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頭より先に動く身体~馬が言語の檻から解き放つ〜

1 馬とトランポリン、幸せに生きるための身体

 6月、最近タカシくんは、乗馬に積極的だ。学校が終わって、さんこま(三陸駒舎の愛称)に到着するとすぐに「馬に乗りたい」と訴えてくる。
 ちょっと手先が不器用なタカシくんは、ブラッシングや鞍を乗せる準備に時間が掛かっているが、馬に乗りたいという強い気持ちから、最後まで一心に取り組む。準備が終わり、馬場まで馬を連れて行くときに、馬の顔が近づいて少し怖がり身体が萎縮する。「タカシくんがリーダーだから胸を張って」と声を掛けると、彼なりに背筋を伸ばして馬を誘導する。道産子のアサツキに乗馬して、速歩を何度もして、風を切って走る。その時、タカシくんは馬の背中の揺れに身を任せ、満たされた表情になる。
 この様子を目にしたとき、僕は少し安堵した。このまま馬との時間を重ねていけば大丈夫かもしれない。なぜそう思ったかというと、数ヶ月前、タカシくんに少し気になる出来事があったからだ。

 遡ること数ヶ1月…
 放課後のある日のこと。天気も良く、早春の風が心地よい。
 トランポリンの上で、青空に向かって全力で跳びはねる二人の子に、タカシくんは、「トランポリン入っても、いーですか?」とちょっと形式張って尋ねる。先にトランポリンで跳びはねる二人は、タカシくんの問いかけにはお構いなしに飛び跳ね続ける。立ち尽くすタカシくんの横を通り抜け、ユウキくんは何も言わずにトランポリンに上がり、先に跳んでいた子たちと混じり楽しそうな声を上げる。
 タカシくんは、トランポリンをしたい気持ちはあったが、身体より先に頭であれこれ考えてしまった。身体から動くことは大切だ。以前もタカシくんが、遊んでいるときに、「あと何分遊べますか?」と何度も聞いてきて、遊びそのものに集中できていなかった。

 「たかが遊びでしょ」と思うのは早計だ。遊びに限らず、学習や仕事などにおいても、我を忘れて没頭する力は、これからますます必要とされる。頭であれこれ考える前に、身体がまず動いて何かに没頭できることは、大人になってからも大切なことだ。むしろ、子ども時代の遊びの中で、そのような身体が培われないと、大人になってから培うことは、なかなか難しい。(「私ヤバいかも…」と思った方も大丈夫!馬が何とかしてくれる。ぜひ、最後まで読んで欲しい。)
 このような身体は、幸せに生きていく上でも重要だ。何かに没頭している間は、身体も心も満たされる。あなたも、ワクワクしながら何かに取り組んでいる姿をみると、その人を魅力的に感じるはずだ。心理学者のチクセントミハイは、そのような状態を「フロー」と名付けた。ドキュメンタリー映画「happy―しあわせを探すあなたへ」の中で、チクセントミハイは「フロー」の状態にある人のことを次のように語る。

「時がたつにつれ、生きるすばらしさを感じます」

2 現代社会と言語の檻

 現代社会では、身体よりも思考や言語が優先されがちだ。それもそのはず、言語によって法がつくられ、複雑な社会を営むことが可能となったからだ。いわば、身体の感覚はいったん脇におき、言語で思考することで社会は回る。
 現代社会が営まれるようになったのは、この数千年のことだ。一方、その前の狩猟採集時代は何万年と続いていた。人類の歴史から見れば、現代社会は最近の話に過ぎない。僕らの遺伝子は、狩猟採取時代から大きく変わっていない。そのため、頭ばかり使い身体をないがしろにしている現代人は心の病を抱えやすくなった。
 言語や法は、より良い社会を営むための道具だったはずだ。しかし、いつの間にか、言語の檻に囚われてしまい、人間の方が社会を回すための歯車として道具に成り下がった。そんな状態で生活していれば、心がおかしくなるのも当然だ。
 近年めまぐるしく進化しているChatGPTなどの生成AIは、言語をどんどん取り込み予測の効率を上げている。言語だけに頼っていては、その仕事は生成AIに取って代わられていく。仕事の面から見ても、言語の檻に囚われることなく身体性を培うことは大切だ。

3 身体性の回復と馬とのコミュニケーション

 では、言語の檻から解放されて幸せに生きるためには、どうしたらよいのか?こんな時、馬が力になってくれる。馬は、言語の外で生きる存在だが、何千年と人と共に生き、深いやり取りができるからだ。

 僕ら大人も馬と関わる中で、頭より先に動く身体が養われる。僕や現場に一緒に立つスタッフたちは、日々馬と関わる中で、身体の感覚が磨かれるのを実感している。
 馬とコミュニケーションを図るためには、人が使う言語は全く頼りにならない。馬は身体の様々な動きを通じて働き掛けてきて、それは常に更新されていく。こちらは、それを受け取り、瞬間瞬間で応答する必要がある。馬と深いコミュニケーションを図ろうとしたら、頭で考えてから応答していては、間に合わない。馬からの働き掛けを受け取り、頭を通さずに、身体で返す必要がある。
 しかも、こちらが身体で感じていることと頭で考えていることにズレがあると、上手くいかない。馬には、頭で考えている認識よりも、身体から発せられるモノが伝わる。例えば、冒頭のタカシくんのように、馬と一緒に歩こうと頭で考えていても、怖がって身体が萎縮していては、馬はそれを感じて歩いてくれない。馬は、人の身体から発せられるモノをそのまま受け取り、身体の動きとして返す。しかも、本人の意識に上がっていない微細なモノまで、馬は受け取るので、馬の動きを介して、自分の心身の状態を知ることができる。
 馬との関わりを重ねていると、頭であれこれ考えることを優先していたところから、身体で感じて身体が動くという状態に自然と変化していく。しかも、あれこれ考えている暇はない。今ここに集中することが求められることから、マインドフルネス的な状態になっていると言える。馬と一緒に歩いたり、乗馬したりする中で、馬と上手くできているときに時折「これってフロー状態かも」と感じる瞬間が訪れる。

