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嘘の素肌「第8話」

 目覚めると既に梢江は部屋を出ていた。宅飲みで捻出されたプラゴミ類は一つのビニールに纏められており、ローテーブル上には空き缶を文鎮代わりにしたレシート裏の書置きがあった。案外達筆な字で「お邪魔しました。セックスは七十九点です」という文言が、電話番号の隣に小さく添えられていた。二日酔いの頭痛をロキソニンで流し、まだ梢江の香りが沁み込んだままの枕へ後頭部を埋める。壁掛け時計の短針は7を差している。始発で帰ったのだろう。昨晩の事を思い出そうとしても、刹那ばかりでほとんどが鮮明には蘇らなかった。あれ記憶にあるのは、彼女が性病ではない事実を入念に僕へ説明してから行為に臨んだこと。僕が酔いの勢いでセックスの点数を梢江に訊ねたこと。彼女の上腕にはギターの弦みたいな無数の細い線が傷跡として白く残っていたことだけだった。

 洗面所に入り冷水で顔を洗って、上司へ体調不良を理由に午前休が欲しいと電話越しに頼み、歯磨きの後で煙草を三本ほど灰にした。LINEの履歴を覗くと、和弥から「俺の寝たふり、一級品だろ」と明け方頃に連絡が来ていた。さすがに申し訳なく思ったが、続く和弥のメッセージが「感想待ってる」だったので、特別謝ったりする必要はなさそうだった。

 床に放り投げたジャケットを持ち上げ、胸ポケットに仕舞った現金封筒を取り出す。五枚の一万円札を確認し、瑠菜にこれから会いに行く旨を伝えた。木曜は就労支援施設へも行かないので、予定がなければ瑠菜は在宅しているだろう。五分ほど経って、瑠菜から「待ってまーす」と返信が来た。僕はシャワーを浴び、汗や体液でべたついた身体を洗い流した。


 芳乃家へ向かう道中でコンビニのATMへ寄り、五万円を下ろした。その金を丸々封筒に詰め、合計十万円を瑠菜に渡した。「和弥から、進学祝いだってさ」と、全額和弥が用意したことにした。それがかつての想い人であった梢江を略奪した贖罪になるのかはわからないが、瑠菜と和弥の仲がこの金額によって少し前向きに進展すればいいと思った。大金過ぎると一度は断った瑠菜だが、玄関先で無理やり彼女の手に封筒を握らせると、渋々瑠菜は受け取ってくれた。

「和弥今バイト暮らしでしょ。平気なの?」

「わからないけど、それぐらい瑠菜のこと気にかけてくれてるんだよ。だからさ、電話ぐらい入れてあげて。和弥、意外と寂しがってるから」

「そんなわけないじゃん。このお金も、自己満足だよ。どうせ」

 普段聴く機会のない瑠菜の冷たい声色に驚く。この二人の間に何があったのだろうか。僕の立場であれば、多少の詮索ぐらいは許されるかもしれない。知りたいという感情に付随して、昨夜の梢江が曖昧にして多くを語ることを避けた、身体を売って稼ぎを得ようとした理由の方も気になってしまった。知らないことが多過ぎる世の中で、知りたがることは罪のように思えた。僕はできるだけ無関心でいたかった。それは偏に、他人へ関心を持つことで傷つくことを僕が痛ましいほど知っているからかもしれなかった。


 無関心とは無神経で、無疲労で無道徳。そんな余白に浸りたい時、いつだって僕は麻奈美まなみさんに縋りたくなる。出勤後すぐ、僕は昼休憩の合間を縫って麻奈美さんが今年度から配属された総務部のデスクへ赴いた。麻奈美さんは僕からの業務連絡以外のLINEを既読すらしてくれないので、私的な要件がある場合は直接会いに行かねばならなかった。

 スティック状のサラダチキンを齧りながらパソコンと睨み合う麻奈美さんに近づき、「川端かわばたさん、お疲れ様です。今ちょっと大丈夫ですか」と自然な風を装いながら、自販機で買ったアセロラジュースを彼女の手元へ置いた。すると彼女は「ええ」とだけ呟き、目線を合わせぬままジュースを手に取って、喫煙所の方へと歩き出した。僕もそれに着いていく形で麻奈美さんの後を追う。休憩時間にデスクで作業しているのは麻奈美さんと総務局長ぐらいだったので、僕らは特別いやらしい空気もなくその場を抜け出せた。

