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嘘の素肌「第4話」

 約束の正午二時過ぎ、橋本駅の映画館前で瑠菜と合流した。黒を基調に猫の模様が描かれた杖でアスファルトを叩きながら、杖を握らない方の手を軽快に振り上げ瑠菜がこちらへ歩いてくる。「茉莉くんお待たせっ」今は生活に支障をきたすような関節への問題がないので、瑠菜も普段は車椅子ではなく杖一本で生活することができている。僕と落ち合ってからは杖をコンパクトに折り畳んで、肩からぶら下げたトートバッグに仕舞っていた。その杖もバッグも、僕が何かの記念を理由に瑠菜へ贈ったものだった。

 ゴールデンウィーク前半戦、映画館内は家族連れや若い男女の姿で賑わっていた。そんな一般の活気に紛れるように、昨晩の破廉恥な女癖を誤魔化した潔癖さで瑠菜と向き合う。ハーフアップに結わいた瑠菜の黒髪が、彼女が表情筋を豊かに操作する度に少しだけ揺れていた。

「映画、ついてきてくれてありがとね」

 瑠菜が開口一番感謝を述べる。僕との付き合いが長いくせに、こういう礼儀みたいなものを忘れたことはないのが彼女の長所だった。年頃らしく、推しが出演している恋愛映画をどうしても観たいと思い、彼女は僕を誘った。瑠菜は本来単独での長時間外出が望ましくないので基本は両親と行動するのだが、今回の映画だけはどうしても親とは観たくなかったらしい。「絶対泣く自信あるから、ママとかパパは一緒じゃ嫌だ」嘘偽りない真っ直ぐな誘い文句を瑠菜は僕に使った。それなら和弥がいるだろうと僕は言葉に含みを持たせたけれど、「あの人、頭おかしくなっちゃったから」と素っ気ない様子の瑠菜は提案を却下した。まあつまり本日の約束は、推し活に勤しむ純粋な二十二歳女性の妥協案として取り付けられたものだと僕は考えている。相手が瑠菜でなければ適当な理由で断っていたような用事だった。

 大して興味もない映画のチケットを二枚購入し、瑠菜の要望でポップコーンとアイスティーを買った。僕は映画鑑賞の際に飲み食いをしないので全て瑠菜が食べるのだと忠告したが、いざ提供されたキャラメルポップコーンの甘い香りに誘われて、ついつい僕の食指が伸びた。ロビーの簡易シートに腰を下ろし、瑠菜の抱えたポップコーンバゲットに手を突っ込む僕へ、「ほら、これキャラメルたっぷりで美味しいよ」と瑠菜は白琥珀の小さな爆弾を一つ抓んでこちらへ見せつける。僕が口を開けて瑠菜へ身を寄せると、彼女は餌やりの要領で僕の口に甘い弾けを投げ込んだ。カップルみたいなことしてるよ、僕たち。茶化すような声色で呟くと、瑠菜から短く「きもっ」と微笑みが返される。安寧に包まれる空間。その中に生まれる虚ろをつき、僕は瑠菜の背後に掲示された同時期に上映しているホラー映画のポスターを盗み見た。面白そうだから次来る時はこれを一緒に観たいな、とは言わなかった。

「私、家族以外と映画来るの初めてかも」

 ストローに下唇をつけながら瑠菜が言った。

「僕は家族みたいなもんでしょ」

「まあ、そうだけどさ」

 今日の彼女は香水を纏っているのか、いつも使っているシャンプーとは違う匂いがする。小柄につけ背筋があまりよくないので、並んで座っていると僕は必ず瑠菜を見下ろす形になる。上目遣う瑠菜の目元に化粧のせいか少々大人びた雰囲気が感じ取れ、疑似的な妹の成長が胸に温かなものをじんわりと広げる。ほんと綺麗になったね。前触れもなく伝えてみると、瑠菜が小さく鼻を鳴らして「もー、からかわないでよ」と口を尖らせた。実際綺麗になったし、もともと兄譲りで目鼻立ちは精悍だ。男性と交流する経験が皆無に等しい故、褒められても訝しむことしかできない処女っぽさもまた愛らしかった。

 僕は、こうして瑠菜と善良にコミュニケーションを重ねる度に考えてしまう。兄妹のリアルな距離感などには立場上疎い僕だが、どうして和弥は極端に瑠菜から逃げるような生活をしているのだろうか。疑問。あれだけ仲の良かった兄妹なのだから、余計に。ふと瑠菜が心配になったり、たまには食事でもと勇む気にはならないものだろうか。大喧嘩をしたわけでもないと瑠菜も言っていたのに、和弥はいったい何に怯えているのだろうか。

