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嘘の素肌「第1話」

 辺り一面に溌剌とした芝が生い茂り、盛り上がりの中央には僕の背丈の十倍以上もある楠が昂然たる情で聳え立っている。紫外線と直射日光という天敵に対し、密集した葉によって生じる木陰に守られながら、瑠菜るなは白のワンピースが汚れてしまうことを厭わず芝生に尻をつけて座っている。膝を三角に折りながら、樹木の生え際から少し離れた地面の雑草を懸命に毟っている。何かに苛立つようなその仕草は僕を煽っているように見えた。瑠菜を置いて、僕と和弥かずやでコンビニへ行ったのが気に食わなかったのかもしれない。指で抓んだ雑草がぷちんと繊維を立つように中途半端にちょん切れると、瑠菜は更に苛立って、指を土の中にぐりぐりと押し込み、穿り返す勢いで細い血管みたいな根っこを引き抜いた。瑠菜は満足そうに身体を揺らしながら、自分で引き抜いた雑草をもう一度土へ埋めていた。五月の風は口いっぱいに含むと病気になりそうで、僕は何かに怯えながら、そんな瑠菜の様子を和弥の隣を歩きながら眺めていた。

 数メートル先で僕らの姿を発見した瑠菜が立ち上がり、爪の間に挟まった土を気にしながら「茉莉まりくんと和弥おそい、喉渇いた、死んじゃう」と僕らに不満を漏らした。兄である和弥は無反応なまま、コンビニで買ったプラカップのアイスコーヒーに口をつけている。十二歳の女児にしては幼過ぎる地団太を踏んだ瑠菜が、マテを忘れた犬のようにこちらへと一歩踏み出した。その一歩、瑠菜が利き足の右を踏み出すと、ずっと座っていたこともあってかそのまま足首を捻って姿勢を崩し、顔面を芝生へ打ち付けるようにして転んだ。転倒した瑠菜の上半身だけが陽光に晒され、腰から下は未だ楠が作る陰によって守られていた。

 僕が瑠菜の転倒に声を上げた時既に、和弥は瑠菜の元へ猛ダッシュで駆け寄っていた。僕はスタートダッシュを切りそびれた言い訳に「家族じゃないし」というものを用意して、和弥の後に続く形で瑠菜へ近寄った。瑠菜は身体を仰向けにして、芝生に後頭部を沈めながらけらけらと笑っていた。自分のドジさを恥じ、誤魔化すような、大袈裟な笑声だった。反応に困った僕とは打って変わり、和弥は瑠菜を叱っていた。学ランの胸ポケットからハンカチを取り出した和弥が瑠菜の上体を起こし、布を鼻に当てている。血が鼻腔で溜まってしまわぬよう瑠菜に俯くよう指示をした和弥のハンカチは、みるみるうちに拡大される赤い斑点によって染められていく。和弥は慣れた仕草で瑠菜が腰に巻いていたウエストポーチから脱脂綿を取り出し、適度なサイズに千切って丸め、瑠菜の鼻の穴に押し込んだ。瑠菜の肉体を点検するよう足首から順に触診する和弥。僕は何かその作業工程の仲間に入りたくて、瑠菜に「痛いところあったら言ってね」と告げた。その瞬間、和弥が振り返って僕を強く睨みつけた。いや、後光煌めく日差しの所為で目を細めただけかもしれない。ただその時の和弥の視線は、親友であるはずの僕のことを世間一般という俗物へカテゴライズしたように映った。瑠菜が「茉莉くんへんなの」と笑ったけれど、こればかりは全く嬉々としたものではないとわかる音を孕んでいた。息が詰まって呼吸がし辛くて、僕は二人に悟られないよう、ゆっくりと深呼吸をした。五月の風が肺を満たした時、僕は一生涯の羞恥に耳が熱くなっていた。

 爽やかな風の音が緑の光を攫って鼓膜を叩く。痛みについて訊ねた僕を取り残し、和弥は瑠菜の脹脛を摩りながら「痛いの痛いの、飛んでけ」と繰り返している。「それ、私には意味ないのに、なんで和弥はするの?」瑠菜の疑問に和弥が微笑み、「お前が感じれなくても、ここに痛みはちゃんとあるんだよ。それを教えてんの」と言った。



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