めない世界や見れないものもあるわけで。何が言いたいかと言うと、自分の興味があったことは、ダンスや演劇と言った表現で、そういう習い事を選んでいたら、何か違う目標や価値観も持てていたのかもしれない、というお話。結果、その時それらを習っていても、今の目標にたどり着いていたかもしれないし。人生何がどうなるかなんてわからない。ので、とりあえず今やりたいことをやる、今を楽しむ、そういう気持ちを持つことが大事なのかなと思うのです。


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