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嘘の素肌

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「何者でもない僕に付加価値を与えてくれるのは、いつだって好奇心旺盛な女性達でした。」 桧山茉莉、二十七歳。仕事や人間関係に不自由なく生きてきた"何者でもない男"を取り囲むのは、…
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嘘の素肌「第1話」

嘘の素肌「第1話」

 辺り一面に溌剌とした芝が生い茂り、盛り上がりの中央には僕の背丈の十倍以上もある楠が昂然たる情で聳え立っている。紫外線と直射日光という天敵に対し、密集した葉によって生じる木陰に守られながら、瑠菜は白のワンピースが汚れてしまうことを厭わず芝生に尻をつけて座っている。膝を三角に折りながら、樹木の生え際から少し離れた地面の雑草を懸命に毟っている。何かに苛立つようなその仕草は僕を煽っているように見えた。瑠

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嘘の素肌「第2話」

嘘の素肌「第2話」

 立川駅構内にあるグランデュオ前で和弥と落ち合い、挨拶も程々に常連の安居酒屋へと向かった。三千円で二時間食べ呑み放題ができる破格さの理由に納得のいく、薄くて不味い酒。それを量でなんとかこなすように呑み進めるのがこの店に用いる僕らの流儀だった。酔って気を大きくし、一般に対し呪詛を吐き合うだけの自慰的宴を今夜も興じる。

 ゆくゆくヒートアップするこの会は、和弥が隣の席で呑んでいたサラリーマンと揉めた

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嘘の素肌「第3話」

嘘の素肌「第3話」

 二軒目の大衆酒場で僕は麦の水割りを、和弥は引き続き日本酒を飲んでいる。腹は満たされているので、肴には枝豆とえいひれ炙りを注文した。

「なあ、瑠菜は元気か」

 和弥に訊ねられ、僕は頷く。

「そうかぁ。元気ならよかった」

「珍しいね、瑠菜の話なんて」

「まあ一応、兄貴だしな、俺」

 和弥が大学を卒業してから、彼の妹である瑠菜と僕の関係は以前よりも良好なものになった。僕らより四歳下の瑠菜が

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嘘の素肌「第4話」

嘘の素肌「第4話」

 約束の正午二時過ぎ、橋本駅の映画館前で瑠菜と合流した。黒を基調に猫の模様が描かれた杖でアスファルトを叩きながら、杖を握らない方の手を軽快に振り上げ瑠菜がこちらへ歩いてくる。「茉莉くんお待たせっ」今は生活に支障をきたすような関節への問題がないので、瑠菜も普段は車椅子ではなく杖一本で生活することができている。僕と落ち合ってからは杖をコンパクトに折り畳んで、肩からぶら下げたトートバッグに仕舞っていた。

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嘘の素肌「第5話」

嘘の素肌「第5話」

 二時間ほどカフェで過ごし、夕刻にはタクシーを拾って瑠菜を家まで送り届けた。昨晩からの睡眠不足が影響して欠伸が事あるごとに漏れたが、僕は送迎の足を使って瑠菜には言わず再び映画館へ戻った。それから、気になっていたホラー映画のチケットを買った。一日に二度も映画を観るとは思わなかったが、今日中にどうしても観ておきたかった。

 夜八時からのレイトショーはその内容もあってか、客席の埋まり具合はまばらだった

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嘘の素肌「第6話」

嘘の素肌「第6話」

 ゴールデンウィーク明けの水曜に和弥から呼び出され、僕は仕事を予定より早く切り上げ新宿へと向かった。今年は連休を利用して何人かの女とは会ったが、行楽のようなものは一つも成さなかった。特別会いたいわけでもない人に会う惰性日記。先延ばしにした予定の穴埋めに時間を費やし、その素肌をコレクトするだけの毎日を過ごした。

 排他的な女との付き合い方に自分で呆れ始めると、僕は和弥と話したくなってくる。中学時代

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嘘の素肌「第7話」

嘘の素肌「第7話」

 煙草を蒸かしながら新宿を歩き回っていると次第に風俗欲はすり減っていき、気づけば僕らは大久保公園前に辿り着いていた。「みろよ、ほとんどオークションだぜ」顎で視線を誘導してきた和弥に合わせ、斜向かいの通りへ意識を伸ばした。道の端には点々と、まるで星のように佇む女たちの姿があった。立ちんぼは繁華街の外れで何度か見かけたことがあったが、聖地であるこの大久保公園周辺区域はとにかく数が多く、中には和弥が言う

