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声と言葉のあいだ





 柊介はよく泣き、少しずつ笑い、微妙な顔もする。よく話すようになった。というよりは、声を自分の感情に合わせて出そうとしているようにみえる。柊介の抽象度の高い 声を大人たちは、好き勝手様々に言葉で解釈していく。言葉以外のものを言葉で解釈する。そんな様子を見るのは、美術鑑賞に近いものを感じながら聞いて楽しんでいる。
 柊介も声を単語や意味の区切りを探しながら文節化し、より自分が感じた感情をより正確に伝えようとする段階に入るのだろうか。この文節こそ、人が文化を形成したきっかけではないだろうかと言われている。柊介が言葉を覚える場に立ち会うことができるのは、大変光栄なことであるとともに、責任を感じるが、つい尊さから感じる可愛らしさと好奇心が勝って微笑んでしまう。

 感情を言葉に置き換え直して言葉を話すことになる。何か物事を感じとることが無ければ言葉を使って話す必要も、絵を描く必要もない。言葉はあくまで伝えるための手段としての一つの道具である。まず、私は物事に触れ感じとる事を大切にしている。そこに在る心地よさは心地よいものだ。感じとるセンサーの感受の度合いが言葉の選びや絵に影響を与えるわけだ。柊介には言葉のない世界で感じとる力を磨いて欲しく思っている。自身や外界を言葉を用いず、感じとることができるのはこの時期しかない。

 人が文化を形成するきっかけとなった言語を伝える事はおそらく、お世話には分類されないだろう。教育の始まりを感じている。言葉を話すことに初めは感情と言葉に大きなズレが生じるだろう。そして言葉を上手に使うと自分の気持ちと一致する割合が高くなる。言葉に精通している人、または感情が豊かである人ほど、正確に伝えられないもどかしさからなのか、苦しそうに見える。そのもどかしさを認めた人の言葉からは、重みと説得力を感じている。そこから言葉の楽しさは始まるのだろう。

 実際に、毎月文章として考えていることをまとめているが、溢れ出てくるだけで楽しさはない。納得の上、自信満々で掲載した覚えは一度もない。それに引き換え、自分が関わったいけばなに関してはほとんど毎度自分が納得いく物である。心底自分の花が好きであり、見ていられる。思っていることが現れ出ているのだろうか。自分だけではなく植物と共に在る心強さからか。いけばなが自分に合っている気がしている。

 幼少期の頃ぐらいから、祖父と考える時間が好きだった。今は考えることも好きだが感じることに熱中している。そして今、柊介も多くを感じている。柊介と考えることができる日が来るのを楽しみにしている。

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