マインドフルネスとは
過去や未来ではなく今この瞬間に意識を向けて、目の前のことに集中している状態。ストレス軽減や生産性向上の効果もあることから、Googleなどの企業でも取り入れられている。

4 馬が育む身体の感覚

 冒頭に登場したタカシくんの話に戻ろう。
 ここまで述べたことをタカシくんたちのトランポリンの様子に重ねてみる。タカシくんは、トランポリンの外で立ち尽くし、身体は固まり言葉だけを発している。一方、後から来たユウキくんは、トランポリンを跳ぶ他の子どもたちの楽しげな様子に身体が反応し、タカシくんの横をすり抜けて、他の子どもたちと混じり合う。二人の身体は対称的だ。

 タカシくんは、すでに言語の檻に囚われつつあると感じる。これまで「この時は、〇〇すべき/〇〇してはダメ」などと、周りの大人から過度な期待の言葉を常に受けてきたのかもしれない。大人も悪気はない。言語によってつくられた社会で上手くやっていくためには、ルールやマナーなどに合わせていくことも必要だからだ。だけど悪気がないから、やっかいだ。自覚がないと節度なく期待の言葉を掛け続ける。
 この状況の中にずっといると、自分の感覚をしっかり味わい自分の身体が「やりたい/やりたくない」の取捨選択をして感覚を元に動くのではなく、自分の感覚を脇において、言語でつくられた法―ルールやマナーのようなモノに従って動くようになる。「主体性が大事」とよく言われるが、それとは真逆で、全ての判断を他人に依存する他律性に覆われていく。

 タカシくんが、乗馬で満たされた表情をしているのを見て、なぜ僕は安堵したのか。ここまで述べてきたことから分かるだろう。
 まずは、身体の快・不快を味わい、その感覚に存分に浸る。「やりたい!楽しそう!」と身体が反応し、自然に身体が動き出す。まずは、そういう身体を培うことが大事だ。頭をつかって言語で思考するのは、その後でいい。ましてや遊びの場面。思うがままに、身体を解放して、存分に今を楽しめば良い。
 タカシくんは、乗馬したときの身体の感覚を味わいたくて、さんこまに到着してすぐに、不器用ながらも一生懸命に乗馬の準備をして、少し馬が怖くても馬場に連れて行く。馬に突き動かされて身体が動く。そこには大人からの過度な期待はなく、自分の身体の感覚が出発点だ。こういう経験を積み重ねていく中で、言葉の檻に囚われない身体が育つ。

5 馬の在り方から学ぶ

 馬は、人に対して期待はない。ただ人のそばにいてくれて、人に力を湧かせる身体を持つ。僕ら大人は、本当に子どもの幸せを願うのなら、この馬の在り方からもっと学ばなくてはいけない。馬から学ぶことで、大人自身も言葉の檻から解放される。
 馬とのやり取りで上手く行かないときは、「今日はコレができるようにするぞ!」などとこちらに過度な期待がある。しかも上手く行かないから身体には余計な力が入っている。ひと呼吸いれて「コレがしたいけど、どうですか?」と期待と身体を少し緩めてみる。自分と馬の動きに意識を向けていくうちに、言語によってつくられた期待は、どんどん意識から薄れていく。やり取りが上手く行けば、自分と馬の身体の感覚が混じり合い一つになり、ある方向へ進んでいく。馬との関わりを重ねると、馬の在り方がこちらの身体に知らないうちに浸透していく。
 この話は、馬に対してだけのことではない。人に対しても同じことだ。自分と相手の感覚が混じり合うのは、そんな難しい話ではない。例えば、トランポリンに後からやってきたユウキくんは、身体の欲求に素直に従い、先に跳んでいた二人の子と身体と感覚を共有していたはずだ。
 僕ら大人が子どもに関わるときも、少し期待を緩めて、身体の感覚をしっかり味わいながら、その感覚に委ねてみる。「〇〇すべき」といった期待を手放した先には、お互いの身体の感覚が混じり合う豊かな関係性の世界が広がる。
 期待を手放すことは簡単ではない。しかし、よく考えてほしい。過度に期待を掛けられ言語の檻に囚われた先に幸せはあるだろうか。期待を手放すと何も指針が無くなるようで怖く感じるのかもしれない。でも大丈夫。あなたには身体があって、その身体は馬が培ってくれる。そして、目の前に子どももいる。「身体」、「馬」、「子ども」が、僕らの行くべき方向を指し示してくれる。

 日々子どもたちと接していると、実は子どもたちは先に述べた馬の在り方を既に持っていると感じる。大切なことを忘れてしまったのは、むしろ大人の方だ。
 馬は、いつでも見返りを求めること無く僕らに力を貸してくれる。もしあなたが言語の檻に囚われていると感じているのであれば、馬に会いに来てほしい。馬と過ごす時間を通じて、自分自身の身体の感覚を再発見し、言語の檻の外に広がる豊かな世界に出会えるはずだ。だって、大人のあなたも、言語に囚われていない子ども時代をかつては生きていたからだ。


参考資料

この映画には、馬も登場します!
amazon prime videoなどでもご覧いただけます。


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