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静 霧一/小説
2020年9月24日 20:09
今日も私のデスクにはカフェオレが置いてあった。 緑色のボトルには、金色の文字で"エスプレッソ"と書かれている。 私はそれを手に取ると、申し訳なさでいっぱいになった。 だけど、そんなことでいちいち謝っていたら私の身が持たないし、何より彼の気持ちを踏みにじることになる。 私はデスクのパソコンを開く前に、自身のスマホを開き、『カフェオレありがとう!』と塩浦くんにメッセージを送った。 気
2020年9月25日 19:07
それはもう、10カ月も前の出来事であった。「それじゃ、新入社員の親睦会を始めます!乾杯!」 若手社員の各々がグラスを持ち、それをカチンと合わせていく。 私もそれに合わせて、隣通しの社員とグラスを合わせた。 新入社員の研修が終わった、ちょうど5月の連休明けの金曜日のことである。 若手社員だけの親睦会は、約20人ほどが参加し、みんなわいわいと話を始めた。「上井さんってすごく大人びて
2020年9月26日 18:28
気づけば親睦会は2時間経ち、雰囲気を残しつつお開きとなった。 皆が居酒屋の席を後にし、各々2次会へ行く者と帰るもので別れ、私はその場でお暇をした。 ほとんどの人が2次会へ行ってしまっている。塩浦くんも例外ではない。 気分的にふと、私は自分の居場所が恋しくなってしまった。 明日の予定なんて何もないくせに、私は飲んだくれた加藤さんの誘いを嘘をついて断り、そそくさと駅のホームへと逃げ込んだ。
2020年9月27日 18:31
『昨日はお疲れさまでした。無事帰れましたか?』 土曜日の早朝、私は1件の通知に目を通した。 塩浦くんからであった。 初めてのメッセージのやりとりが、まさかこんな形で始まるとは私は思ってもみなかった。『ありがとうございます。無事帰れました』 私はポンとメッセージを投げる。 塩浦くんのアイコンには一匹の猫が寝ている写真が設定されていて、とても外見に似つかないほど、かわいらしく見えた
2020年9月28日 18:06
『あと5分で着くから待ってて!』 私は新宿駅の南口で、そわそわとしながら朋美を待っていた。 土曜日の17時となると、改札口を行き交う人が増えはじめ、だんだんと居心地が悪くなってくる。 人ごみはそんなに得意ではない私は、まだかなまだかなとスマホをぎゅっと握りしめていた。「ごめん!待った?」朋美が朗らかな表情で私に謝った。「そんなことないよ。今日はどこ行くの?」「ふふーん。よくぞ聞
2020年9月29日 18:40
ごくりと呑んだその一口は、とても芳醇なホップの香りと独特な苦みが口の中で混じり合い、スッと体の中へと馴染んでいく。「突然呼び出してごめんね」朋美はグラスをテーブルの上に置いた。「どうしたの?そんな神妙な顔して」 私は頭を傾げた。「空季(たかき)には先に伝えなきゃなって思っててさ」 そして、数秒の沈黙が続いた。「私、結婚することになったの」「……え?」 私はあまりにも驚
2020年9月30日 18:32
雨の日の月曜日。 私はそれはもう最悪な気分で出勤をした。 朋美との土曜日の記憶は途中までしか残っておらず、気づけば自宅のベッドで着替えもおろそかにぐーたらと昼間で寝ていたものだから、当然その日だけでは体調は治らず、その気持ち悪さを月曜日にまで持ち越してしまった。 じめじめとした湿気と蒸し暑さが満員電車の中で混ざり合い、私は思わず吐き気さえ覚えた。 地獄ともいえる1時間に耐え、私は息も
2020年10月1日 18:26
「やっほー。待った?」「待ってないよ。さっき着いたところ」 私たちの挨拶の始まりはいつもこうだ。 朋美は意気揚々に目白駅に到着すると、そのまま私の手を引いて護国寺方面へと歩き出した。 目白通りの町並みは、どこか新しいものと古いものが混在するとても不可思議さがあった。 途中不忍通りとの分岐点があり、そこを過ぎると建物はより古いものが現れる。 並木道から見え隠れする少し寂れた建物たち
2020年10月2日 18:24
「待たせちゃいましたか?」「待ってないですよ、さっき来たところです」 一週間後の土曜日。 私は塩浦くんとの食事のため、池袋駅の中央改札口で待ち合わせをしていた。 午後7時の池袋はすでに夜の喧騒がごった返し、どこか怪しげでありながら未知の路地裏へと誘い出されそうな、そんな都会の裏側のような香りが漂っていた。 私たちは歩幅を合わせ、その夜の街へと吸い込まれるように消えていく。 2人
2020年10月3日 19:21
鮮やかで美味しそうな食事の香りが、テーブルに広がる。 食べましょうかと、料理を小さく取り皿に取り分け、フォークでそれらを口に運んだ。 その美味しさに、私たちの顔が思わず解れる。 緊張が解けると、人の体というのは急に食欲が湧きたつようで、私は求めるようにテーブルの食事を頬張った。 ひとしきりの食事を終えると、お酒のメニュー表を見て私たちはミディアムボディの赤ワインを頼んだ。「そうい
2020年10月4日 19:30
「申し訳ないです。繁忙期で仕事が抜けられそうにありません。もう少しだけ待っててください」 その一通の連絡に私は落胆した。 あれから1か月後の12月23日のことであった。 お互いは日々の多忙に追われながら、なかなか時間を作れずに過ごし、気づけばクリスマス間近になってしまった。 私は小さな茶色い紙袋を持ちながら、一人でカフェの窓際のテーブル席に座っている。 食事を取る時間を作れればよか
2020年10月5日 18:26
彼は優しく私の手から紙袋を受け取った。 その紙袋から小さな包み紙を取り出し、ゆっくりと開封する。「すごく触り心地いいね。こんなにいいものありがとう」 彼は思った以上に喜んでくれた。 その様子に私はホッと胸をなでおろす。 私が彼にプレゼントしたものは、水玉の細かなストライプが入った一枚のハンカチであった。 右端には小さく「Paul Smith」と白く印字されている。「買いにく
2020年10月6日 18:38
「あけましておめでとうございます」 早いもので1年という暦はあっという間に通り過ぎ、新たな年になった。 長期の正月休みが終わってしまい、動かしていなかった体はどうも凝り固まっていて、年初めの初出社はとても億劫であった。 年始の会社の朝礼では、全社員が会議室に集められた。 私たちの顔など覚えてもいないであろう上層部の役員が長い演説に飽き飽きし、その向かない気分の先を塩浦くんへと変えた。
2020年10月7日 18:30
私は人だかりというものが苦手だ。 それは行列やテーマパークだけに限ったことではない。「それでは我が社の前進を祝して、乾杯!」 専務が新年会の嚆矢となる挨拶の声を上げた。 社員たちはそれに倣い、シャンパングラスを掲げると、「乾杯」と合唱した。 私は近くにいた加藤さんとカチンとグラスを合わせ、小さく乾杯と呟いた。 年の初めから早いもので1ヶ月が経ち、あれだけ盛大であった新年の祝杯は