 ただ、和弥は兄である以上に一人間として和弥だから、瑠菜が恋愛映画を観たいと言っても無理やりホラー映画のチケットを買うような気がした。僕と和弥の大きな差はそこだ。他人に懐柔し、流体的な人間を演じることで僕は他者評価を得ている。和弥に言われた「こじつけ」の概念が確立した僕は、例えばここで瑠菜と恋愛映画を観ることへの退屈さにも「瑠菜とでなければ観る機会なく終わっていた作品に触れることができた」などという最適解をこじつけられる。AでもBでも、白でも黒でも、右でも左でも、僕は僕を正しいと信じ込める。しかしながら、こうしたこじつけによって生まれた瑠菜に対する心置きない態度や暖色の返事は全てポーズの範疇を過ぎず、昨晩の下品なセックスとの対比として、その両義性を自分に付与し陶酔している自覚も持ち得ている。言ってしまえば僕は生粋のナルシストで、どこまでいっても最低な人間だった。瑠菜はその片鱗にも気づいていない。僕らにある安寧は言わば虚実の結晶で、これだけ肉親のように関わり合う相手ですら触れてほしくないと思うのだから気が重い。

「こうやって二人で映画館デートも悪くないね」

 何気なく言った僕の言葉に、「これってデートなの?」と瑠菜が返す。

「男女が予定会わせて共通の楽しみを謳歌したらデートだよ、たぶん」

「その男女が、私と茉莉くんでも?」

「そうだよ。デートってことにしとこう」僕は瑠菜が抱えていたポップコーンをトレーごと貰い受け、立ち上がる。「よし、そろそろ入場しよっか」


 二時間弱、薄ら寒いだけの恋愛模様を瑠菜に倣って眠らず鑑賞した。大した感想も出ない作品ではあったが、唯一良かったと思う描写を挙げるなら、ヒロインの女学生が終盤主人公に「お前ほんと気持ち悪いよ」と言ってしまうシーンだった。恋愛ものだと思ったが本質は別に重点を置いた映画で、瑠菜は推しが出ている場面以外は微妙だったと不満を漏らした。原作である小説本が本屋大賞を受賞したことにより映画化した作品。小説の完成度が気になって物は試しと読んでみたくなったが、人気作家の作品に触れるとどうしてか和弥の価値観を否定する側に回ってしまいそうで読むのは辞めた。

 映画館を出た後は本屋に寄って、僕は私小説作家の文庫本を一冊買った。ジャンルを問わない読書家の瑠菜は大人気少年漫画の最新刊と、女性作家のエッセイを一冊ずつ手に取った。僕らはそれを個々に楽しむためチェーンのカフェに入り、会話の不必要な時間を、眼前に相手を構えながら過ごした。たまに瑠菜を文庫本の死角から覗き見し、文章を追う真剣な視線に好感を覚えつつ、そのままテーブルの下、今度は瑠菜の足元へ視線を移した。見慣れた白のスニーカーを纏った足の爪先が、つんと上向きにこちらを刺している。「私は一生ヒールが履けないんだろうなぁ」いつだったか瑠菜が愚痴を溢していたことをひとりでに思い出した。病気のせいで、怪我に繋がる可能性があることを全て遮断され、痛みに対して周囲が過剰に反応し続けた結果、瑠菜は守られ、今も生き、同世代の女性としての喜びを一部損なっている。可哀相だとは思う。しかし、生きる為に必要なのだから仕方ないとも思う。

 僕は瑠菜に、背の低いパンプスを買ってやろうと密かに決めた。贈与慾。人に何かを施したいという感情が欠落した僕からすれば、贈与慾そのものに心躍らせてくれる瑠菜の存在はやはり特別だった。欲しいものはなんだって与えるから、なるべく笑って生きていてほしい。少しペシミストっぽい台詞が浮かんだのは、小説を読んでいるせいだろうか。頼んだマンデリンで口内を洗いながら活字に意識を戻す。余白なくずらりと敷き詰まった文章。退廃的な私小説作家が綴る、残虐かつ自己中心的な暴力の情景を記した一節が目に飛び込んでくる。陰険で溌剌とした読み心地のヴァイオレンスに思わず破顔した僕を瑠菜が発見し、「面白いの? その本」と訊ねてくる。僕は首を横に振って、「全然」と答えた。小説の中では主人公の男が恋人を蹴り飛ばし、肋骨をへし折る事態に発展していた。


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