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幸は薄くても濃くてもダメ。ニュートラルなところがちょうど良いよね



当たり前のように働いては働いてはを
繰り返す毎日に窮屈さや退屈さを
感じるようになった。



無理をしてより良い人間関係を
築ことした結果、
自分自身が傷ついてしまう。




でも、
結局明日になったらそのことを喉の奥に
しまい込んで、何食わぬ顔で口角を上げる。
そんな日々の積み重ね。

仕事の合間にトイレに行って
自分の姿を鏡で確認して、
自分がさっき言った言葉や表情を思い出す。



何であんな思ってもないことを
言ってしまったんだろう?

何で心の中では全く面白くないのに笑顔なんだろう?
と鏡の前に映る自分見ながら反芻する。





トイレから出ると殺伐とした空気が
蔓延る社内に戻り、
自分のデスクに向かいとぼとぼと歩いている。
自分のデスクの隣は教育係の上司と
課長が座ってパソコンと睨み合っている。


隣に座っている自分は出来る仕事が限られている為、
簡単な書類の作成や電話の対応など
誰にでも出来ることをせこせこと
こなしている。



たまにパソコンの画面の右端に
映し出されている時刻をチラチラと見ながら、
後何時間経ったら家に帰ることが
出来るとかくだらないこと
ばかり考えて時間が過ぎるのを待つ。



退社の時間が刻々と迫りやっと解放されると
考えてしまう自分は如何なものなのかと
自分に問い詰めるけどそんなことは
どうでも良いやと投げ捨てる。



パソコンに退勤の入力と行った業務の入力を終え、
デスクを後にした。


「お先に失礼します。お疲れ様です」と
明るく言い席を離れる。
この瞬間がいつもドキドキして堪らない。



先に帰っても良いのだろか?と新入社員だから
良いのかな?なんてことを考えてしまうことがよくある。


そんなことを考えながら、一階に降りて
ホワイトボードの自分の名札を裏返し少し離れた
駐車場まで同期の子と向かった。




歩きながら仕事のことについて色々話しているとつい  本音を漏らしてしまった。

正直数ヶ月経ったけど仕事の覚えは悪いしいつも
失敗ばかりして辛い。この事を伝えると、
「今は辛いかもしれないけど頑張るしかない」と
言われた。



確かに正論だ。そう思った。


でも、
この言葉を投げかけられても自分のポケットに
この言葉は入らなかった。




じゃあいつまで頑張れば良いの?





本音はこれだ。

基本的にネガティブな僕は物事を前向きに捉えることが
できない。というよりもそんな発想にならない。
何をやるにもどうせ失敗するから頑張ってもな...と
自分をネガティブ思考という名の盾で守っている。

守っていないと自分を保てないんだ。
変に絶対自分なら出来るみたいな。
そんな期待はしないし周りの人にも思って欲しく無い。



期待されることはありがたいことだけど僕にとって
それは大きな荷物になってしまう。
期待されてできなかった時の周りの反応や自分の
至らなさに耐えられるはずがない。

でも、

結局のところ周りの期待云々無しで、
この社会は頑張らないと居場所が与えられない。
働いている人はみんなこの居場所を得る為に
頑張らざるを得ないんだ。

それは、
もしかしたら無意識の内に周りに目であったりできない
自分を見せたくないという恥ずかしさだったりするのかもしれない。毎日誰もがそんな見えない何かと戦っている。





みんな頑張っている。


だからと言って自分も頑張る必要があるのか否か。
そんなことは分からない。
何かを得たいという気持ちを持つことは、
即ち傷つくことも必ず付いてくる。

楽しいことだけだったら楽で良いけどそんなことは
絶対にあり得ない。みんなどこかしら傷ついている。
壊れてまた再構築を繰り返して何かを得ようとしている。



結局、
人って楽しいことだけやってても
楽しさの価値が薄まってしまう。
何かしら辛いことがないと人が求める
幸せって陳腐なものに成り下がるだけになる。

要はどれだけ上手い料理も毎日食べていれば
美味しいのは美味しいのかもしれないけど、
驚きが無くなっていく。
そういうのってたまに食べるから良いんだよね。





実際のところ口ではこうは言えるのだけれども、
でも辛い目に会うのはやっぱり怖いし嫌だよ。

誰が好き好んで辛い事を経験して
次にあるかもしれない
嬉しい事や幸せな事を待たなくてはいけないの?



辛い目には会わなくても良い。
嬉しいことも高望みはしないからそこそこの
嬉しいことで良い。
車で言うニュートラルのような何の音沙汰も無い
中間的な幸せというのか、
そんなもんで自分は今のところは充分生きていける。


これは明日かもしれんし、3年後・5年後になったら
変化していくと思う。

ちょっと欲張りになって自分が欲してしまう
幸せの形が肥大してしまうかも。
そんなこともきっとある。

さっきも言ったけど、
幸せの高望みしない。
それは、
例えるならたまにコンビニで買うちょっと良い
スイーツで自分の幸せを満たせるぐらいで良い。

そんな自分自身に失望もしないし悲しくはならない。

身の丈にあった等身大の姿のままで過ごせる
日常生活があって家族がいる。友達がいる。

そんな当たり前のことに
気付くことができたからそうはならない。

そうならない為に日々起こる出来事に
戦うというよりも寄り添ってみたい。



その為には、
自分の中で消化できる言葉や思考で物事の
本質を見る必要がある気がする。


他人の出した言葉や考え、
答えが必ずしもその人にとっての正解じゃない。



むしろ合わない場合、
その人の考えを自分の中に
落とし込もうとしてもやっぱり違和感を
覚えたりするし心に引っかかりが生まれる。

その違和感を抱えて生きていくのは性に合わない。




自分で出した答えが自分自身を作る。




だから、

他人から言われて如何にも
正しそうな言葉であっても、
惑わされず自分自身で
考えた事を心に留めておきたい。






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