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嘘の素肌「第8話」

嘘の素肌「第8話」

 目覚めると既に梢江は部屋を出ていた。宅飲みで捻出されたプラゴミ類は一つのビニールに纏められており、ローテーブル上には空き缶を文鎮代わりにしたレシート裏の書置きがあった。案外達筆な字で「お邪魔しました。セックスは七十九点です」という文言が、電話番号の隣に小さく添えられていた。二日酔いの頭痛をロキソニンで流し、まだ梢江の香りが沁み込んだままの枕へ後頭部を埋める。壁掛け時計の短針は7を差している。始発

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嘘の素肌「第9話」

嘘の素肌「第9話」

 約束の水曜日は曇天だが雨一粒降らない天候で、麻奈美さんと会社で顔を合わせた際に今夜は会う気がないのだとわかった。制約は断固として破らぬ麻奈美さんを諦めた僕は潔く気持ちを切り替え、溜まっていた仕事をこなすことにした。

 終業時刻になってもキリ良く仕事が終わらなかったので、帰りにファミレスへ入って持ち帰った業務を仕上げながら夕食を済ませることにした。二百円でなかなか飲みやすいグラスワインの白とペン

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嘘の素肌「第10話」

嘘の素肌「第10話」

 仕事が一段落する頃には、既に終電がなくなっていた。斜向かいの席で作業をしていた学生もとっくに行方を眩ませ、店内にいた客のほとんどが店を出ていた。予定より早く時が流れ過ぎていることに焦り、データファイルの校閲は家に帰って入浴後にやることにした。就職活動の際にお世話になった大学の先輩が口癖のように言っていた「仕事と付き合いと遊び、そのどれも疎かにしちゃだめだから、削るのは睡眠がベストだ」という言葉を

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嘘の素肌「第11話」

嘘の素肌「第11話」

 今年度は新卒採用で春から会社に十名の新人が入社した。三、四年目の社員が一人につき二名を抱える形で研修上がりの新入社員を最低半年は教育するのだが、今年僕は新人教育から外れ、新設されたプラットフォーム事業部のSEOリーダーとして抜擢された。昨年に僕が中心となって取り組んだメディアディレクション業が追い風となったのだろう。自己評価と他者評価の差異に気後れしながらも、会社の新たな剣として身を粉にして働く

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嘘の素肌「第12話」

嘘の素肌「第12話」

 雨と金曜が邪魔をしていた。タクシーがなかなか捕まらず、予定より三十分の遅刻で池尻大橋に到着した。自衛隊中央病院前で下車し、大粒の雨が降りしきる中、約束の店へ急いだ。

 入店してすぐ従業員に「川端の待ち合わせです」と告げ、完全個室の部屋へ案内される。仕切りをスライドし開口一番に謝罪すると、麻奈美さんは自分が座っている二人掛けソファの空きスペースをポンポンと叩き、隣へ来るよう催促した。顔が火照って

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嘘の素肌「第13話」

嘘の素肌「第13話」

 ホテルを出る直前、麻奈美さんが僕へ現金で三万円を手渡してきた。少しだけど、受け取って。恒例となった別れ際の金銭贈与。僕はその金を財布に仕舞った後、すぐに和弥へ連絡をした。

 麻奈美さんから貰ったお金は、必ず和弥との酒に使うと決めていた。彼女が僕との関係にあえて金銭を挟むのには様々な理由がある。それをすすんで語りたがる無粋さを麻奈美さんは持ち合わせていないが、きっと彼女が僕を娼婦のように買ってい

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嘘の素肌「第14話」

嘘の素肌「第14話」

 十月に入り、ようやく風に秋の香りが混じるようになってきた。猛暑日が九月中旬まで引き延ばされた狂気の気候にほとほとうんざりしていたので、これから冬に近づいていくことが心なしか気分を明るくした。

 千代田区にある国立近代美術館でリヒター展が六月から開催されており、和弥からは既に六回も行ったとの報告を受けていた。同じ展覧会に何度も行く気が知れないが、リヒターは和弥にとって大切な画家のひとりだった。

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