桑原健一郎

1996年生まれ。先代仙斎の孫であり仙溪の甥。三歳の頃よりいけばなの手ほどきをうける。…

桑原健一郎

1996年生まれ。先代仙斎の孫であり仙溪の甥。三歳の頃よりいけばなの手ほどきをうける。現在開催している月5回の教室では、盛花、投げ入れ、生花、立花を教えており、人と話すことが好きで誰もが心地の良い教室作りを目指している。 Instagramでは「はなあそび」を紹介している。

最近の記事

「ヒトと人」

 柊介が産まれてからずっとそばにいる。オスとして些か奇妙な行動をしている事は認識していており、むず痒さもある。頭では外へ出て狩りにでも出かけなければいけないとは考えているが、育児休暇という制度を使って今も柊介の側にいる事ができている。   共に過ごす時間は、なんと幸せな事か。妻に怒られながらではあるが、そばにいる事を許してもらっている。妻は母として自立し、以前よりも逞しさに拍車がかかり、安心できる。すくすくと育つ時に気をつけたいと思っているのが環境である。言葉、規則、慣例か

    • ある不思議

       エコーで確認していた頃は3ミリだった息子の柊介が7ヶ月が経過し、6kgを超えるようになった。本当に大きくなった。  グループホームでの利用者さん達は体重の増加はあれど、ここまで大きくなることはない。私がグループホームの生活の中でかける言葉のうちに、いてくれてありがとう、生まれてきてくれてありがとう。といった類の言葉は日常的に口にしていたのだが、子供に対して、この類の気持ちをもちながら「どうやって大きくなったんや?」という言葉が口から出たのが新鮮で幸せな気持ちになった。彼に

      • とびきりの贅沢

         息子の柊助と同じように寝っ転がり、天井を眺め母親を目で追いかけてみる。床の下で動く換気扇の音がよく聞こえる。部屋で生活している分には気にならない音だと、取り付けた業者さんは言っていたが最近になって気になるようになった。    柊介といて感じるのが自分たちの目に見えるものや、音を始めとする情報量の多さである。香水もしなくなった。久々に嗅いでみると、なんときつい匂いだったんだろうと思う。慣れは恐ろしい。匂いのほのかな植物の香りに気がつくようになった。テレビを消せば、お肉を焼く音

        • 声と言葉のあいだ

           柊介はよく泣き、少しずつ笑い、微妙な顔もする。よく話すようになった。というよりは、声を自分の感情に合わせて出そうとしているようにみえる。柊介の抽象度の高い 声を大人たちは、好き勝手様々に言葉で解釈していく。言葉以外のものを言葉で解釈する。そんな様子を見るのは、美術鑑賞に近いものを感じながら聞いて楽しんでいる。  柊介も声を単語や意味の区切りを探しながら文節化し、より自分が感じた感情をより正確に伝えようとする段階に入るのだろうか。この文節こそ、人が文化を形成したきっかけではな

        「ヒトと人」

          「自分と自分」

           12月7日午前1時59分にそれはそれは元気な産声が響いた。  このご時世に幸運にも奇跡の瞬間に立ち会う事ができた。夫婦共に様々な治療を受け、産まれた待望の我が子である。特に妻と柊介は本当によく頑張ってくれた。  子供が産まれるとグループホームでは意識していた、自分が環境であるという認識を家庭内でも強く持つようになった。産前は全く気にもならなかった事を問題だと捉えるようになったのが変化である。  私は最大限、自分自身を大切にし、可愛がり、甘やかしてきたつもりだったのだが

          「自分と自分」

          『なぜ人は花を見て落ち着くのか』

             華道家らしい花展とイベントで目まぐるしい秋だった。秋のお花を花屋で見て展覧会やデモンストレーションで生けるのは気持ちが良い。その裏で日は一日づつ過ぎ、いつの間にか秋を感じる前に終わってしまうかもしれないという焦燥感と過ごした秋でもあった。その時の自分の願いは御所を散歩したい、ただそれだけだった。家が近いという理由だけで、特に御所である必要は無いのだが、秋を感じられる場所、季節、自然に身を投げたいと言う思いは日に日に募る。  花をいけるだけでは満たされていない。自分は、

          『なぜ人は花を見て落ち着くのか』

          お花の倫理(復興いけばな宣言)

           倫理とは「人として守り行うべき道」とある。  人は変わり続ける。すると倫理も変わり続けるだろう。26年ほどみてきたが、その時間だけでも倫理の移り変わりを眺めていて興味深く感じている。  近頃イルカショーの廃止のニュースが流れていた。楽しみにしていたのに残念だとの事。古代エジプト、中世のヨーロッパの頃から王侯貴族が、戦利品として収集し動物を持ち帰って見せたのがサーカスの始まりとされている。獅子は王と共に描かれているのを目にする。程なくしてサーカスが誕生し楽しまれてきた。家

          お花の倫理(復興いけばな宣言)

          「義祖母との散歩」

           隠居して山に暮らしたいとふとした時に思う。隠居生活の先輩である祖父母のお宅に遊びにいった。山に囲まれた家から見下ろすと川が流れている。楓が目を引く。その足元には躑躅が咲いており、大きな台風が来る前までは藤の花が一面に咲いていたそう。ゆったりと川の音が生活の中にある。山の香りを楽しんでいると、川の上流へ向かうよう、カワセミが驚くほどの速度で通り過ぎた。義祖父母によるとしょっちゅう遊びに来るそうだ。昼から肉が大好きな義祖父と競うようにすき焼きを食べ、妻と義祖父は川の音を聞きなが

