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ある不思議



 エコーで確認していた頃は3ミリだった息子の柊介が7ヶ月が経過し、6kgを超えるようになった。本当に大きくなった。

 グループホームでの利用者さん達は体重の増加はあれど、ここまで大きくなることはない。私がグループホームの生活の中でかける言葉のうちに、いてくれてありがとう、生まれてきてくれてありがとう。といった類の言葉は日常的に口にしていたのだが、子供に対して、この類の気持ちをもちながら「どうやって大きくなったんや?」という言葉が口から出たのが新鮮で幸せな気持ちになった。彼に残されているであろう時間と、大きくなるであろう心身の事を思えることは、私にとって新しい体験である。

 自分の子供が生まれる前に想像していたほど、子供に対して特別な気持ちを持つわけではなかったことにも驚いた。子の誕生は静かに暖かく豊かである。似かよった感覚をグループホームで人と関わりをもち、生活することで気がついた。そして、マンチェスターで植物の命について考えるきっかけがあったことも、大きく影響しているだろう。子の誕生も同じように特別だと感じた。だが、大きくなる事への驚きは子育てならではだろう。

 かくいう私も大きくなった1人である。幼年の頃は幾度となく人に会うたびに「背伸びたね」「また大きくなったな」と声をかけられたものだが頭の中で子供が大きくなることは知っているはずなのに、当たり前のことに対してなぜ驚くのだろうと不思議に思っていた事があった。「ちっちゃなってたまるか!」と言い返すことを隣で勧めていた祖父を思い出す。

 子に恵まれてから「ある」という事に対して不思議な気持ちを持つことが増えた。物があるとはどういうことなのだろうか。絶対的な1が存在するのかという問いが立った。調べてみると目に見えるものは様々なものが関係しあってできているらしい。それを分解し、細かくみていくと、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)あるいはそれよりも小さな世界の話になるそうだ。もちろん肉眼で確認することは叶わない。

 今、結論とされているものから述べると、絶対的な個といえるものは存在しないらしい。すべてのものが何か別のものへの対応だけで成り立っているという。電子が一切の相互作用をしていない時、その電子には物理的属性がない。位置もなければ速度もないのだ。明確な属性を持つ互いに独立した実態ではなく、他との関係においてのみ、さらには相互作用した時にはじめて属性や特徴を持つ存在となる。つまり実態とは永続的なものではなく、その場の環境によって姿形を変える束の間の出来事なのである。全ては相互作用で実態というものがあるように見えているだけだということだ。

 物事が物事に作用を及ぼす。例としては、狼が人の脅威である→人が狼を根絶させる→鹿が増える→鹿が草を食べる。→森林が荒廃する→人が狼を再導入。以上のようなことも相互作用していたんだなと再認識させられるような例だ。まあ、大風が吹けば桶屋が儲かるようなものである。多様性の上でお互いに影響を与え合いながら実在が保たれているようにみえ、関係が発生しなければそこには在ることができない。そこには、その時々に在るという奇跡の瞬間がある。

 食べる、食べられる関係は一見、弱肉強食のヒエラルキーのように見える。だが、同じ生存空間を分かち合い、互いに他の種の数を調整しながら、共存する関係を結び合っているのだ。結果的に一種類の生物がその場を独占するよりもはるかに多くの生物量が存在でき、より多くの種類が、物質とエネルギーの循環も促進され自然の円環が保たれるらしい。

 物が存在し続けると勘違いしてしまった生物は、物が無くなった際に不思議に思う。柊介は手に持っていたものがなくなるとそれを切なげに見つめて不満そうな顔をする。少し前までは目の前からおもちゃが無くなることもそのまま受け入れていた。子が大人になるのは思っているより早いのかもしれない。

 お花が枯れるということを知っている人はそれを不思議に思わない。そういうものだと知っている。枯れると実がなることを知っている。人は人の一生の時間を軸に、時間について考える。切花の寿命は数日である。そこに人自身の生涯の縮図を投影し、ある事の奇跡を確かめ、散ることを不思議だと思わなくしようとしたのではないだろうか。人が切花を楽しむようになるより遙か昔、ヒトが弱肉強食の中にいた時に感じていた、生きている奇跡をである。

 自身が偶然に今、姿形としてあるように思えるだけで、無いという状態を当たり前の事として、受け止め、ある事を前提に生きるのと関係性の上で一時的に現れ出ていることを前提に生きるのでは大きな違いが出る。切花はその状態をよく表しているように思える。

 切花は枯れる。来年にもう一度お花を咲かすことはない。土から切り離された状態である。私はこの状態が不思議な、一種の神秘的な状態でもあるように思う。

 花を生けることは、人がヒトでいるために大きなきっかけを創ると考えている。

 お釈迦さんは、この世にある形あるものは、この世に永遠に存在する唯一絶対的な存在のものではなく、あらゆる因縁によって生まれているという事も唱えていた。

 在る事は無いことにできない。無いものとして考えた時点でそれは在る。たまたまの偶然を楽しみ、そこでは良い、悪いは大きな問題ではない。日々、奇跡の瞬間を生きている。

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