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カフェオレと塩浦くん #1


 今日も私のデスクにはカフェオレが置いてあった。

 緑色のボトルには、金色の文字で"エスプレッソ"と書かれている。
 私はそれを手に取ると、申し訳なさでいっぱいになった。

 だけど、そんなことでいちいち謝っていたら私の身が持たないし、何より彼の気持ちを踏みにじることになる。
 私はデスクのパソコンを開く前に、自身のスマホを開き、『カフェオレありがとう!』と塩浦くんにメッセージを送った。

 気合を入れるように、私は「ふぅ」と一息つく。
 朝早くのオフィスは、いつもの電話の喧騒がまるでなく、静寂の一言に尽きる。
 仕事への集中が切れず、私にとってはゴールデンタイムと言える時間であった。

 私が出勤をしているのは定時の一時間前、ちょうど朝8時になる。
 会社の開錠を行う総務課の人を除いては、ほとんど誰もいないというのに、なぜこの汗をかいたカフェオレを置くことが出来るのだろうか。

 私は行動予定表をすぐさま開いた。
「塩浦 雅也 直帰」

 すでに彼の営業の予定表は書き換えられていた。
 始業は9時だというのに、いったい何時に出社しているのだろうか。

 私にはそれが疑問でたまらないし、そんな朝早いにも関わらず、姿を見せないままカフェオレだけがいつもポツリと机に置かれている状況を、彼はどう思っているのだろうか。

 そんなことばかり考えていると、頭に靄が差し掛かった。
 仕事に集中しなきゃと、私はそのカフェオレのストローを取り、飲み口に差し込む。

 少し苦めのコーヒーが、切り替わらない集中力に活力を与えていく。
 私は今日も、書き留められたやることリストを淡々を消化していく朝を過ごした。

「ただいま戻りました」

 私が12時の休憩に入ろうと、腰を持ち上げたその時にその声は聞こえた。
その声の出所はちょうど一つ席を挟んだデスク。
 塩浦くんだ。

「おつかれさまです」
 私はぼそりと呟いた。

 直帰と記載されていたが、彼は時たま会社に戻ってくることがある。
 彼は、特に私の方を振り返るわけでもなく、デスクに向かい合い、淡々とパソコンを打ち始める。

 途中、彼の携帯に着信が鳴り、お客様対応をしている姿を見るが、その声はとても溌剌で、さきほどまで静かにキーボードを打っていた人物とはまるで違った。

 私の声は届いていたのだろうか。
 本当は、きちんと挨拶もしたいし、ちゃんといつもありがとうってお礼も言いたい。

 だけど変な大人のプライドだとか、身体に染みついた極度の人見知りだとかが邪魔をして、結局のところ、片手で数えるほどしか彼に面と向かってお礼が出来ていないと、少しだけ凹んだ。

 一体どうすればいいんだと、悩んだ挙句に、いつもフランクにやり取りの出来るスマホのコミュニケーションアプリに頼ってしまう。
 もし、この時代にソーシャルメディアがなかったら、私は彼にどうお礼を伝えていただろうか。

 私は彼とのこの微妙な距離感にドギマギしていた。
 結局、私は彼に話しかけることが出来なかった。

 お礼さえ言えていない。
 私はなぜ彼を目の前にすると、こんなにも臆病になってしまうのだろうか。
 自分への情けなさからくる緊張なのかもしれない。

 私は食堂で昼食を食べながら、溜息をついた。
 溜息をついたところで、物事が急転するわけでもないし、前進するわけでもない。

 私はいつものように、読みかけの文庫本を取り出し読み進める。
 私にとって何事も忘れられる世界というのは、この活字の印刷された薄い紙の中にあって、この没入感だけが私の溜息を汲み取ってくれた。

 ふと、スマホの画面を見ると12時40分を指し、気づけばお昼休みも残りわずかとなっていた。

 私は更衣室へ戻ると、洗面台の前で歯磨きをした。
 鏡を見ながら、あぁ、私って元気ないなと心の中で呟く。

 そういえば、塩浦くんのこといつから意識し始めたんだろう。
 私は鏡を見ながら、その過去を辿り始めた。

 (つづく)

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