          「義祖母との散歩」

          使い回わしの読書感想文

           中学の恩師が流展にいらした。「私はこの先生には特別に目をかけてもらっていた。」と皆が思うような先生で今も活躍なさっている。何かあれば土曜日であろうと日曜日であろうと指導を熱心にしてくれる先生だった。ダメなことはダメ。生徒同士の噂にも敏感で何かあれば自分のことのように祝福してくれる。体が弱いのに、人一倍動き、気も常に使っている。身を粉にして働いているようにも見えるのだが、全くそれを感じさせないのだ。心理的にも、物理的にも人の痛み、喜びを受け入れ、導く人であった。  先生は一

          使い回わしの読書感想文

          「いけばなってなんだろう」

           いけばなってなんだろう。不思議な文化である。言ってしまえば、切り花を水の張った器に人が入れることをいう。何が人を夢中にさせるのだろう。  この家に生まれたからだろうか。自分がしたいいけばなと、流祖の意見が合致している。この家でなければ、成人になってからも生け花をしていなかっただろう。人に伝えるならなおさらである。個人的には流祖の意見を知るより前からこの気持ちは芽生えていたのでたまたま一緒だったと思っているが、師の影響は多大である。家の影響だろう。自分の信条を曲げるつもりは

          「いけばなってなんだろう」

          私とレモンとお花と

          家にいるレモン(飼い猫)は今年5の月で10歳になる。人間で言う56歳に相当するそうだ。家に来た頃は、僕より年下だったはずだが、随分と歳を追い越された。来年には家元と同い年になり、じき追い越すだろう。  自分が感じた1分はレモンにとっての何分なのだろう。時間を数字で把握していないであろうレモンとの比較は難しいが面白いので考えてみることにした。こうして考え事をしていると時間がすぐに経つ。  思い返してみると、自分の落ち着きの無かった幼少期は時間が経つのがなんと遅かったことか。

          私とレモンとお花と

          「隠居生活」

           ここ一年くらい家元に隠居生活を勧めている。自分が家元になれるよう席をあけてもらおうとして半分冗談、半分本気で勧めている。それは自分が最強の家元になった後に隠居をしたいと強く願っているからだ。隠居をするためには人に伝え、継承させることが必要である。  300年程前、江戸の町人の間では隠居がブームだったそうだ。そうでもなければ1日仕事である立花をこさえることは難しい。そして多くの人の夢は隠居をすることだったらしい。当時は公的な年金制度も整っておらず、金銭に余裕がないとできなか

          「隠居生活」

          信仰の場

           信仰の対象となる場に興味があり、暇もあるのであちこちへまわる。今回は島根県の出雲大社と鳥取県の投入堂を目的にいくつか巡ってきた。信仰の対象は世界に目を向けると特異なものもあるが、自然に対するものであったり自然を介するものが多い。理屈なしに信じることができる説得力を持つ場や物はそう多くはないだろう。  出雲大社の御本殿から特別な何かを感じた。人工物であるはずだが、自然的な魅力を感じる。それは大社を構成する柱や装飾がそうさせてるのであろうか。不思議な感覚だった。というのも、場

          涸沢カールの印象

          ナナカマドの赤色、ダケカンバの黄色、ハイマツの緑に覆われた3000メートル級の山々に囲まれた窪みへ菜月と2人で行ってきた。その場所は涸沢カールと呼ばれており、積雪が大きな氷になり重力によって流動して削られてできたくぼみだ。紅葉を見に出かけた。  涸沢カールまで長野県の上高地から片道を徒歩で6時間ほどで着くらしいのだが、8時間ほどかかった。道は険しい。奥上高地とも呼ばれている。  出発してすぐの上高地付近では微かに残る夏に目がいく。標高が上がるにつれ、草木の様子が変わってい

          涸沢カールの印象

          「言葉と自然」

           自分が思う花の楽しさを稽古で人に伝えるようになって3年くらい経った。  あるお弟子さんが生けた菊の花を拝見した。やや前傾に直立した菊の葉が殆どむしり取られている。「葉を取るのが楽しくてつい取りすぎてしまいました。」と笑っている。綺麗な目だった。花の味わい方はそれぞれで、彼女は自分に素直だった。私の花の味わい方が拡張されたようにも思う。葉を取ることに罪悪感を感じる気持ちはもちろん大切だが、それは倫理を通して感じられる感情であり、葉を取る行為のみを考えると不快なものではない。

          「言葉と自然」

          『勘違いと見立て』

           勘が違っている事、物事を間違って思い込むことである。山の中で捨てられているゴミが花に見えたりする。見間違いだ。山の中に花を探しに行っているのだから色が目についてしまう。そのたびに残念な気持ちになる。花は誰かに気づいてもらいたくて色をつける。それは虫かもしれないし、鳥かもしれない。あるいは人間であるとも思う。そしてお菓子の袋もまた人に選ばれたくて色をつけている。山を歩きながら、勝手に期待して勝手に間違え、残念な気持ちになった。ただそこにゴミが落ちているだけなのに。  レビー

          『勘違いと見立て』