 喫煙所を通り過ぎ、あまり利用されていない簡易の仮眠スペースへ移動する。ビニール製の細長いベンチと、そば枕にブランケットがあるだけの質素な部屋だが、喫煙者ではない麻奈美さんと話すにはここがちょうどよかった。

 麻奈美さんはアセロラジュースのキャップを回し、一口だけ飲んで蓋を閉めた。

「ごめん桧山くん。今夜は無理。下の子の病院があるし、天気も良い」

 僕が誘う前に、麻奈美さんはスケジュールが埋まっていることを教えてくれた。彼女と僕の間には二人で会う時のルールがいくつかあった。まずは寝たきりの次男へ会いに病院へ通う邪魔はしないこと。次に、必ず雨の日であること。晴天時は陸上部に所属している長男が部活動終わりに家に帰ってくる為、不在にはできない。雨天であれば長男の部活動が休みになるので、放課後はそのまま祖父母の家に行ってそこで夕飯を済ませる都合上、家で食事を用意する必要がない。だから僕らが会えるのは、面会のない雨の日だけという制約があった。

「今夜じゃなくても、近いうちにって誘いです。僕が合わせるので」

「そんなに怖い顔して、らしくないわね。悩みでもあるの」

「別に悩みってほどじゃないけど、似て非なるものです」

「仕事? プライベート?」

「どっちもですよ。どっちもじゃなくちゃ、都合つけてくれないでしょ、麻奈美さんは」

「当たり前でしょ」麻奈美さんはベンチに脚を組んで座り、下がった眼鏡を手の甲で押し上げた。落ち着き払った態度のまま、彼女は僕に隣に腰を下ろすよう促した。「私、これでも既婚者なのよ」

「いつなら会えますか」

「直近で、来週の水曜かな。雨が降ったら、池尻のいつもの店に九時とかどうかしら」

「わかりました。それで悠太ゆうた君のご容態は」

「最近は元気よ。回復の目処はないけどね」

 今年で十二歳になる悠太くんは、一年前の水難事故によって頭部に大きな外傷を負い、現在は植物状態として生きている。旦那さんと悠太君が釣ヶ崎海岸へサーフィンに出掛けた日、旦那さんの不注意で息子が同じくサーフィンをしていた大学生のボードに衝突し、病院へ緊急搬送された。手術から一か月経っても意識が戻らない為、遷延性植物状態と診断を受けた。以来夫婦の間には軋轢が生じ、子どもの為に離婚はしないが家庭内別居のような形になっている。二週間前からアンティーク雑貨の貿易商を生業としている旦那さんはロンドンへ単身赴任しており、そのせいか麻奈美さんの機嫌が少しだけよかった。

「今度、僕も一緒にお見舞いに行きますよ。悠太君は好きなアニメとかありますか。頑張ってる悠太君にも、僕から何か贈りたいので」

「あんまり気遣わないで。どうせ意識は戻らないし、旦那だって月に一、二回しか面会に行かないんだから。気持ちだけで充分嬉しいわ。それに、桧山くんが来ても悠太はびっくりする。ママ、この人誰って顔するわよ、きっと」

「その場合悠太君には、なんて説明するんですか」

「うーん」麻奈美さんは少女のように笑って、「弟、かな」と言った。


「え、僕に対して姉のつもりで接してるんですか」

「それだと不満かしら」

「少しだけ」

「可愛いね、相変わらず」

 腕時計で時刻を確認した麻奈美さんが立ち上がり、アセロラジュースのお礼を言って仮眠室を出て行った。スマートフォンで天気予報を確認すると、来週水曜の降水確率は三十パーセントだった。これから梅雨入りすれば、麻奈美さんと会う機会も増えるのだろう。彼女との関係が始まったのも昨年の七月上旬だった。好きでも嫌いでもなかった雨に意味を持たせてくれた麻奈美さんを耽りながら、僕も午後からの業務に身を入れた。



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